乳井建道師のこと
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錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その1)
平成23年5月6日から9日まで弘前に錦風流尺八・歴史調査の旅に出かけました。今回の調査は、錦風流尺八初代宗家・乳井月影師の墓に、孫で錦風流尺八の名人でした乳井建道(建蔵)師が一緒に眠っているかどうかの確認でしたが、乳井月影師の菩提寺、弘前禅林街の曹洞宗・盛雲院を訪問して、住職に聞いたところ、一緒に眠っていることがわかりました。また、乳井建道師の長男・乳井宏が東京に住んでいるが、高齢のため最近は弘前には来ていないとのことでした。川崎の自宅に戻って5月13日に乳井宏宅を訪問しましたが留守でした。後日、電話で乳井宏氏と話すことができました。乳井氏は父親の尺八については何も知らないとのことでした。そのため、弘前市の竹友、藤田竹心氏に連絡をして、弘前市禅林街・曹洞宗鳳松院(乳井建道師の奥さんの実家)の先代住職の奥さん、黒滝さんに問い合わせをしてもらったら、乳井建道師の長女・田村琴子さん(大正12年生まれ)がさいたま市に住んでいることを教えてもらいました。事前に電話連絡をして、6月15日の午後、田村琴子さん宅を訪問しました。田村琴子さんは元気で、父親の乳井建道師の形見の品々を封筒に入れて大切に保管されていました。その中に、明治16年に乳井月影師により発行された錦風流尺八本調子之譜の原本もありました。その他、写真や免状、楽譜、経歴書などがありました。また、平成11年に田村琴子さんが再版されました、錦風流尺八本調子之譜も10冊いただきました。拝見させていただいた資料の中で写真が不鮮明な箇所もあり、再度連絡をして6月24日に田村さん宅を訪問しましたが、今回は猛暑で琴子さんは体調が悪いとのことで、弘前のことは忘れたとのことでした。帰りに再版された錦風流尺八本調子之譜を90冊いただきました。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その2)
故・乳井建道師が所蔵していました尺八雑記の記事
乳井建道師が錦風流尺八の師匠・折登清助(如月)師の筆記より之を転写す。時に昭和6年3月8日と書かれた文章の紹介
瀧落ノ曲 源雲海
瀧落シノ曲ハ春ハ勝絶、夏ハ鳧鐘、秋ハ神仙、冬ハ壱越ニ吹ク曲デアリマシテ一名、産安トモ云ヒ、妊婦ノ方ニ向ツテ吹ク時ハ安産スルト云ヒ伝ヘラレテ、古来色々ノ芽出度イ儀式ニ用ヒルシ、明暗流デハ奥伝ノ曲デ有リマシテ、一ノ高音ハ勝絶調爽鐘調、二ノ高音ハ盤渉調ノ爽調ニ吹キ、又 一ノ高音ハ男瀧、ニノ瀧ハ女瀧デス。ソノ壮巌ナル周囲ノ情緒ト谷嵐風韻洞抜ノ響キ、男瀧、女瀧ノ表情ハ仲々ムナシキモノテ音韻ハ口傳トナッテ居リマス。
巣籠と題して、鶴の生態を細かく書かれた記事があります。
その一部に神保政ノ助師について書かれた記事の紹介。
神保氏ノ巣籠ハ一名三谷巣籠トモ申シマシテ胡弓ト仝ジ手モアリマセンシ外曲式ニ、拍子ヅイテモオリマセン、眞ニ古典ノ本曲ラシイモノデアリマス。人、五常ノ道ヲ吹キナス曲デアリマスカラ人物、技量共備ワッタ人デナケレバ吹キ得ナイノダソウデアリマス。コノ曲体ヲ申しマスト 一、竹調 二、三谷(サンヤ) 三、 三十六ユスリ 四、巣籠(タバ音アリ) 五、
子別レ(タバ音アリ) 六、鉢返シ 七、大結ビノ順序ニナッテ居リマス。竹調ハ竹ノ調子、心ノ調子、息ノ調子等ヲ調ベルノデアリマス。
