弘前の旅の思い出アルバム(その1)
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弘前の旅(2011.9.9~12)(その1)
平成23年9月9日から12日まで弘前に出かけてきました。9月9日川崎の自宅を午前7時に出発、東京駅から東北新幹線で新青森経由で弘前に午後1時31分に到着しました。9月10日は弘前グランドホテルで朝食を済ませて、弘前公園に散歩に出かけました。午前10時に藤田竹心氏と合流してまずは錦風流尺八の祖、伴勇蔵師の菩提寺・誓願寺に出かけて墓前で献奏、その後、正蓮寺に成田直道師の墓の調査、さらに真教寺の佐藤又一師の墓参りをし、禅林街に戻り、盛雲院で初代宗家・乳井月影師の墓前で献奏、隣の正光寺の津島孤松師の墓前で献奏をしました。翌日は生憎の悪天候、藤崎郊外の小学校の廃校で岩木山麓、野風パンの板垣氏がバザーでパンの販売をしているとのことで、こちらに立ち寄り、その後、青森市内に移動し、青森ねぶたの展示場、わラッセでねぶたを見学しました。
弘前の旅(2011.9.9~12)(その2)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その3)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その4)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その5)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その6)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その7)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その8)
弘前の旅(2011.9.9~12)(その9)
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その1)歴史調査の旅
平成23年5月6日から9日まで弘前を訪問しました。今回は折登如月師の弟子、柴田峰月師の墓参りでした。禅林街の海蔵寺を藤田竹心氏と訪問、住職より柴田家の墓の場所を教えていただきました。柴田峰月(三郎)氏は、津軽塗の塗師であり、在府町に住んでいました。柴田氏の弟子は松山定之助氏です。桜が満開の津軽地方、桜見物をしながら、津島孤松師の墓前で錦風流・調の献奏をしました。また、正光寺の住職にも、お会いすることが出来ました。
柴田峰月(1890~1955)
柴田峰月(1890~1955)
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その2)歴史調査の旅
昭和50年7月16日に弘前市の和徳中学校で錦風流尺八の演奏会が開催されました。
曲目
1.調・門附 柴田峰月
2.調・下り葉 柴田峰月、内山嶺月、松山定之助
3.調・下り葉 内山嶺月
この演奏会の録音、後に柴田峰月師の弟子、松山定之助氏が再編されたものを松山定之助氏の弟子、高橋涛月(勝良)氏より拝領しました。松山定之助氏の語りによれば、柴田峰月師の演奏はこれが最後で、翌月の8月に亡くなっています。柴田峰月の音源だけは独り歩きをしていますが、柴田峰月師は折登如月師の弟子で町方の奏法ですが、調の演奏でのチギリなどは、現代の演奏家が吹くものとは大きく違っていて、自然な流れに独特の味があります。譜面だけ入手して、まね事をしても出汁のない味噌汁のようなものです。錦風流の尺八も、大半は折登如月作でしたが、やはり初期のころの太い延べ管でないと、晩年の中継ぎ管や地付き管では、柴田峰月師のような味のある演奏をすることは出来ません。
曲目
1.調・門附 柴田峰月
2.調・下り葉 柴田峰月、内山嶺月、松山定之助
3.調・下り葉 内山嶺月
この演奏会の録音、後に柴田峰月師の弟子、松山定之助氏が再編されたものを松山定之助氏の弟子、高橋涛月(勝良)氏より拝領しました。松山定之助氏の語りによれば、柴田峰月師の演奏はこれが最後で、翌月の8月に亡くなっています。柴田峰月の音源だけは独り歩きをしていますが、柴田峰月師は折登如月師の弟子で町方の奏法ですが、調の演奏でのチギリなどは、現代の演奏家が吹くものとは大きく違っていて、自然な流れに独特の味があります。譜面だけ入手して、まね事をしても出汁のない味噌汁のようなものです。錦風流の尺八も、大半は折登如月作でしたが、やはり初期のころの太い延べ管でないと、晩年の中継ぎ管や地付き管では、柴田峰月師のような味のある演奏をすることは出来ません。
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その3)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その4)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その5)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その6)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その7)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その8)歴史調査の旅
