弘前の旅の思い出アルバム(その3)
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弘前の旅(その1)(2015.7.28)
弘前の旅(その1)(2015.10.12~10.15)
今回の弘前の旅は、平成27年10月12日の朝7時に自宅を出発、東京駅から東北新幹線で新新青森駅経由で弘前に向かいました。13日は、朝から悪天候で嵐でした。弘前公園は菊祭りの最中、弘前城は天守の石垣改修工事で天守閣が曳家で移動していました。禅林街の乳井月影師の墓前での献奏は雨降りで出来ませんでした。鰺ヶ沢の海も大荒れでした。秋田犬のわさおを見てから強風の中を五所川原の先の稲垣温泉に藤田竹心氏を招待しました。藤田竹心氏は、肝心の尺八を自宅に忘れたので、車で往復2時間かけて自宅まで帰ってきました。14日は、黒石市の廃校跡に、八王子のクレヨン画家・孫内あつしさんが泊まりで来ていました。夜、一人で2階の今日で寝ていると、不気味な音が聞こえて怖くなるとのことでした。当日は原田氏の青森ねぶたの写真展と孫内あつしさんのクレヨンがが展示されていました。孫内あつしさんが私の尺八を聞きたいとのことで、3尺管で阿字観を吹きましたが、会場に原田氏の知人で現代舞踏家の伊藤ユカさんが来ていて、私の尺八に合わせて、創作の踊りを披露してくれました。
弘前の旅(その2)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その4)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その5)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その6)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その7)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その9)(2015.10.12~10.15)
弘前の旅(その1)(2016.5.12~5.16)
今回の弘前の旅、弘藩明治一統誌に記載のある、津軽藩の五音師ノ部に尺八として、士族・伴勇蔵、僧・耕春院哲長と記載があります。また笛のところには、士族佐田大ノ丞(錦風流初代宗家・乳井月影の兄)この調査と、錦風流伝承会の会員のみなさんに地無し管の奏法の指導をしてほしいとのことで、平成28年5月12日、自宅を午前7時に出発、東京駅から東北新幹線で新青森駅に、ここで乗り換えて弘前に向かいました。この日は、錦風流県技芸保持者故・松岡竹風先生の奥さんが、昨年、亡くなられたとのことで、以前、訪問した時に、竹風先生の奥さん(おばあちゃん)の手料理をご馳走になったので、仏前に焼香のため訪問、夕方から岩木山麓の野風パン工房の板垣さんに尺八の指導を予定していました。
弘前の旅(その2)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その3)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その5)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その6)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その7)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その8)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その10)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その11)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その12)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その13)(2016.5.12~5.16)
5月15日は西目屋村から工事中の津軽ダムを見学に出かけました。途中、西目屋村の道の駅に立ち寄り、道路向かい側の白神ビジターセンターの立派な建物の中を見学しました。駐車場では、たくさんの孟宗竹を加工している人物がいました。話を聞いたら栃木県那須から村長に頼まれて、竹のオブジェを製作しているとのこと。名前は向井さんでした。孟宗竹は栃木県那須町からトラックで搬送したとのこと。向井さんから、竹の割方を教わりました。昼食時間になったので、道の駅に一緒に食べに出かけました。その後、道の駅の裏の住宅が喫茶店になっているとのことで、一緒にコーヒータイムになりました。私は尺八製作で真竹が専門ですが、向井さんは、世界をめぐり、大木のオブジェの製作をしているとのこと。いろいろな国で製作した巨大な作品の写真を見せていただきました。ここで竹のナスラが完成したら、今度はベトナムに出かけるとのことでした。向井さんの作品は青森県内の各地にあるとのこと。この西目屋の奥、津軽ダムに向かう途中の川岸にもあると聞き、見に出かけることにしました。
