弘前の旅の思い出アルバム(その2)
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弘前の旅(その1)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その2)(2013.10.10~10.14)
この楽譜は明治35年弘前市生まれで、亀甲町で材木商を営んでいました工藤兵一氏が書き残されたもにです。工藤兵一氏は弘前市住吉町の住吉神社宮司(山村祐孝師・昭和29年11月30日没)から尺八を学ばれました。工藤兵一氏は平成11年に亡くなりました。
楽譜の錦風流及び琴古流本曲目録(第1巻)
一二三調、本調子・調、下り葉、松風の調、松風、三谷清攬、獅子、流し鈴慕、通里、門附、鉢返し、虚空、流し六段、宮城鈴慕、鶴の巣籠、夕暮の曲(大竹氏)、鹿の遠音(琴古)、三谷菅垣(琴古)、下野鈴慕(琴古)、鉢返し、調(曙調子)、下り葉(曙調子)、松風の調(曙調子)、松風(曙調子)、三谷清攬(曙調子)、獅子(曙調子)、流し鈴慕(曙調子)、通り(曙調子)、門附(曙調子)、鉢返し(曙調子)、流し六段(曙調子)、調(雲井調子)、下り葉(雲井調子)、流し六段(雲井調子)、三谷清攬(雲井調子)、奥州鈴慕、吉野鈴慕(琴古)、葦草鈴慕(琴古)、吟龍虚空(琴古)、下り葉の曲(琴古)、波間鈴慕(琴古)、鳳将雛(琴古)、京鈴慕(琴古)、盤渉調(琴古)、巣籠鈴慕(琴古)以上
楽譜の錦風流及び琴古流本曲目録(第1巻)
一二三調、本調子・調、下り葉、松風の調、松風、三谷清攬、獅子、流し鈴慕、通里、門附、鉢返し、虚空、流し六段、宮城鈴慕、鶴の巣籠、夕暮の曲(大竹氏)、鹿の遠音(琴古)、三谷菅垣(琴古)、下野鈴慕(琴古)、鉢返し、調(曙調子)、下り葉(曙調子)、松風の調(曙調子)、松風(曙調子)、三谷清攬(曙調子)、獅子(曙調子)、流し鈴慕(曙調子)、通り(曙調子)、門附(曙調子)、鉢返し(曙調子)、流し六段(曙調子)、調(雲井調子)、下り葉(雲井調子)、流し六段(雲井調子)、三谷清攬(雲井調子)、奥州鈴慕、吉野鈴慕(琴古)、葦草鈴慕(琴古)、吟龍虚空(琴古)、下り葉の曲(琴古)、波間鈴慕(琴古)、鳳将雛(琴古)、京鈴慕(琴古)、盤渉調(琴古)、巣籠鈴慕(琴古)以上
弘前の旅(その3)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その4)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その5)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その6)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その7)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その8)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その10)(2013.10.10~10.14)
弘前の旅(その1)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その2)(2013.5.31~6.4)
錦風流・津島孤松師の弟子:阿部孤鶴(凶介)師のこと。平成25年5月31日調査(北海道函館市訪問)。阿部凶介氏は明治30年生まれ。昭和54年没。阿部凶介氏について、函館在住の長女の方から話を聞くことが出来ました。阿部凶介氏は新潟県の生まれ、生まれた年は天候不順で作物は不作であったが、子供には禍がないようにと、両親が凶介という名前を付けたとのこと。錦風流尺八は昭和5年に青森市の津島孤松師に入門、昭和6年10月に免許皆伝となる。錦風流五調子、鶴の巣籠を伝承した。瀧谷治郎(孤瀧)氏は、この年に津島孤松師に入門をした。函館在住の阿部孤鶴師宅に東京から稽古に通った長堀榮次(孤雪)氏は昭和54年に免許皆伝となる。長堀孤雪氏から生前に、阿部孤鶴師直筆の五調子の楽譜を拝領しました。訪問した日は、阿部孤鶴師の仏前で、錦風流調を献奏させていただきましたが、長女の方から、お父さんが、いつも吹いていた曲で、昔を思い出したとのこと。今回は、折登如月作の1尺8寸管で献奏しましたが、その尺八を見た、長女から、お父さんの吹いた尺八はもっと長かったとのこと。当然、阿部孤鶴師は津島孤松師門下なので、折登如月作の太い2尺管を吹いていたので、私の尺八が小さく見えたのでしょう。また、阿部凶介氏は、琴古流尺八は、初代川瀬順輔師の弟子。作八の雅号は華堂。函館では、多くの弟子を育てて活躍、初代川瀬順輔、里子夫妻を、たびたび招いては、函館公会堂で三曲の演奏会を開催したとのこと。冬の雪が舞う函館公会堂で、川瀬順輔、里子夫妻の「雪」の演奏は、すばらしいものであったと、阿部凶介氏の長女は、なつかしそうに語られた。また、長堀孤雪氏の看板は、長堀氏が東京・木場で購入した板を風呂敷に包み持参したもの、すぐに父親の阿部孤鶴師が墨を用意して書き上げたとのことでした。長堀孤雪氏が入門した当時、すでに錦風流など習う人もなく、弟子はみな三曲合奏の人たちだったとのこと。今では、函館には阿部凶介(孤鶴。華堂)氏の伝承者はいません。さみしい限りである。帰りに長女の方から、錦風流尺八の看板を拝領しました。また、津島孤松師直筆の錦風流五調子の楽譜、5冊は阿部孤鶴師が亡くなったあと、長女の方が東京に出かけた折、法身寺の虚無僧研究会に寄贈したとのことでした。拝領しました看板、包むものもなく、チンチン電車、函館駅などで片手に看板を抱えていると昔の道場破りの映画のような姿、駅のホームで看板片手に記念撮影を頼まれたりで、弘前のホテルまで道中、恥ずかしい気持ちでした。