弘前の旅(2011.5.6~5.9)(その9)歴史調査の旅
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その1)歴史調査の旅
今回の歴史調査の旅、事前に弘前市の竹友、藤田竹心氏より、猿賀神社宮司の山谷敬氏から、祖父の山谷義雄(孤山)が使用していました尺八や楽譜を準備しているとのこと。また、津島孤松師の弟子の岡本不二男氏の息子さんが所蔵しています父親が愛用していた尺八を見せていただけるとのことが決まったので、10月9日の早朝に自宅を出ました。今回は東北新幹線はやて7号で終点の八戸駅に、ここから特急つがる7号に乗り換えて、弘前駅に13時8分に到着しました。不要な荷物は、宿泊先の弘前グランドホテルに預けて、迎えの藤田竹心さんの車にて、山谷敬宮司さんの自宅に向かいました。5月の弘前訪問の時は、平川市の猿賀神社社務所を訪問して山谷敬氏に話をうかがうことができましたが、今回は市内にある胸肩神社の自宅で待っているとのこと。雨降りの中、胸肩神社の到着、社務所を訪ねたら、山谷氏の奥さんが、こちらにと社務所の中に案内していただきました。机の上には尺八5本と錦風流楽譜、さらに乳井建道師が昭和6年に発行しました錦風流本調子の本が並んでいました。奥さんから、まもなく主人が外出先から帰るとのことでした。10分くらいして山谷宮司が帰宅され挨拶をしました。5月の時には尺八が4本あるとのことでしたが、5本並んでいました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その2)歴史調査の旅
尺八5本の詳細は、地無し延べ2尺2寸管(銘・如月)、地付き2尺管中継ぎ(銘・如月)、地付き延べ1尺9寸管(銘・なし)、地無し延べ1尺8寸管(銘・松月)、地無し中継ぎ1尺6寸管(銘・なし)、昭和6年に乳井建道師が再版しました錦風流尺八本調子之譜の裏面には、発行された昭和6年11月10日の数日後、11月18日に乳井建道師から山谷義雄氏に贈呈と記載されていました。また、津島孤松師の直筆の楽譜には、大正8年菊月に免許皆伝を与えたことが書かれていました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その3)歴史調査の旅
上段の写真は、津島孤松師のアルバムの中の1枚、正面・前列の左から二人目が山谷義雄氏、その右が師匠の小野清作氏、その右が岡本不二男氏、この時には、津島孤松師の直門である小野清作氏は師範となり、その弟子に山谷義雄氏や岡本不二男氏がいたことがわかる。明治41年1月30日撮影の写真には、小野清作社中と書いてある。山谷義雄氏は警察官であり、猿賀神社宮司でしたが、晩年は村長をしていたとのことでした。山谷家の写真正面が山谷義雄氏、後列の左端が弟の工藤虎雄氏(工藤虎雄氏は弘前東照宮の宮司であり、錦風流尺八も名手でありました。)
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その4)歴史調査の旅
10月10日、宿泊先の弘前グランドホテルで朝食を済ませたあと、弘前公園を散策した後、弘前図書館に出かけて、虚無僧研究会の機関紙一音成仏や会報に私の錦風流尺八の歴史調査の旅が掲載されているので、その書籍を寄贈しました。その後、藤田竹心氏が車で迎えに来てくれ、津島六奥氏宅を訪問しました。ここ数日体調が悪いとのことでしたが、やっと良くなったとのことでした。弘前市の教育委員会に錦風流尺八の県技芸保持者に後藤清蔵門下の藤田竹心氏、平尾雄三氏を推薦したが、書類はすでに青森県の文化財保護課にまわり、実技試験の場所を検討中との返事があったとのこと。錦風流尺八の長老なのに、見捨てらたくやしさから、藤田さん、平尾さんを県技芸にすることを新しい目標にされました。この後、岡本不二男さんの尺八を拝見に出かけました。岡本不二男さんは津島孤松師のアルバムから、18歳の時に津島孤松師の弟子、小野清作氏に入門して錦風流尺八を学んでいたことがわかりました。岡本美登利氏の話では、父親は印刷屋をしていて、息子は4人いたが、青森市の長男はすでに亡くなり、次男は戦死、自分が三男で四男は幼少の時に亡くなったとのことでした。尺八はもう1本あったが、青森の長男が所蔵していたとのこと。楽譜は自分の家にあったが、今は見つからないとのことでした。自分が子供の時に、後藤清蔵師が先生はいますかと、車でよく迎えに来たことがあったが、自分には父親が先生と呼ばれていることが理解できなかったとのことでした。見せていただいた形見の尺八は、地無し中継ぎの2尺管で、驚くほど太い尺八でした。昔の錦風流尺八家は、こんな太い尺八を吹いていたことがわかりました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その5)歴史調査の旅