弘前の旅(その14)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その15)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その16)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その17)(2016.5.12~5.16)
弘前の旅(その1)(2015.5.8~5.12)
今回の弘前の旅は、禅林街・壽松院の墓地に錦風流尺八、二代宗家の永野旭影師が埋葬されているかどうかの確認をすることと、大阪から竹友の飛田氏が来るので、一緒に旅行をするために出かけることにしました。5月8日、朝7時に自宅を出発、東京駅から東北新幹線で新青森駅まで、ここから乗り換えて弘前に向かいました。5月9日は、弘前グランドホテルで朝食を済ませて、早朝散歩に禅林街に向かいました。盛雲院では初代・錦風流宗家・乳井月影師の墓前で献奏、隣の正光寺に移動して、津島孤松師の墓前で献奏をしました。
弘前の旅(その2)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その3)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その4)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その6)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その8)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その9)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その10)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その11)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その12)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その15)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その16)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その18)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その20)(2015.5.8~5.12)
今年も5月8日、すでに桜の花も散り、葉桜の緑が美しい弘前を訪問しました。弘前城は天守閣下の石垣の大規模改修工事の最中で、お濠も埋め立てられ、お濠の中に工事用の仮設道路が整備され、工事車両が出入りしていました。五月九日の早朝、いつものようにホテルでの朝食を済ませて、早朝散歩で、弘前公園から、藤田記念館の前を通り、曹洞宗の寺院が並ぶ禅林街に向かいました。最初は盛雲院の墓地にあります錦風流初代宗家・乳井月影師の墓前での献奏をし、その並びにあります正光寺の墓地に移動し、乳井月影師の弟子、津島孤松師の墓前での献奏を済ませ、裏道を抜けて禅林街のメイン道路に出て、鳳松院を訪問しました。鳳松院は、虚無僧研究会の献奏大会の前日に、献奏大会に参加された方々を観光に案内したことがあります。鳳松院の寺宝としては、先々代住職・黒滝大休和尚の描かれた釈迦一代記の油絵があります。大休和尚は、油絵を学んだ頃は、仲間に棟方志功氏がいました。また、2001年、タリバンにより破壊されましたバーミヤン石仏も、それ以前に、大休和尚は、現地でスケッチし、油絵で描いた作品が現在、弘前博物館に展示されています。その鳳松院を訪ね、先代住職の奥さん、黒滝さんにお会いしました。鳳松院は、錦風流外伝・鶴の巣籠の名人として東京や大阪で活躍されました乳井建道師の奥さんの実家であり、また、乳井建道師の長女・田村琴子さん、長男の乳井宏さんは、黒滝さんとは、従兄弟同士で、毎年、桜の季節には、墓参りを兼ねて、さいたま市在住の田村琴子さんや、東京品川区に在住の乳井宏さんは弘前の鳳松院に来ていました。その、田村琴子さんや、乳井宏さんの近況を聞きたくて、黒滝さんを訪ねたわけです。黒滝さんのお話では、田村琴子さんは、昨年の9月に92歳で亡くなり、また、乳井宏氏も今年の1月に88歳で亡くなったとのことでした。また、黒滝さんから、今日の午後、東京の乳井宏さんの納骨が盛雲院で行われるので、私も午後から盛雲院に出かけるとのことでした。