(鶴の巣籠の情景と奏法の解説の文章は略)
神保政治ノ助氏ハ福島県三春ノ産デ、旧姓ヲ藤村ト申シ神保方ヘ養子ニ入ツタ方デス。相当ナ士族ニ生マレ刀剣ノ研ギ師 ヲ本職トシ隻眼デアリマシテ、上品ナ立派ナ人物デ一時、越後下田ノ明暗寺の門下トナッタ。同地横越村ニ居シ虚無僧行脚ヲシテ居ラレマシタガ、明治十四年竹友、加藤了斎ト共ニ仙台ニ来タリ後、福島地方転住シテ大正七年六十八斎デ鎌田村ニ永眠致シマシタ。一尺九寸ノ愛管ヲ携ヘテ眞ニ風月ヲ友トシ「吹ケハ行キ吹カネハ行カヌ虚無僧ノ風マカセシ為コソ安ケレ」ノ境涯ヲ送ツタ方デアリマス。同氏ノ開イタ竹ニハ○ニ正ノ銘ガ入レテアリマス。
乳井建道師が錦風流尺八の師匠・折登清助(如月)師の筆記より之を転写す。時に昭和6年3月8日と書かれた文章の紹介
瀧落ノ曲 源雲海
瀧落シノ曲ハ春ハ勝絶、夏ハ鳧鐘、秋ハ神仙、冬ハ壱越ニ吹ク曲デアリマシテ一名、産安トモ云ヒ、妊婦ノ方ニ向ツテ吹ク時ハ安産スルト云ヒ伝ヘラレテ、古来色々ノ芽出度イ儀式ニ用ヒルシ、明暗流デハ奥伝ノ曲デ有リマシテ、一ノ高音ハ勝絶調爽鐘調、二ノ高音ハ盤渉調ノ爽調ニ吹キ、又 一ノ高音ハ男瀧、ニノ瀧ハ女瀧デス。ソノ壮巌ナル周囲ノ情緒ト谷嵐風韻洞抜ノ響キ、男瀧、女瀧ノ表情ハ仲々ムナシキモノテ音韻ハ口傳トナッテ居リマス。
巣籠と題して、鶴の生態を細かく書かれた記事があります。
その一部に神保政ノ助師について書かれた記事の紹介。
神保氏ノ巣籠ハ一名三谷巣籠トモ申シマシテ胡弓ト仝ジ手モアリマセンシ外曲式ニ、拍子ヅイテモオリマセン、眞ニ古典ノ本曲ラシイモノデアリマス。人、五常ノ道ヲ吹キナス曲デアリマスカラ人物、技量共備ワッタ人デナケレバ吹キ得ナイノダソウデアリマス。コノ曲体ヲ申しマスト 一、竹調 二、三谷(サンヤ) 三、 三十六ユスリ 四、巣籠(タバ音アリ) 五、
子別レ(タバ音アリ) 六、鉢返シ 七、大結ビノ順序ニナッテ居リマス。竹調ハ竹ノ調子、心ノ調子、息ノ調子等ヲ調ベルノデアリマス。
(鶴の巣籠の情景と奏法の解説の文章は略)
神保政治ノ助氏ハ福島県三春ノ産デ、旧姓ヲ藤村ト申シ神保方ヘ養子ニ入ツタ方デス。相当ナ士族ニ生マレ刀剣ノ研ギ師 ヲ本職トシ隻眼デアリマシテ、上品ナ立派ナ人物デ一時、越後下田ノ明暗寺の門下トナッタ。同地横越村ニ居シ虚無僧行脚ヲシテ居ラレマシタガ、明治十四年竹友、加藤了斎ト共ニ仙台ニ来タリ後、福島地方転住シテ大正七年六十八斎デ鎌田村ニ永眠致シマシタ。一尺九寸ノ愛管ヲ携ヘテ眞ニ風月ヲ友トシ「吹ケハ行キ吹カネハ行カヌ虚無僧ノ風マカセシ為コソ安ケレ」ノ境涯ヲ送ツタ方デアリマス。同氏ノ開イタ竹ニハ○ニ正ノ銘ガ入レテアリマス。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その3)
乳井建道師の祖父、初代・錦風流尺八宗家・乳井月影師が明治16年に書き残した根笹派所傳「錦風流尺八本調子之譜」の原本が行方不明であったが、昭和6年8月8日、弘前市禅林街・盛雲院での月影翁37回忌追善演奏会にて、高坂月心氏の好意で原本が乳井家に戻ってきたので、乳井建道師がガリ版刷りで再版されました。弘前での錦風流尺八家の家には、この本が形見として残されています。では、昭和20年に亡くなられた乳井建道師が所蔵していました、明治16年の原本はいずこに。なんと、その原本を、乳井建道師の長女・田村琴子さんが、父の形見として所蔵していました。その原本を拝見すると、最初のページを開けば、長利仲聴直筆で錦風流尺八の由緒が、そして末尾には長利仲聴の花押が書かれています。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その4)