昭和56年に錦風流尺八の県技芸が認定されたときに、松岡錦堂師、松岡竹風師、後藤貫風師、津島六奥氏、平尾雄三氏、須藤任子女史さんなどが先師の墓参りをしていますが、先師の墓地の調査した手紙には、山谷孤山師や小野正市師の墓地が田町八幡宮通りと書いてありましたが、お寺がないので疑問でした。今回の訪問で山谷敬宮司に山谷家の墓は田町通りにあると聞いたので、その場所を確認に出かけました。田町の墓地を見つけましたが、すべての墓石に奥津城と文字が刻まれているので、意味が理解できず、その意味が知りたくて、その墓地の向かい側にある熊野奥照神社の社務所を訪ねました。この神社の娘さんは藤田竹心氏の知り合いとのこと。応対してくれました女性は、林宮司で、娘さんのお母さんでした。主人が亡くなり、自分が神主をしているとのことでした。向かい側の墓地の墓石に奥津城と刻まれていることを質問したら、神道では墓石に奥津城と名前を入れて(オクツキ)と読むとのことでした。再度、墓地に戻り、山谷家の墓を探していたら、立派な石碑があるのが目につきました。なんと長利仲聴の文字が目に付きました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その6)歴史調査の旅
長利 仲聴(オサリ・ナカアキラ)
文政6年(1823)~明治36年(1903)4月21日 〔享年〕81歳
弘前市・熊野奥照神社の宮司であり、国学者として和歌の方でも指導者として知られていました。錦風流尺八初代宗家・乳井月影師が明治16年に書いた錦風流尺八本調子之譜の前書きは、長利仲聴が尺八の歴史について書いています。また、弘前誓願寺の本堂にあります、錦風流の祖、伴勇蔵先生を称えて、門下50名の名前が書かれた額も長利仲聴が歴史を書いています。その長利仲聴の墓を発見できたことに感動しました。
文政6年(1823)~明治36年(1903)4月21日 〔享年〕81歳
弘前市・熊野奥照神社の宮司であり、国学者として和歌の方でも指導者として知られていました。錦風流尺八初代宗家・乳井月影師が明治16年に書いた錦風流尺八本調子之譜の前書きは、長利仲聴が尺八の歴史について書いています。また、弘前誓願寺の本堂にあります、錦風流の祖、伴勇蔵先生を称えて、門下50名の名前が書かれた額も長利仲聴が歴史を書いています。その長利仲聴の墓を発見できたことに感動しました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その6の1)歴史調査の旅
長利仲聴について弘前市立郷土文学館の解説がありますので、ここに一部を掲載します。
長利仲聴(おさり・なかあきら)は仲房の五男として文政六年(1823)十月二十八日、現、弘前市禰宜町九番地二に生まれる。幼少より岩木山神社神主、安部常陸(仲昌)、学問所和学士、斎藤熊蔵(規沖)らについて神学、和歌を学ぶ。天保六年(1835)八月、十三歳にして兄、仲好の嗣子となり、祖先より四十九代目の家督を相続す。後、代々奉仕せる熊野神社神主となる。弘化二年(1845)七月、二十三歳の時、十一代藩主順承(ゆきつぐ)公の命により、江戸の海野遊翁に従い歌道を学ぶ。嘉永三年(1850・28歳)には京都の千種有功卿の門に入り歌道を修める。同四年(1851・29歳)従五位下に叙せられ、薩摩守に任ぜられる。安政四年(1857・35歳)七月、豊富村を新たに開き、その村の氏神、豊崎稲荷神社を建立しその斎主となる。慶応二年(1866・44歳)平田鉄胤が門に入り国学を収め、明治元年(1868・46歳)社家銃隊一番組締役を申し付けられる。以後、招魂祭祭主、社人取締、学問所(稽古館)皇学士取扱、学校助教皇学掛、社家長、社務触頭を勤め、明治六年(1873・51歳)十二月岩木山神社禰宜、同十三年(1880)十一月五十八斎の時、青森県人としては最初である国幣小社岩木山神社第八代宮司に任ぜられる。更に青森県皇典講究分所長委託、同二十六年(1893・七十一歳)従七位となり、同三十二年(1899・七十七歳)正七位に叙せられ、同三十三年(1900)十一月七十八歳にして、二十年間勤めた国幣小社岩木神社宮司を依願退職する。明治三十六年(1903)四月二十二日没す。享年八十一歳。
仲聴翁は資性温順篤実と言われ、家を継いで以来、六十八年の間、神に仕え、上を敬い下を慈しみ、萬に行き届いた人であったと言う。国学の道に秀で、また桜園と号して和歌の道を極め、門人は千余人に及んだ。明治三十五年(1902)四月、起きなの八十歳の祝賀に寿ぎの書、画、和歌などを送ってくれた人は 実に二十三府県に及び五百二十人の多きに達したことも翁の交友の広きを如実に物語っている。翁は津軽地方の近世の大家と言われ、能く後進を薫陶し、風教を益し、文運を祐け、喧嘩の皇典や歌道に志すものの殆どは仲聴翁の門に入ったと言う。更に翁は能書家としても名を上げ、地方風流人士の献額並びに序文の揮毫にも大いに協力したと言われている。
弘前市新町の浄土宗誓願寺本堂には、錦風流尺八の祖ともいうべき、伴勇蔵建之師をたたえる額が掲げらえていますが、その額の文字も長利仲聴が書いたのではと言われています。