弘前の旅(その3)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その4)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その5)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その6)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その8)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その9)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その10)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その11)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その12)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その13)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その14)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その15)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その16)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その17)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その18)(2013.5.31~6.4)
弘前の旅(その1)(2012.9.7~9.10)
平成24年9月7日、川崎の自宅を午前7時に出発、東京駅から東北新幹線で新青森駅経由で弘前に午後1時に到着しました。今回の旅は、10月7日に虚無僧研究会の献奏大会が誓願寺で開催されるので、地元の世話役の代表、藤田竹心氏と最終の打ち合わせをするためでした。9月7日弘前市郷土文学館では長利仲聴の資料が展示されていました。この後、誓願寺に挨拶に出かけましたが、誓願寺本堂に掲げられています伴勇蔵先生の追善額、長利仲聴が書いたと言われていますが、その文章を小坂住職が活字化されて、来訪の方に差し上げているとのことで、その文章を掲載しました。
弘前の旅(その3)(2012.9.7~9.10)
9月7日は、弘前の隣、大鰐町にあります不二やホテルに藤田竹心氏を招待しました。このホテルは戦前に弘前の大家で自宅が全焼した、折登如月師が、夏になれば東京から、この不二やホテルに避暑に来ていたということです。このホテルのオーナーは美術品の蒐集家で、島津の大名籠が展示してありました。この大名籠の解説を記載しますと、NHKの大河ドラマで放送中の篤姫が夫家定公亡き後天璋院として大奥ですごしていた1867年、パリにおいて万国博覧会が開かれた。ナポレオン三世からの招聘をうけた日本国として江戸幕府が参加、出品したが、すでに倒幕の機運が盛り上がりつつあった篤姫の里薩摩藩も幕府に対抗して独自に参加、出品した。薩摩を紹介する工芸品など多数が出品されたが、その中に島津の大名籠があった。博覧会終了のその後その大名籠がどのような経緯を経たか不明であるが、1989年ニューヨークのクリースティーズのオークションに現れた。世界中からオーダーがあったが日本の杉山仁治氏が競り落とした。杉山氏は東京の自宅にそれを保管していたが、このたび青森県大鰐町の不二やホテルで展示し一般公開することになった。単なる運搬具でなく工芸品としても一級品である。保存状態もきわめてよく、諸藩において財政を立て直していた数少ない裕福であった国、薩摩藩の経済力を示す豪華絢爛たる一品である。
弘前の旅(その4)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その5)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その6)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その7)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その8)(2012.9.7~9.10)
ついかの9
弘前の旅(その11)(2012.9.7~9.10)