故・乳井建道師が所蔵していました祖父で初代錦風流尺八宗家・乳井月影師が明治16年に著した錦風流尺八本調子之譜より一閑流六段の楽譜。乳井月影師の弟子で津軽三名人と言われました、二代目宗家・永野旭影師と青森で多くの弟子を育てました津島孤松師の系統では、この曲はコミを入れませんが、町方の手法で知られました折登如月師の系統では、この曲にコミを入れて吹きます。
月影翁の註によれば、「一閑流六段、但五段、六段傳なし、是の六段は元来、蘭庭院住職芳樹和尚の手なり、伴先生種々の曲を吹き調べたれども六段は知らざりし、依って先生芳樹に就き伝習を乞えども固く諾せず、依って先生夜深彼の院裏に潜み遂に六段を聞き吹き調べし事を得しとぞ、口伝あり、近代、野宮氏東京茶川徳交の譜に拠り五段六段を私作し其声調頗る是迄の一二三四段に類す、また山上氏近代筝を学び尺八合奏六段を発明する所あり依って二氏の精密なる譜を著述あらん事を希望す。芳樹和尚は、一閑先生の弟子なりとぞ、依って一閑先生と右に拳くる者なり、一閑先生の事は尺八唱歌一枝方と云書に見えたり一閑先生の二代目琴古先生は是又名人にて遂に一流の元祖となる、今の東京尺八指南荒木古童は琴古の末流なり。初段より二段に渉り三段より四段に渉り次第に間をせまむべき口伝あり。
月影翁の註によれば、「一閑流六段、但五段、六段傳なし、是の六段は元来、蘭庭院住職芳樹和尚の手なり、伴先生種々の曲を吹き調べたれども六段は知らざりし、依って先生芳樹に就き伝習を乞えども固く諾せず、依って先生夜深彼の院裏に潜み遂に六段を聞き吹き調べし事を得しとぞ、口伝あり、近代、野宮氏東京茶川徳交の譜に拠り五段六段を私作し其声調頗る是迄の一二三四段に類す、また山上氏近代筝を学び尺八合奏六段を発明する所あり依って二氏の精密なる譜を著述あらん事を希望す。芳樹和尚は、一閑先生の弟子なりとぞ、依って一閑先生と右に拳くる者なり、一閑先生の事は尺八唱歌一枝方と云書に見えたり一閑先生の二代目琴古先生は是又名人にて遂に一流の元祖となる、今の東京尺八指南荒木古童は琴古の末流なり。初段より二段に渉り三段より四段に渉り次第に間をせまむべき口伝あり。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その6)
乳井建道師の再版されたガリ版では、一閑流六段は伝承の四段までが掲載されていますが、原本では、野宮玉洗師・山上影琢師の合作による五段、六段が記載されています。
参考までに、原本はA-5版で表紙の文字は劣化のため読むことができません。
参考までに、原本はA-5版で表紙の文字は劣化のため読むことができません。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その7)
乳井建道師は、錦風流尺八は折登如月師の弟子ですが、東京に出てからは、錦風流二代目宗家・永野旭影師から、掲載写真の師範免状をもらっていることがわかりました。また、都山流尺八も奥伝の免状もありました。掲載写真にありますが、昭和8年、九州明暗の大家・津野田露月師から乳井建道師に贈られた書状もありました。長さが78cmの巻物。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その8)
乳井建道師遺稿より