長利仲聴(おさり・なかあきら)は仲房の五男として文政六年(1823)十月二十八日、現、弘前市禰宜町九番地二に生まれる。幼少より岩木山神社神主、安部常陸(仲昌)、学問所和学士、斎藤熊蔵(規沖)らについて神学、和歌を学ぶ。天保六年(1835)八月、十三歳にして兄、仲好の嗣子となり、祖先より四十九代目の家督を相続す。後、代々奉仕せる熊野神社神主となる。弘化二年(1845)七月、二十三歳の時、十一代藩主順承(ゆきつぐ)公の命により、江戸の海野遊翁に従い歌道を学ぶ。嘉永三年(1850・28歳)には京都の千種有功卿の門に入り歌道を修める。同四年(1851・29歳)従五位下に叙せられ、薩摩守に任ぜられる。安政四年(1857・35歳)七月、豊富村を新たに開き、その村の氏神、豊崎稲荷神社を建立しその斎主となる。慶応二年(1866・44歳)平田鉄胤が門に入り国学を収め、明治元年(1868・46歳)社家銃隊一番組締役を申し付けられる。以後、招魂祭祭主、社人取締、学問所(稽古館)皇学士取扱、学校助教皇学掛、社家長、社務触頭を勤め、明治六年(1873・51歳)十二月岩木山神社禰宜、同十三年(1880)十一月五十八斎の時、青森県人としては最初である国幣小社岩木山神社第八代宮司に任ぜられる。更に青森県皇典講究分所長委託、同二十六年(1893・七十一歳)従七位となり、同三十二年(1899・七十七歳)正七位に叙せられ、同三十三年(1900)十一月七十八歳にして、二十年間勤めた国幣小社岩木神社宮司を依願退職する。明治三十六年(1903)四月二十二日没す。享年八十一歳。
仲聴翁は資性温順篤実と言われ、家を継いで以来、六十八年の間、神に仕え、上を敬い下を慈しみ、萬に行き届いた人であったと言う。国学の道に秀で、また桜園と号して和歌の道を極め、門人は千余人に及んだ。明治三十五年(1902)四月、起きなの八十歳の祝賀に寿ぎの書、画、和歌などを送ってくれた人は 実に二十三府県に及び五百二十人の多きに達したことも翁の交友の広きを如実に物語っている。翁は津軽地方の近世の大家と言われ、能く後進を薫陶し、風教を益し、文運を祐け、喧嘩の皇典や歌道に志すものの殆どは仲聴翁の門に入ったと言う。更に翁は能書家としても名を上げ、地方風流人士の献額並びに序文の揮毫にも大いに協力したと言われている。
弘前市新町の浄土宗誓願寺本堂には、錦風流尺八の祖ともいうべき、伴勇蔵建之師をたたえる額が掲げらえていますが、その額の文字も長利仲聴が書いたのではと言われています。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その7)歴史調査の旅
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その7)歴史調査の旅
山谷家の墓を調査した帰りに、藤田竹心氏の師匠でした故・後藤清蔵師宅を訪問しました。仏壇の前に置いてありました太い尺八を拝見しました。午後からは、弘前市から浪岡市に移動して以前、ヤフオクで折登如月作の地無し延べ1尺8寸管を入手しましたが、出品者の石村さん宅を訪問して、その尺八の出どこを聞くことが出来ました。石村さんは、自宅から車で5分くらいのところに、農機具を入れる鉄骨造り2階建ての倉庫があり、2階は趣味のシアタールームで、3面の壁には、古い柱時計が数多くかけてありました。石村さんは、古い柱時計の収集家で、たまたま旧家の蔵にある柱時計を見に出かけた時に、折登如月作の尺八を発見したとのことでした。帰りに藤田竹心氏と私に石村氏が作った米を5キロづつ土産にくれました。
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その8)歴史調査の旅
弘前の旅(2010.10.9~10.11)(その9)歴史調査の旅
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その1)
平成22年5月4日、桜が満開の弘前に向かいました。東北新幹線で盛岡駅に向かい、そこから高速バスで弘前に向かいました。弘前公園は桜が満開、夜、平尾雄三さん宅に藤田さんと出かけました。夕食前に、3人で夜桜見物をした後、平尾さん宅で奥さんの手料理をご馳走になりました。前回は、平尾さんから瀧谷孤瀧師が所蔵していました、津島孤松傳の2尺2寸管と折登如月作の地付き延べの2尺管を見せていただきました。今回は、同じく瀧谷孤瀧の吹き料、地無し2尺延管を見せていただきました。この尺八も裏面に瀧谷孤瀧の文字が彫り込まれていました。息受けの良い、太めの地無し管、本物の錦風流を吹くならば。このような尺八を使用することは、絶対条件です。今時の尺八でまねごとをしも、大道芸に過ぎません。歌口の形は、独特のもので、折登如月作の尺八も古いものは、この形ですが、その後、地付き管を製作するようになってからは、明暗流の歌口の形になりました。
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その2)
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その3)
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その4)
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その5)
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その6)
岩木山の後、山麓の別荘地にあります佐藤初女さんの森のイスキアを訪問しました。ちょうど昼時、昼食を食べていきなさいとの言葉にあまえて、秋田県から届いたホタテの刺身などもご馳走になりました。ごはんは、よく噛んで食べるようにと、少し固めに炊いているのよとのことでした。お礼に私は3尺管で阿字観を吹きました。佐藤初女さんの御主人は、錦風流尺八の佐藤又一氏、若くして病死されました息子さんは、錦風流尺八は後藤清蔵門下で藤田竹心氏と同門でした。そのことを頭に浮かべながらの阿字観、横で佐藤初女さんは、涙を流しながら聞いていました。
