越後明暗寺の旅と越後鈴慕・三谷の曲について
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越後鈴慕と越後三谷について(その1)2021.11.28
越後鈴慕と越後三谷の曲は、新潟の斎川梅翁師が吹かれていたのを、神如道師や岡本竹外師、坂野如延氏、小山峯嘯師が伝承され、今日、それぞれの門下の方々が演奏されています。先日、明暗蒼龍会の2代目会長・故・高橋峰外氏宅に出掛けて、尺八や資料を受け継ぎました。その中に、この曲を演奏したテープが見つかりました。演奏者は神如道師、坂野如延師、岡本竹外師、小山峯嘯師、山上月山師、竹内史光師、また越後鈴慕の曲は、桜井無笛師、坂口鉄心師のテープもありました。その中で、昭和57年8月30日に、足立晴舟師から、斎川梅翁伝の越後鈴慕、越後三谷の曲の演奏について、坂野氏と小山氏の演奏にどうして違いがあるのかと岡本竹外師にテープとともに、いずれが正しいのかと質問状が送られてきました。坂野如延師のテープは昭和43年6月30日に演奏されたもの。小山峯嘯師のテープは昭和45年7月8日に演奏されたものです。伝承の難しさは、習った時の師匠の年齢により大きく違いがでます。例えば、明暗導主会の長老でした、故・高橋呂竹先生から何度も聞いた話ですが、石巻に住んでいました後藤桃水先生に布袋軒鈴慕、布袋軒産安を習うのに東京から7年間、後藤桃水先生が亡くなるまで稽古に通ったが、すでに後藤先生は高齢で、歯がすべて抜け落ちて尺八は吹けないので、口で歌われるのをノートにメモ書きをし、時々は弟子の木村江桃師がきたので、この曲を吹いてもらったが、実際にはものにならなかったと言われました。後に、自分よりずいぶん前に九州の人が習っていたことを知り、その人物が佐賀県の山上月山師であることを知り、今度は週末に飛行機で福岡空港に行き、さらに電車で佐賀県嬉野に住んでいました、山上月山師に習いに出かけたが、すでに山上月山師が病気で、尺八を吹かれたが、ユリなのか、病気での体の震えかは判断できず、震えがないものとして習ったそうです。この例えのように、小山峯嘯師が、岡本竹外師宅を訪問した時に、坂野如延師との違いについての、小山峯嘯師の回答としては、すでに斎川梅翁師が高齢で尺八が思う様に吹けず、床で横になっていた斎川梅翁師から、口で歌われたのをメモ書きをしたので、相違がでたとのこと。この時、岡本竹外師から、私の楽譜を参考にしなさいと、楽譜をもらい帰られたそうです。また、神如道師の楽譜については、坂野如延師の弟子、長堀栄延氏から、坂野氏の稽古の厳しさを聞くことが出来ました。この曲に命を懸けていました坂野如延氏、稽古で2行ばかり吹いたら、いきなり楽譜をひっくり返すので、暗譜できない自分は、吹くことが出来なかったそうです。その為、こっそり、すでに亡くなっていた、神如道師宅で、奥さんから、この曲の楽譜を買って、浅草浅草寺の境内で、一生懸命稽古して、少し安心した気持ちで坂野如延師宅に稽古に出かけたそうです。いざ稽古になったら、稽古をしてきた手で吹いたら、坂野如延師の顔が鬼の形相になり、誰からそんな手を習ったかと、机を叩いて激怒したそうです。その怖さに、ただ下を向いて体の震えが止まらなかったそうです。それだけ、坂野如延師は真剣だったのに、自分は大変な過ちをしてしまったと、このことは坂野如延師が亡くなるまで、頭から消えなかったそうです。岡本竹外師もこの曲だけは後世に残すようにと言われましたが、坂野如延師の気迫のこもった、音源や楽譜も残されています。今の時代に、お湯を掛けた即席の演奏は何處でも見ることができますが、真剣に本物を求める若者がいないのは残念なことです。
越後鈴慕と越後三谷について(その2)2021.11.28
越後鈴慕と越後三谷について(その4)2021.11.28
兵庫県在住、小出虚風先生より以前、送っていただきました資料を掲載します。
越後鈴慕随筆(東京・岡崎自修)