今回、弘前市代官町に錦風流尺八道場を開設し、後進者を指導することにしたが、尺八は往時仏門修禅に用いられた事跡に鑑み、普通音楽とは自ずから類を異にし精神修練に資する事、多大なるを疑わない。即ち、往時、普化宗の法器として修禅に吹奏された曲を、今日では古典本曲と称するのである。錦風流の諸曲も其の遠原法器尺八から出て居る事は勿論、其の曲名から推しても首肯さるるのである。然らば、この法器尺八が如何なる経路をたどって津軽藩に伝来し、誰人に依って現在の型になったか、誰人に依って錦風流と名付けられたか。又、現況はどうであるか。仰々、錦風流の曲は津軽九代藩主寧親公に依って、我が津軽の里に植え付けられたものである。寧親公は如山と号し管曲の道いそしみ給い、特に尺八をよくした人である。尺八の本曲
は武士として習わしめてよいものだと御主旨だったでありましょう。当時の侍臣、吉崎好道を文化13年に当時普化宗大本山金龍山一月寺へ派遣せられ、根笹派の諸曲を修業せしめた。 修業3年、文化元年7月に本則を授与され、帰藩以来、門人を取り立てて尺八を伝授した。而して、この本則は、今日、伝わっている。中略・・現在の如き曲風に完成したのは何と言っても乳井月影の絶大な力であると認めるのである。明治16年、月影翁は錦風流尺八本調子之譜を苦作したのが、錦風流の名が世に出た第一歩であった。原本は自分が尚、大切にしている。錦風流伝曲として下り葉、松風、三谷清攬、獅子、通里、流鈴慕、六段、虚空、上記曲のうち、六段は吉崎好道門人、弘前蘭庭院住職・芳樹和尚の伝うるもので芳樹和尚は弘前。田茂木町の人、幼にして仏門に入り、江戸に上がり、一月寺に入り、初代琴古門人、宮地一閑先生に就き尺八の修業をし、後に蘭庭院の住職になった。芳樹和尚は蘭庭院の庭に石碑を建て、吹きちらし、我はうき世の北南の句と愛用の一尺八寸管の形を彫り付けた。是は近頃、発見 されたのである。月影翁の明治初年より明治中頃までが錦風流の最も隆盛を極めた名人が輩出した。翁は後継者として、朝夕、熱心に教え込まれた人は、永野旭影師である。永野旭影師は現存者で、月影翁の楽風を最も完全に伝えている一人である。月影翁は明治28年、64歳で他界し、永野旭影師は明治35年に弘前を離れた為、当地の人の多くは師の竹韻を味わって居ないのが残念である。永野旭影師は、目下、東京市牛込区に在住し、後進の指導をして居る。自分も、永野旭影師、折登如月師を師とし多年、努力修業し、錦風流の全国的発展に努力しつつある。神如道氏、井上重美氏、其の他、在京竹界の有力者多数して、錦風流の発展に助力された。又、各流各地の大家に交際を求め錦風流の批評をこうた。即ち、東京の宮川如山、浦本浙潮(明暗)、川瀬順輔(琴古)、名古屋の加藤西園(西園流三代)、京都の小林紫山、谷北無竹、勝浦正山、浦山正義、大阪の奥村夢山、熊本の津野田露月(明暗流)、以上は現代古典尺八の大家である。現代の竹界本曲家にして錦風流の名を知らぬ者はない迄に有名になっている。錦風流は武士的な豪壮な曲として唯一のものと言って禅らないのである。郷土の士人は宜しく、この曲を研究し名曲を永世に伝統せしめられんことを希望する次第である。
今回、弘前市代官町に錦風流尺八道場を開設し、後進者を指導することにしたが、尺八は往時仏門修禅に用いられた事跡に鑑み、普通音楽とは自ずから類を異にし精神修練に資する事、多大なるを疑わない。即ち、往時、普化宗の法器として修禅に吹奏された曲を、今日では古典本曲と称するのである。錦風流の諸曲も其の遠原法器尺八から出て居る事は勿論、其の曲名から推しても首肯さるるのである。然らば、この法器尺八が如何なる経路をたどって津軽藩に伝来し、誰人に依って現在の型になったか、誰人に依って錦風流と名付けられたか。又、現況はどうであるか。仰々、錦風流の曲は津軽九代藩主寧親公に依って、我が津軽の里に植え付けられたものである。寧親公は如山と号し管曲の道いそしみ給い、特に尺八をよくした人である。尺八の本曲