私も、当日の午後二時頃に盛雲院に出かけて、本堂裏の墓地で、乳井宏さんの奥さんや長男の新之助さんに、お会いすることができました。乳井さん家族に、あなた方の先祖は、尺八の名人であり、私は弘前訪問の度に、乳井家の墓前で尺八の献奏をしていることを話すと大変喜んでいただきました。その後、今度は、隣のお寺、寿松院の墓地を訪ねました。寿松院の奥さんは、隣の鳳松院の生まれなので、この二軒のお寺は親戚同士です。以前、錦風流尺八の先師の墓参りの時に、松岡金一氏、松岡幸一郎氏の墓が見つからず、寿松院の奥さんや娘さんに、お世話になったことがあります。今回の目的は、神田可遊氏が、尺八評論に錦風流尺八二代宗家・永野旭影師の墓が寿松院にあるのではと、記事に書かれていました。その記事には、お寺さんからの回答に、永野はないが、長野はあると書いてありました。そのため、今回、墓地に入り確認をしたところ、松岡家の墓の前方に、雪で倒れた墓石に永野氏の文字あり、その隣の墓石も永野氏とありました。さらにその横には、永野、長野の墓石が九基寄せ墓になっていました。この件の詳細調査は、地元の錦風流伝承会の高橋勝良さんに、お願いをして、弘前を後にしました。その後、高橋勝良氏さんから、二度ばかり寿松院を訪問し、住職に調べていただいた事を手紙で報告していただきましたので、その内容を、ここに紹介します。平成27年5月11日、寿松院の住職との面談でわかった事。永野氏と表記された墓石は、現在11基確認することができる。その他に、明治になって永野家から長野家に表記変更をした墓石が一基あり、現在は、その長野家が檀家登録をしているが、改姓のいきさつや、永野雄次郎(旭影)氏の件は不明とのこと。旧士族が明治になって改姓、改名した事は、よくあった。(昭和20年まで)家督相続法(権)の事から、長子、長男がストレートに相続することが一般的であった為、次男以下は相続権が無かった分、本家の墓に入るのがたて前であったので、大きい一族では、とんでもない人数の仏様を埋葬することになって、一部分離、あるいは分墓という形で墓石が増えてきたが、結局、長い間に忘れ去られたものも多いとのこと。因みに住職と、あらためて見ましたが、永野一族の代表格である現・長野氏の墓誌には昭和十七年没の永野雄次郎(旭影)氏の表記はなかったので、その名前の示すように長男ではなかったのでしょう。どの墓に埋葬されたかは不明とのことです。後日、高橋勝良さんは、門前の花屋で花を買って、寿松院を再度訪問したところ、住職は、高橋勝良さんは、永野家とは、よほど縁の深い人間ではないかと思われたのか、丁寧に説明をしていただきました。寿松院の先住・先々住が墓地、墓石の確認と、檀家登録の確認を徹底させていなかったことが、今日の不明という答えにつながったとのことで住職から深々と頭を下げられことには、こちらも恐縮した次第です。無情なようですが、寿松院では、倒れた永野氏と隣の永野氏の二基については、何十年もお参りする人もいないので、雪で倒れたことをきっかけに、無縁墓に合葬したいようです。宗家の永野雄次郎(旭影)氏が亡くなったのが昭和17年の戦時中であり、家人も、お寺も出征したり、仮埋葬したりと、正確に帳面に記載されない事実が山ほどあった時代背景を考えると、仕方がない話かも知れません。以上が、高橋勝良氏の調査報告です。盛雲院にあります初代宗家・乳井月影師や孫の乳井建道師の墓、あるいは隣の正光寺にあります津島孤松師のように、今でも末裔の方や尺八家が、お参りする墓もあれば、永野雄次郎(旭影)氏のように無縁仏になる墓もあることは残念な事です。
弘前の旅(その21)(2015.5.8~5.12)
弘前の旅(その1)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その2)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その4)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その5)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その6)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その7)(2014.10.10~10.14)
第4回沼田面松斎顕彰会開催のご案内(平成26年9月吉日)
沼田面松斎顕彰会会長 佐藤圭一郎
光明山誓願寺第48世住職 小坂匡宏
爽秋の候、皆様には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、平成23年に迎えた弘前城築城400年を記念して発足した「沼田面松斎顕彰会」も、今年で第4回顕彰会開催の運びとなりました。これもひとえに皆様の多大なご理解ご支援のたまものと心から感謝申し上げる次第です。