昨年、神保三谷について放談致しましたところ、意外な反響で御迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳もありません。御迷惑ついでに、亦々越後鈴慕についてよしなし事を御聞き下さい。この様に申しますのも先日御送付戴きました 十九回如道忌の献奏曲目を拝見しますと神保三谷から、バン字及美各様の鈴慕が挙げられており、吹禅の大道に開かれた如道門が茲にもう一段広く開かれた様に感ぜられて、その昔、如道師が常々云われていたことを思い出したからです。『ワシは全国から曲を集めたが、これからはこの曲をそれぞれ又元の所へ還すことがワシの務めだ』と云うのが師の信条でしたが、甲州乙黒寺の所伝と云われるバン字が山梨の人達により、又、神保師が京の旅愁を謳い上げたと思わせる神保三谷が京都の同人によって献曲されることには感慨深いものがあります。 扨て越後鈴慕ですが、この曲は如道師、越後三谷譜の奥書に越後明暗寺の『準曲』として伝る旨の記述があります。師は嘗てこの曲をラジオの電波に乗せられたことがある由を他から聞き及んでいますが、何故か割愛された様で、私の知る限りでは譜としても音としても残されていません。私がこの曲を初めて耳にしたのは昭和二十六、七年頃だったでしょうか。師の指示で当時新潟鉄工所の技術部長であった岡本竹外師に御一緒願って越後明暗寺最後の虚無僧である斎川梅翁師をお訪ねした時のことでした。そのころ私は如道師の許で越後三谷を既に挙げ、蓮芳軒巣籠に夢中になっている最中で、竹外師が大変な執着を示されたにも拘らず、全く上の空で梅翁師の竹音さへも『成程随分変わった吹き方』と云う印象を受けたに過ぎませんでした。今にして想えば実に残念なことでしたが所謂『馬鹿の後悔くやむに似たり』で、己の愚を責めるばかりです。私が只今の処参照しているこの曲の譜は、岡本竹外、小山峰嘯並びに山上月山三師によるものです。この外、坂野如延師も採譜されていると聞いております。耳から受け取った所では竹外、峰嘯両師とも大体同様でして一は明暗的に洗練され他はより素朴ですが却って越後の味が多く残されている様な感じを受けます。月山師の竹音には接していませんので何とも云えませんが譜面からすると竹調で前記両氏と多少異なった受取り方をされている様です。亦この曲の竹調の部分に附せられた註記をつなぎ合わせて見ますと、この曲が龍が風の如くに来たって背を現わし尾を掉って立ち去る如く吹くものとされていますが、これは恐らく越後明暗寺に伝る昇り竜、降り龍の掛け軸にヒントを得た解説であろうと思われます。私が特に気に掛るのは月山譜の『刻み息』と云う註記です。この註記は他の二譜には『二声五音』或は『五声五音』と註してありますが、この息づかいは如道師越後三谷の吹き出しで『ロツー』の大きなユリに続くブ・・・・・と刻んだ息使いを指すもので師が『打ちよせては引いて行く日本海の波の音』と称せられた部分を云うものと考えられます。師の三谷は全曲到る処にこの息使いが聞き取れますが、鈴慕に於いてもやはりこの息使いがなければ『越後明暗』の特色が出ないのではないでしょうか。越後は往時より京の文化と東北の文化との接点乃至流通ターミナルとしての地点にあり洗練された文化と素朴な詩情とが調和し、融合して出来上がった『美しき曲』として鈴慕が『荘厳な曲』として三谷が越後明暗の代表曲としてあったのではないでしょうか。併し日本列島日本海側の夏も冬も厳しい気象条件と苛酷な生活条件を考えると、之に対する激しい気魂がこれらの曲に内蔵されている筈だと思います。この事は根笹派のコミ吹き、俗曲では津軽ジョンガラの激しさにも云えるのではないでしょうか。本曲奏者の一部では『奥州の曲は陰気に沈んで』と称せられる向きもある様ですが、私には如何してもその様には受け取ることが出来ません。兎に角、未熟な素人の妄想かも知れませんが、洗練された文化、素朴な詩情、激しい気魂の調和を如何に表現するか。如道師の『言い度い事は竹で言え』を胸に刻んで精進し度いと考えて居ります。大方の叱声を乞う次第です。(昭和59年3月2日自修)
越後鈴慕随筆(東京・岡崎自修)