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その7)
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その9)
5月6日は、藤田竹心さんと黒石市を旅することにしました。車の中で藤田さんから平川市の猿賀神社のことを聞き、確か津島孤松師の弟子の山谷義雄氏は、猿賀神社の宮司をしていたと記憶していたので、途中で猿賀神社の立ち寄ってもらうことにしました。猿賀神社の大きな蓮池や土俵、津軽三味線の名人・福士の石碑んどを見たのち、猿賀神社の社務所を訪ねました。現在の猿賀神社の山谷敬宮司を出てこられ、錦風流尺八の山谷義雄氏のことを聞くと、自分の祖父とのことでした。父親は尺八を吹かなかったが、私は大学時代に琴古流川瀬派の尺八を仲間と習ったが、祖父の1尺8寸管は太くで、みんなの尺八と律が合わないので苦労したとのことでした。弘前の自宅には、祖父の尺八5本と錦風流尺八の楽譜があるとのこと。祖父の演奏した録音テープがあったが雨に濡れて、どうなったか不明とのことでした。次回、私が弘前を訪問した時には、尺八や楽譜を拝見させてもらうことを約束して猿賀神社を後にしました。
弘前の旅(2010.5.4~5.7)歴史調査の旅(その10)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その1)
今年4回目の弘前訪問になりました。弘前の藤田竹心氏より、都山流の境道山先生が錦風流の資料を所蔵されているとのことで、それを拝見するために弘前に出かけました。11月5日、川崎市の自宅を午前5時30分に出発しました。大宮駅で東北新幹線に乗り換えて、盛岡駅に午前9時25分に到着、9時40分発の高速バスで弘前駅に向かいました。昼に弘前駅に到着、昼食は藤田竹心氏に御馳走していただきました。午後1時30分に藤田竹心氏宅に津島六奥氏、境道山氏が来られました。藤田竹心氏は、昔、都山流尺八を境道山先生に学んだとのこと。境先生は、都山流竹琳軒大師範であり、元は青森県警の鑑識課に勤務されたとのこと。境道山先生の話:錦風流三代宗家、成田松影師の直門であり、琴古流江雲会師範の村上文雄氏は三曲の世界では自分と竹友であった。村上文雄氏は弘前市旭が丘に住んでいて彫刻家であった。村上文雄氏が亡くなった時に、息子さんの村上文憲氏から形見として、錦風流尺八の師範免状を額に入ったままもらった。その後、錦風流のことを調査していたが琴古流江雲会の竹友から東京の四代宗家・井上照影師を紹介してもらい、上京して井上宅を訪問をした。写真撮影をお願いしたら、わざわざ井上照影先生は和服に着替えられた。その写真を持参したとのこと。また、井上先生の免状の写しももらったので、それも持参したとのこと。また、自分が錦風流について調査したことを都山流の会報に掲載をお願いしたら、本部から錦風流をやるなら、都山流を退会するように通達が届いたとのこと。そのため、錦風流は断念したとのこと。境道山氏の知っている錦風流尺八家は。弘前大学で英語の先生をしていた工藤稜風氏がいた。父親の工藤稜風を継いで、二代目の工藤稜風を名乗っていた。また、中村秀雄氏は錦風流尺八家であり、琴古流尺八家でもあった。市内の道場で剣道の先生をしていた。私の都山流の弟子、弘前大学教授の山田史生氏は錦風流尺八の県技芸保持者になるために、都山流尺八をやめた。県技芸保持者は、青森県文化財保護課の分野で力をもっていた弘前大学虚教授の笹森建英氏のめにかなうものを推薦したようだ。
津島六奥氏の話:錦風流系譜で神如道師が錦風流尺八を学んだ人物に笹森建敏の名前が書いてあるが、自分の母親は笹森家であり、母の兄が笹森建敏とのこと。また、系譜の中に川口桂舟の名前があるが、川口氏は書道の先生で尺八は上手であったが、師匠がだれかわからない。(今回の調査では、藤田竹心氏の都山流の師匠、境道山氏に大変お世話になりました。)
津島六奥氏の話:錦風流系譜で神如道師が錦風流尺八を学んだ人物に笹森建敏の名前が書いてあるが、自分の母親は笹森家であり、母の兄が笹森建敏とのこと。また、系譜の中に川口桂舟の名前があるが、川口氏は書道の先生で尺八は上手であったが、師匠がだれかわからない。(今回の調査では、藤田竹心氏の都山流の師匠、境道山氏に大変お世話になりました。)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その2)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その3)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その4)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その5)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その6)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その7)
弘前の旅(2009.11.5~11.7)歴史調査の旅(その8)