昭和10年、昭和天皇の弟、秩父宮殿下が弘前歩兵31連隊に勤務することになり、その宿泊所は菊池別邸でした。その時に、錦風流尺八家の斎藤周童、山谷孤山師の二人が、御前演奏をしました。また、秩父宮殿下警護のために、写真の紺屋町臨時巡査派出所に、作家・寺山修司のの父、寺山八郎が巡査として勤務しました。この建物も、老朽化のために、昨年から改修工事が始まりましたが、原型を残して、復元工事が完了しました。下段の写真の道路を少し先に進み、右に曲れば、錦風流尺八の祖・伴勇蔵師の菩提寺・誓願寺があります。今年の10月7日は、この誓願寺で虚無僧研究会の献奏大会が開催されます。追記:地元の錦風流尺八家・高橋勝良さんから聞いた話では、自分の錦風流尺八の師匠・松山定之助氏は、桶職人であったので、秩父宮殿下が菊池別邸に宿泊された時の風呂桶を製作したとのこと。稽古の時に、松山定之助氏が口にしたのは、「火事になったら、秩父宮殿下の風呂桶を一番に持ち出すように」こう指示されていたようです。この菊池別邸も後に火事で焼失しています。
弘前の旅(その12)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その13)(2012.9.7~9.10)
弘前の旅(その1)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その2)(2012.5.11~5.14)
その後、浄土宗誓願寺を訪問しました。誓願寺には、錦風流尺八の祖・伴勇蔵建之師の墓もあり、本堂には伴勇蔵師をたたえ、明治20年に地元の錦風流尺八家・50名が名前を連ねた額も掲げられています。また、弘前城や弘前の町並みを風水などの知識で決めたと言われています軍師・沼田面松斎の墓もあります。誓願寺にあります錦風流尺八の祖・伴勇蔵建之師の墓前で、阿部敏行氏が献奏をしました。その後、誓願寺客殿にて、10月の献奏大会について、小坂住職との打ち合わせをさせていただきました。
弘前の旅(その3)(2012.5.11~5.14)
平成24年5月11日、虚無僧研究会の小菅会長、幹事の阿部敏行氏と、虚無僧研究会の献奏大会を秋に弘前誓願寺で開催するために、弘前に出かけました。地元の錦風流県技芸保持者・平尾雄三氏、藤田竹心氏・板垣孝尚氏には、大変お世話になりました。11日の夜は、平尾雄三氏宅において歓迎会を開催していただきましたが、その席に、近所の錦風流尺八家・三戸建次氏が出席されましたが、三戸氏が、秩父宮殿下の前で御前演奏をしました、斎藤周童氏が愛用されました、錦風流二尺管を持参され、拝見することができました。この尺八は地無し延べの二尺管です。箱書きには、秩父宮殿下御手付之笛と書かれています。この尺八には、作者の銘がありませんが、おそらく折登如月作でしょうか。御前演奏で一緒に演奏されました、山谷孤山(義雄)氏の尺八は、折登如月作、地付き中継ぎの二尺管で、如月の焼き印がありました。津軽弁で吹く、錦風流には、このような道具が必要です。
弘前の旅(その4)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その5)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その6)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その7)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その8)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その9)(2012.5.11~5.14)
弘前の旅(その1)(2011.11.4~11.7)
今回の弘前の旅、11月4日の朝午前7時に自宅を出発、東京駅から東北新幹線はやてに乗車、新青森経由で弘前駅に午後12時42分に到着しました。弘前公園では菊祭りが開催されていました。弘前公園を散策の後、午後6時前に五所川原在住の斎藤氏が井上重美作の尺八を所蔵しているとのことで、役所の勤務が終わり次第、弘前の藤田竹心氏宅に尺八を持参してくれるとのことで、待機していたら午後6時前に到着しました。地元の町長は琴古流江雲会所属で、この尺八を愛用していたとのことでした。錦風流4代宗家の井上重志氏は製管わされていましたが、自分の父親(井上重美作)の尺八を所蔵していないとのことで、以前、岡本竹外先生が愛用していました井上重美作の尺八を拝見に、岡本先生宅に来られたことがありました。11月5日は、弘前公園を散策の後、紅葉の十和田湖や奥入瀬渓流の紅葉をながめ、帰りにはライトアップされた中野の紅葉を見て弘前に帰りました。11月6日は、禅林街に移動し、盛雲院で乳井月影師の墓前献奏、さらに隣の正光寺で津島孤松師の墓前献奏の後、新寺町に出かけ、内山嶺月先生、後藤清蔵先生の墓前で献奏の後、岩木山経由で深浦町に出かけました。弘前の九代藩主・寧親公の命で一月寺に入門しました吉崎八弥は、弘前の戻ったのち、この深浦奉行を勤めていました。真言宗・圓覚寺や北前舟が寄港した深浦港を観光しました。11月7日にホテルで朝食後、弘前公園を散策して、午前10時に電車で帰途につきました。帰りに藤田竹心氏が修理した井上重美作(2つ印)の1尺9寸管を土産にいただきました。