は武士として習わしめてよいものだと御主旨だったでありましょう。当時の侍臣、吉崎好道を文化13年に当時普化宗大本山金龍山一月寺へ派遣せられ、根笹派の諸曲を修業せしめた。 修業3年、文化元年7月に本則を授与され、帰藩以来、門人を取り立てて尺八を伝授した。而して、この本則は、今日、伝わっている。中略・・現在の如き曲風に完成したのは何と言っても乳井月影の絶大な力であると認めるのである。明治16年、月影翁は錦風流尺八本調子之譜を苦作したのが、錦風流の名が世に出た第一歩であった。原本は自分が尚、大切にしている。錦風流伝曲として下り葉、松風、三谷清攬、獅子、通里、流鈴慕、六段、虚空、上記曲のうち、六段は吉崎好道門人、弘前蘭庭院住職・芳樹和尚の伝うるもので芳樹和尚は弘前。田茂木町の人、幼にして仏門に入り、江戸に上がり、一月寺に入り、初代琴古門人、宮地一閑先生に就き尺八の修業をし、後に蘭庭院の住職になった。芳樹和尚は蘭庭院の庭に石碑を建て、吹きちらし、我はうき世の北南の句と愛用の一尺八寸管の形を彫り付けた。是は近頃、発見 されたのである。月影翁の明治初年より明治中頃までが錦風流の最も隆盛を極めた名人が輩出した。翁は後継者として、朝夕、熱心に教え込まれた人は、永野旭影師である。永野旭影師は現存者で、月影翁の楽風を最も完全に伝えている一人である。月影翁は明治28年、64歳で他界し、永野旭影師は明治35年に弘前を離れた為、当地の人の多くは師の竹韻を味わって居ないのが残念である。永野旭影師は、目下、東京市牛込区に在住し、後進の指導をして居る。自分も、永野旭影師、折登如月師を師とし多年、努力修業し、錦風流の全国的発展に努力しつつある。神如道氏、井上重美氏、其の他、在京竹界の有力者多数して、錦風流の発展に助力された。又、各流各地の大家に交際を求め錦風流の批評をこうた。即ち、東京の宮川如山、浦本浙潮(明暗)、川瀬順輔(琴古)、名古屋の加藤西園(西園流三代)、京都の小林紫山、谷北無竹、勝浦正山、浦山正義、大阪の奥村夢山、熊本の津野田露月(明暗流)、以上は現代古典尺八の大家である。現代の竹界本曲家にして錦風流の名を知らぬ者はない迄に有名になっている。錦風流は武士的な豪壮な曲として唯一のものと言って禅らないのである。郷土の士人は宜しく、この曲を研究し名曲を永世に伝統せしめられんことを希望する次第である。
錦風流尺八の名人・乳井建道師のこと(その9)
乳井建道師の形見の品の中に、この記事が残されていました。演奏された年月日は不明です。松風の曲は、本手を乳井建道師が、曙調子を錦風流二代目宗家・永野旭影師が演奏しています。この頃に、乳井建道師は、永野旭影師から師範免状をもらったのでしょうか。また、獅子の曲は乳井建道師が、最初の師匠であった折登如月師と合奏をしています。本調子を乳井建道師が、曙調子を折登如月師が演奏しています。乳井建道師は、最初は錦風流尺八・町方の手法の名手・折登如月師について学び、後に東京に出てからは、二代目宗家・永野旭影師について侍片の手法を学び師範免状をもらいました。乳井建道師は、名手であったので、町方の手法、侍方の手法を使い分けすることができたのでしょう。現代では、錦風流尺八本曲を演奏される方が、たくさんいますが、自分がどの手法で吹いているのか、その違いがわかるでしょうか。