弘前の旅(2009.9.8~9.9)歴史調査の旅(その1)
今年3回目の弘前訪問。9月8日の早朝に予定していました新幹線はやて号が満席のため予定を変更して9月7日の夜、埼玉県大宮駅前のホテルに宿泊して、8日の朝、6時30分発のやまびこ号で盛岡に向かいました。盛岡駅9時40分発、弘前行の高速バスに乗車し、12時に弘前駅に到着しました。弘前駅には藤田竹心氏が、迎えに来てくれました。市内で有名な日本そばの店、高砂で昼食をご馳走になり、ねぶた村を見学した後、正光寺の津島孤松師の墓参りを予定していたところ、津島六奥氏が、今日は19歳で交通事故死した長男の命日なので、一緒に墓参りに出かけたいとのことで、津島さん宅に迎えに行き、途中で花屋に立ち寄り、正光寺の津島家の墓で献奏させていただきました。津島孤松師の墓石の横面には、津島千代子、大正7年6月3日没、18歳と文字が刻まれていました。津島孤松師は一人娘を病気で亡くしたので、津島孤松師のアルバムを見れば、晩年、どことなく寂しいような顔に見えました。また、津島六奥さんから、津島孤松師が自慢にしていた折登如月作の地無し管、金で銘が書いてあったもの。戦後、青森市内の土建屋の社長が所蔵しているのかわかり、何度か訪問して、その尺八を買い戻そうとしたが、だめだったとのことでした。正光寺の向かい側、曹洞宗・安盛院に眠る、津島孤松師の弟子、岡本不二男さんのお墓は5月の弘前訪問では、見つけることが出来ませんでしたが、藤田竹心氏が以前、お参りしたことがあるとのことで、案内していただき、墓前で調を献奏することが出来ました。津島六奥氏は昔、青森市内で小間物屋をしていた瀧谷孤瀧師に入門しましたが、奥さんの鋭いまなざしに、3回でやめてしまい、その後、岡本不二男さんに入門しようかと思ったことがあるとのことでした。結局は松岡幸一郎師の弟子になったとのこと。夕食の後、薩摩琵琶のリサイタルを控えた平尾雄三さんの琵琶の演奏が聞きたいことを伝えたら、夜の8時頃がいいとのことで、平尾さん宅を訪問しました。前回訪問した時は、瀧谷孤瀧師の吹き料である折登如月作の地付き延べ2尺管を拝見しましたが、今回は昭和7年8月津島孤松傳と瀧谷孤瀧が文字を掘り込んだ地無し2尺2寸管を見せていただきました。瀧谷孤瀧師は昭和6年6月に津島孤松師に入門、昭和7年8月に免許皆伝を受けた時に、津島孤松師から拝領した名管です。この夜は、平尾さんが壇之浦の演奏を聞かせてくれました。
弘前の旅(2009.9.8~9.9)歴史調査の旅(その2)
弘前の旅(2009.7.29~8.3)歴史調査の旅(その1)
弘前市在住の津島六奥氏、藤田竹心氏との出会い
5月に弘前を訪問して、錦風流尺八先師の墓参りをしましたが、その時に正光寺の津島孤松師の墓、津島家の墓石はたくさん並んでいましたが、それぞれにきれいな花がお供えしてあるのが記憶に残っていました。これまで尺八界では、津軽錦風流3名人の一人、津島孤松師の写真は見たことがありませんでした。その手掛かりにと、正光寺住職に手紙をだすことにしました。5月に津島家の墓にお参りしたら、きれいな花がお供えしてあったのですが、市内に津島家の方がいたら教えていただけませんかと書きました。それから1週間くらいして、弘前市の津島六奥氏から達筆の手紙が届きました。自分は津島家の16代にあたるとのこと。先祖は弘前藩の武士で郡奉行をしていたとのこと。津島孤松(賢四郎)は自分の叔父にあたるとのことでした。手紙を読んだ後に、すぐに津島六奥さんに電話をしました。もしかして、津島孤松師の写真がないかと尋ねたところ、仏壇の引き出しに1枚あるとのことでした。私はその写真が見たいので、すぐにでも弘前に出かけたいことを伝えました。そうしたら津島六奥さんから、こんな1枚の写真のためにわざわざ弘前まで来てもらうのは気の毒だから写真は手紙で郵送するとのことでした。私は写真よりも津島さんに会いたいことを伝えたら、私が席を準備しておきますとのことでした。せっかく弘前に出かけるのに、地元の錦風流尺八家を訪問したいと思い、仙台市在住の竹友、高橋泰祐さんにお願いして、後藤清蔵門下の兄弟子、藤田竹心氏に連絡をとってもらいました。7月30日の午前9時過ぎに訪問することで了解をいただきました。7月29日の夜、東京駅前を弘前経由青森駅行の夜行バスに乗車しました。5月に弘前訪問をした時は、弘前公園が桜まつりの最中、夜行バスも臨時のバスしか空きがなく、まだ雪の残る東北、薄い毛布に簡易なカーテン、体が冷えて、とうとう朝まで寝ることは出来ませんでしたが、今回は通常の夜行バスなので、朝まで熟睡することができました。午前8時30分、定刻に弘前駅に到着しました。朝食を済ませて、藤田竹心氏宅にタクシーで向かいました。昼に津島六奥さんを訪問することを伝えたら、自分も同行したいと、津島さんに電話で了解をもらいました。昼に料亭に到着、初めて津島六奥さんに会うことが出来ました。私が、写真1枚のために遠路、弘前まで来るのは気の毒だと、自宅の物置の中から津島孤松師の形見のアルバム、楽譜も探して持参したとのことでした。弘前では錦風流県技芸保持者の松岡幸一郎、松岡俊二郎、後藤清蔵氏の3人が亡くなったあと、地元では最年長の錦風流尺八家の自分に県からお声がかかると待っていたら、どうしたことか、後藤清蔵門下の須藤任子さんや松岡俊二郎氏の門下、山田史生氏が県技芸保持者になり、大先輩として悔しい思いをしてきたとのことでした。津島六奥氏は県技芸保持者・松岡幸一郎氏のただ一人の弟子であったとのこと。松岡幸一郎氏は、非常に厳しい人物で、演奏会の事前の会議でも、松岡幸一郎氏が、声を荒げたら、弟の俊二郎氏も下を向いてただ黙って聞くだけだったそうです。青森県も錦風流県技芸保持者が何かを知る人もいないのが現状です。津島孤松師のアルバムを貸していただき、津島孤松師の立派な姿の写真を修整して、大きくして津島さんに送ったところ、額を購入して叔父の写真をいれて仏壇に飾りましたと、返事がありました。津島孤松師のアルバムには、門下の士族の弟子たちが