誓願寺を菩提寺として眠る沼田面松斎は、弘前藩祖津軽為信公の津軽統一の軍師として、機略縦横の才腕をふるっただけでなく、風水や易学に通じ津軽の要にふさわしい弘前城と町割りの場所選定など、こんにちの津軽そして弘前の発展に多大な功績を残したことは広く知られているところです。当日の記念講演会も津軽近世史のエキスパートを講師にお迎えし、毎回好評をいただいております。今年は神奈川県在住で尺八の明暗蒼龍会副会長の前川耕月先生に、津軽錦風流尺八の講演と献奏とをお願いしております。ご多忙の折、誠に恐縮ではございますが、講演会に引き続き偉大な先人の功績を偲ぶご歓談の場としての懇親会も開きますので、ご参会を心よりお待ち申し上げます。
沼田面松斎顕彰会会長 佐藤圭一郎
光明山誓願寺第48世住職 小坂匡宏
爽秋の候、皆様には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、平成23年に迎えた弘前城築城400年を記念して発足した「沼田面松斎顕彰会」も、今年で第4回顕彰会開催の運びとなりました。これもひとえに皆様の多大なご理解ご支援のたまものと心から感謝申し上げる次第です。
誓願寺を菩提寺として眠る沼田面松斎は、弘前藩祖津軽為信公の津軽統一の軍師として、機略縦横の才腕をふるっただけでなく、風水や易学に通じ津軽の要にふさわしい弘前城と町割りの場所選定など、こんにちの津軽そして弘前の発展に多大な功績を残したことは広く知られているところです。当日の記念講演会も津軽近世史のエキスパートを講師にお迎えし、毎回好評をいただいております。今年は神奈川県在住で尺八の明暗蒼龍会副会長の前川耕月先生に、津軽錦風流尺八の講演と献奏とをお願いしております。ご多忙の折、誠に恐縮ではございますが、講演会に引き続き偉大な先人の功績を偲ぶご歓談の場としての懇親会も開きますので、ご参会を心よりお待ち申し上げます。
弘前の旅(その8)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その9)(2014.10.10~10.14)
弘前の旅(その1)(2014.5.8~5.12)
今回の弘前の旅、大阪から飛田剛敏さんが弘前に出かけるので、その日程に合わせて、私は平成26年5月8日の朝、7時に自宅を出発、東京駅から東北新幹線で新青森駅経由で弘前に出かけました。弘前公園も遅咲きの桜が咲いていました。9日は朝から天候が悪くて、寒い中での観光になりました。藤田竹心氏の車で、田町の高橋勝良氏宅に出かけ、広崎駅前のホテルで大阪の飛田氏を乗せて、田舎舘村庁舎から佐藤新子さんの案内で黒石市内を観光しました。佐藤新子さんは、錦風流の工藤兵一氏が愛用されていた形見の地無し2尺管を持参してくれるとのことで拝見させてもらいました。
弘前の旅(その2)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その3)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その4)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その5)(2014.5.8~5.12)
10日の朝、弘前グランドホテルでの朝食を済ませてから、早朝散歩で新寺町にあります報恩寺に出かけました。錦風流流し六段の名人であった、禅林街・蘭庭院17世・鉄山芳樹和尚は亡くなったのち、遺骸は先祖の東海林家の墓に葬られました。その墓を探し、墓前で献奏をすることが出来ました。弘前市新寺町にあります報恩寺は、明暦元年(1655年)江戸で死去した弘前藩三代目藩主信義の菩提を弔うため、明暦2年に四代目藩主信政が創立したもので、以後、歴代藩主の菩提寺として、その伽藍は壮麗を極めたが、数度の火災に遭い、現在の建物は宝永元年(1704年)に信義五十回忌に当たって再建されたことが棟札に記録されている。現在は、弘前藩主の墓塔は禅林街・曹洞宗長勝寺に移転している。この報恩寺に、錦風流外伝・流し六段の名手と知られた、蘭庭院の十七世・鉄山芳樹和尚が葬られた東海家の墓があります。蘭庭院芳樹和尚については、昭和11年東奥日報新聞記事や、広瀬寿秀氏が明治二年弘前絵図:人物と景色を探してに記載されていますので、ここにその一部を紹介します。文政年間(1820年頃)尺八の名手と言われた弘前禅林街・曹洞宗 蘭庭院の十七世住職芳樹和尚(1801-1841)は、弘前藩士東海正蔵氏の三男に生まれた。芳樹和尚には4人の男の兄弟があって、和尚はその三人目であるが、同和尚の弟、甚兵衛という人が、同藩の永井家(昭和11年当時は弘前市土手町永井薬店の祖先)に養子となり、抱節と号した俳諧師で一日に一千句を物にして、これを西茂森町大行院に奉納したことがあり、東海家にも、その控えがあったが、弘前大火の際、焼いてしまった。