昨年、神保三谷について放談致しましたところ、意外な反響で御迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳もありません。御迷惑ついでに、亦々越後鈴慕についてよしなし事を御聞き下さい。この様に申しますのも先日御送付戴きました 十九回如道忌の献奏曲目を拝見しますと神保三谷から、バン字及美各様の鈴慕が挙げられており、吹禅の大道に開かれた如道門が茲にもう一段広く開かれた様に感ぜられて、その昔、如道師が常々云われていたことを思い出したからです。『ワシは全国から曲を集めたが、これからはこの曲をそれぞれ又元の所へ還すことがワシの務めだ』と云うのが師の信条でしたが、甲州乙黒寺の所伝と云われるバン字が山梨の人達により、又、神保師が京の旅愁を謳い上げたと思わせる神保三谷が京都の同人によって献曲されることには感慨深いものがあります。 扨て越後鈴慕ですが、この曲は如道師、越後三谷譜の奥書に越後明暗寺の『準曲』として伝る旨の記述があります。師は嘗てこの曲をラジオの電波に乗せられたことがある由を他から聞き及んでいますが、何故か割愛された様で、私の知る限りでは譜としても音としても残されていません。私がこの曲を初めて耳にしたのは昭和二十六、七年頃だったでしょうか。師の指示で当時新潟鉄工所の技術部長であった岡本竹外師に御一緒願って越後明暗寺最後の虚無僧である斎川梅翁師をお訪ねした時のことでした。そのころ私は如道師の許で越後三谷を既に挙げ、蓮芳軒巣籠に夢中になっている最中で、竹外師が大変な執着を示されたにも拘らず、全く上の空で梅翁師の竹音さへも『成程随分変わった吹き方』と云う印象を受けたに過ぎませんでした。今にして想えば実に残念なことでしたが所謂『馬鹿の後悔くやむに似たり』で、己の愚を責めるばかりです。私が只今の処参照しているこの曲の譜は、岡本竹外、小山峰嘯並びに山上月山三師によるものです。この外、坂野如延師も採譜されていると聞いております。耳から受け取った所では竹外、峰嘯両師とも大体同様でして一は明暗的に洗練され他はより素朴ですが却って越後の味が多く残されている様な感じを受けます。月山師の竹音には接していませんので何とも云えませんが譜面からすると竹調で前記両氏と多少異なった受取り方をされている様です。亦この曲の竹調の部分に附せられた註記をつなぎ合わせて見ますと、この曲が龍が風の如くに来たって背を現わし尾を掉って立ち去る如く吹くものとされていますが、これは恐らく越後明暗寺に伝る昇り竜、降り龍の掛け軸にヒントを得た解説であろうと思われます。私が特に気に掛るのは月山譜の『刻み息』と云う註記です。この註記は他の二譜には『二声五音』或は『五声五音』と註してありますが、この息づかいは如道師越後三谷の吹き出しで『ロツー』の大きなユリに続くブ・・・・・と刻んだ息使いを指すもので師が『打ちよせては引いて行く日本海の波の音』と称せられた部分を云うものと考えられます。師の三谷は全曲到る処にこの息使いが聞き取れますが、鈴慕に於いてもやはりこの息使いがなければ『越後明暗』の特色が出ないのではないでしょうか。越後は往時より京の文化と東北の文化との接点乃至流通ターミナルとしての地点にあり洗練された文化と素朴な詩情とが調和し、融合して出来上がった『美しき曲』として鈴慕が『荘厳な曲』として三谷が越後明暗の代表曲としてあったのではないでしょうか。併し日本列島日本海側の夏も冬も厳しい気象条件と苛酷な生活条件を考えると、之に対する激しい気魂がこれらの曲に内蔵されている筈だと思います。この事は根笹派のコミ吹き、俗曲では津軽ジョンガラの激しさにも云えるのではないでしょうか。本曲奏者の一部では『奥州の曲は陰気に沈んで』と称せられる向きもある様ですが、私には如何してもその様には受け取ることが出来ません。兎に角、未熟な素人の妄想かも知れませんが、洗練された文化、素朴な詩情、激しい気魂の調和を如何に表現するか。如道師の『言い度い事は竹で言え』を胸に刻んで精進し度いと考えて居ります。大方の叱声を乞う次第です。(昭和59年3月2日自修)
越後明暗寺の旅の思い出(その1)(1991.8.24~25)
明暗蒼龍会の夏季研修旅行で越後明暗寺の墓前献奏と、新潟鐵工所のクラブハウスにて岡本竹外先生指導による研修会を開催しました。平成3年8月24日、東京まで上越新幹線が乗り入れになり、東京駅で集合して新幹線で燕三条駅に、燕三条駅から越後明暗寺墓地にはタクシーに分乗して向かいました。現地では、地元の越後明暗流保存会の皆さんと合流して献奏をしました。その後、タクシーで新潟市内の新潟鐵工所のクラブハウスで研修会の後、昼食会、夕食は岡本竹外先生が新潟鐵工所勤務時代に通われた、古町の料亭で夕食会を開催、その後、ホテル金壽に宿泊しました。