多数いましたが、驚いたのは、津島孤松師が、津軽郁田流のお琴の先生たちと三曲合奏をしていたことです。津島孤松師の直筆の楽譜には錦風流の他に筝曲との合奏譜面も多数ありました。また、津島さんが所蔵の、叔父の津島孤松師の形見の尺八、折登如月作の地無し1尺9寸管と1尺6寸管も見せていただきました。
5月に弘前を訪問して、錦風流尺八先師の墓参りをしましたが、その時に正光寺の津島孤松師の墓、津島家の墓石はたくさん並んでいましたが、それぞれにきれいな花がお供えしてあるのが記憶に残っていました。これまで尺八界では、津軽錦風流3名人の一人、津島孤松師の写真は見たことがありませんでした。その手掛かりにと、正光寺住職に手紙をだすことにしました。5月に津島家の墓にお参りしたら、きれいな花がお供えしてあったのですが、市内に津島家の方がいたら教えていただけませんかと書きました。それから1週間くらいして、弘前市の津島六奥氏から達筆の手紙が届きました。自分は津島家の16代にあたるとのこと。先祖は弘前藩の武士で郡奉行をしていたとのこと。津島孤松(賢四郎)は自分の叔父にあたるとのことでした。手紙を読んだ後に、すぐに津島六奥さんに電話をしました。もしかして、津島孤松師の写真がないかと尋ねたところ、仏壇の引き出しに1枚あるとのことでした。私はその写真が見たいので、すぐにでも弘前に出かけたいことを伝えました。そうしたら津島六奥さんから、こんな1枚の写真のためにわざわざ弘前まで来てもらうのは気の毒だから写真は手紙で郵送するとのことでした。私は写真よりも津島さんに会いたいことを伝えたら、私が席を準備しておきますとのことでした。せっかく弘前に出かけるのに、地元の錦風流尺八家を訪問したいと思い、仙台市在住の竹友、高橋泰祐さんにお願いして、後藤清蔵門下の兄弟子、藤田竹心氏に連絡をとってもらいました。7月30日の午前9時過ぎに訪問することで了解をいただきました。7月29日の夜、東京駅前を弘前経由青森駅行の夜行バスに乗車しました。5月に弘前訪問をした時は、弘前公園が桜まつりの最中、夜行バスも臨時のバスしか空きがなく、まだ雪の残る東北、薄い毛布に簡易なカーテン、体が冷えて、とうとう朝まで寝ることは出来ませんでしたが、今回は通常の夜行バスなので、朝まで熟睡することができました。午前8時30分、定刻に弘前駅に到着しました。朝食を済ませて、藤田竹心氏宅にタクシーで向かいました。昼に津島六奥さんを訪問することを伝えたら、自分も同行したいと、津島さんに電話で了解をもらいました。昼に料亭に到着、初めて津島六奥さんに会うことが出来ました。私が、写真1枚のために遠路、弘前まで来るのは気の毒だと、自宅の物置の中から津島孤松師の形見のアルバム、楽譜も探して持参したとのことでした。弘前では錦風流県技芸保持者の松岡幸一郎、松岡俊二郎、後藤清蔵氏の3人が亡くなったあと、地元では最年長の錦風流尺八家の自分に県からお声がかかると待っていたら、どうしたことか、後藤清蔵門下の須藤任子さんや松岡俊二郎氏の門下、山田史生氏が県技芸保持者になり、大先輩として悔しい思いをしてきたとのことでした。津島六奥氏は県技芸保持者・松岡幸一郎氏のただ一人の弟子であったとのこと。松岡幸一郎氏は、非常に厳しい人物で、演奏会の事前の会議でも、松岡幸一郎氏が、声を荒げたら、弟の俊二郎氏も下を向いてただ黙って聞くだけだったそうです。青森県も錦風流県技芸保持者が何かを知る人もいないのが現状です。津島孤松師のアルバムを貸していただき、津島孤松師の立派な姿の写真を修整して、大きくして津島さんに送ったところ、額を購入して叔父の写真をいれて仏壇に飾りましたと、返事がありました。津島孤松師のアルバムには、門下の士族の弟子たちが
多数いましたが、驚いたのは、津島孤松師が、津軽郁田流のお琴の先生たちと三曲合奏をしていたことです。津島孤松師の直筆の楽譜には錦風流の他に筝曲との合奏譜面も多数ありました。また、津島さんが所蔵の、叔父の津島孤松師の形見の尺八、折登如月作の地無し1尺9寸管と1尺6寸管も見せていただきました。
弘前の旅(2009.7.29~8.3)歴史調査の旅(その2)
弘前の旅(2009.7.29~8.3)歴史調査の旅(その3)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その1)