何故、芳樹和尚や抱節にしろ弘前藩士である東海家生まれて藩士にならなかったのかと言うに、同家の祖先、東海伊兵衛(注・吉兵衛の間違いか)は大浦城に居を構えていた津軽為信公の弘前城築城の際、縄張り役(現今の監督)を務めたので、当時の慣例で城郭築城の文章を焼却し一家は落人して津軽を後に、現在の兵庫県に渡り、年を経て帰国、鰺ヶ沢に上陸、百姓をし、それより弘前市紺屋町に居住を構え、「兵庫屋」という屋号で酒造業を営んだ、正蔵氏の代になって再び、足軽軽輩として士分になったが、其子供たちは、皆、自分の望む道に落ち着いた結果であると言われている。ここで陸羯南の新聞日本を手伝った赤石定蔵、海軍造船少将で山田純三郎とともに中国革命に関わった東海勇蔵と、その兄、東海健蔵の父、栄蔵は、その父親と思われる正蔵のころに、紺屋町の造り酒屋で繁盛し、武士株を買った可能性がある。東海栄蔵の家は田茂木町の外れに付け足したようにあるには、こういった事情によるものかも知れない。芳樹和尚は東海家の三男で、東海栄蔵の長男健蔵からみれば、叔父ということは、東海正蔵の長男か二男が栄蔵、三男が芳樹和尚、四男が抱節ということになる。一方、城縄張りがいくら機密であるからといって、その担当者を落人にさせることはなさそうで、東海吉兵衛には、その兄弟に伊兵衛というものがいて、何かの事情で落人となって兵庫に渡ったのかも知れない。蘭庭院・十七世鉄山芳樹和尚は没後、先祖のお墓、新寺町報恩寺の墓地にあります東海家の墓に眠っています。
弘前の旅(その6)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その8)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その9)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その10)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その11)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その12)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その13)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その15)(2014.5.8~5.12)
弘前の旅(その17)(2014.5.8~5.12)
11日、ホテルの朝食を済ませ、尺八の稽古の後、鰺ヶ沢の海の駅「わんど」に立ち寄り、昼食を済ませ、2階にある相撲博物館で舞の海の寄贈された品々やビデオ映像を見てから、次の目的地である光信公の館に向かいました。
「光信公の館のパンフより光信公の館」
概要
延徳3年(1491)、大浦光信公は、南部下久慈(岩手県久慈市)から36人の武将を率いて、種里の地に入部したとされます。光信公は種里城を居城として、周辺豪族との合戦を制しながら、津軽平野に進出して大浦城(弘前市大字五代)を築城し、津軽統一の礎をつくりました。
大永6年(1526)10月8日、光信公は種里城において死去しますが、2代盛信公、3代政信公、4代為則公と地歩を固めて着々とその勢力を伸ばし、5代為信公(初代津軽藩主)により津軽統一がなされました。こうして、光信公は津軽藩の始祖として仰がれ、種里城跡は「津軽藩発祥の地」とされてきたのでした。「光信公の館」は鯵ヶ沢町の町制施行100周年記念事業のひとつとして、平成2年(1990)6月に開館。種里城跡に所在し、城跡の発掘資料や津軽藩ゆかりの資料などを展示しています。「光信公の館」を含む一帯は史跡公園として整備されており、光信の御廟所のほか、発掘遺構の平面展示などが見学できます。また館の前庭には、鎧兜に身を固めた光信公の銅像、また津軽家の家紋にちなんで800本のぼたんが植えられており、毎年5月下旬~6月上旬にぼたん祭りが行われています。
「光信公の館のパンフより光信公の館」
概要
延徳3年(1491)、大浦光信公は、南部下久慈(岩手県久慈市)から36人の武将を率いて、種里の地に入部したとされます。光信公は種里城を居城として、周辺豪族との合戦を制しながら、津軽平野に進出して大浦城(弘前市大字五代)を築城し、津軽統一の礎をつくりました。
大永6年(1526)10月8日、光信公は種里城において死去しますが、2代盛信公、3代政信公、4代為則公と地歩を固めて着々とその勢力を伸ばし、5代為信公(初代津軽藩主)により津軽統一がなされました。こうして、光信公は津軽藩の始祖として仰がれ、種里城跡は「津軽藩発祥の地」とされてきたのでした。「光信公の館」は鯵ヶ沢町の町制施行100周年記念事業のひとつとして、平成2年(1990)6月に開館。種里城跡に所在し、城跡の発掘資料や津軽藩ゆかりの資料などを展示しています。「光信公の館」を含む一帯は史跡公園として整備されており、光信の御廟所のほか、発掘遺構の平面展示などが見学できます。また館の前庭には、鎧兜に身を固めた光信公の銅像、また津軽家の家紋にちなんで800本のぼたんが植えられており、毎年5月下旬~6月上旬にぼたん祭りが行われています。