平成21年4月30日に夜行バスで東京駅前を出発、5月1日の早朝に弘前駅前に到着しました。弘前図書館に立ち寄り、弘前中央駅から弘南鉄道大鰐線に乗車して、千年駅に向かいました。電話連絡してありました、錦風流尺八県技芸保持者、故・松岡竹風(俊二郎)氏宅を訪問しました。前年に他界されました津島孤松系の松岡幸一郎・松岡俊二郎氏の形見の尺八や楽譜も拝見することができました。また神田可遊氏の尺八評論7号の記事に、昭和55年6月に錦風流尺八が青森県無形文化財に指定されたので、後藤清蔵氏、松岡幸一郎氏が先師の墓を調査されたことが書かれていました。その元になった手紙や、墓前での献奏写真も見ることができました。松岡家では、奥さんや娘さんの手作り料理もいただき、娘さんの御主人には、ホテルまで車で送っていただきました。5月2日は、ホテルからタクシーで錦風流尺八の祖ともいえる伴勇蔵師の菩提寺である誓願寺に向かいましたが、愛想のいい女性ドライバーが勘違いをしたのか、岩木川沿いにある津軽家の菩提寺、革秀寺前でここですと言い、私を降ろして帰りました。いざお寺の山門に行くと、誓願寺ではありませんでした。革秀寺の本堂は茅葺で、庭は桜が満開でした。とりあえず、こちらを見学してから、地図の上で誓願寺を確認して、徒歩で岩木川の流れを見ながら、なんとか誓願寺に到着。誓願寺の奥さんから
本堂にある錦風流の額の説明を聞いたり、伴勇蔵師の墓を案内してもらい献奏することができました。
本堂にある錦風流の額の説明を聞いたり、伴勇蔵師の墓を案内してもらい献奏することができました。
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その2)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その3)
新町の誓願寺を後に、禅林街にある乳井月影師の菩提寺・盛雲院に徒歩で向かいました。盛雲院の墓地は、本堂裏の階段を下った下にありました。その途中に、大きな石でできた三味線の撥がある墓が目につきました。説明を読むと津軽三味線の名人・木田林松栄師のお墓でした。ここから墓地を見下ろして、こんな広い墓地で果たして、初代錦風流宗家・乳井月影師の墓を見つけることができるか、不安な気持ちで石段を墓地におりました。足のおもむくままに墓石の間を歩いていたら、自然石でできた墓石が目にとまりました。その墓石には乳井氏とあり、その奥の少し小さな石には月影院笛聲永昌居士と刻まれていました。私に早く来て尺八を吹いてくれと言わんばかりのように感じました。
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その5)
乳井月影師の墓参りの後、隣のお寺正光寺に乳井月影師の弟子で津軽3名人の一人、津島孤松師の墓を探すことにしました。こちらも本堂横を墓地に向かうと、花がたくさん供えられた由緒あるような墓が目につきました。その数ある墓の文字が津島なので、よく見たら錦風院殿竹翁孤松居士の名前がありありました。いかにも錦風流の名人のような名前でした。昭和7年10月4日、津島賢四郎、75歳と刻まれていました。こ津島家の墓から右前方に盛雲院の墓地、乳井月影師の墓を見ることができます。亡くなっても師弟関係の強いつながりがあるのでしょうか。
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その6)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その7)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その8)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その9)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その10)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その11)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その12)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その13)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その14)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その15)
弘前の旅(2009.5.1~5.4)歴史調査の旅(その16)
弘前の旅(2009.11.6)
平成21年11月6日、弘前を訪問しました。今回は、藤田竹心氏宅にて、地元弘前三曲協会で活躍されています、都山流尺八の境道山先生にお会いすることが出来ました。境先生から、今迄、錦風流尺八の蒐集した資料を拝領しました。上段の写真は、境先生が上京された時に、錦風流尺八四代目宗家・井上照影師宅を訪問された時のものです。(平成12年1月撮影)、中段の写真は、弘前で彫刻家であった村上文雄氏が、錦風流三代目宗家・成田松影師から、もらった師範免状です。村上氏と私の師匠・岡本竹外先生は兄弟弟子になります。この免状は、村上文雄氏が亡くなった時に、境道山先生が形見にもらったものです。下段の写真は、二代目宗家・永野旭影師から三代目宗家・成田松影師に引き継がれた時の覚書です。
弘前の旅(2010.5.4)
弘前の旅(2010.5.6)
平川市にあります猿賀神社は蝦夷征伐のために北上した坂上田村麿が「神蛇宮」として建立したと伝えられていいます。上段の写真は猿賀神社の鳥居。藩政時代に入り、津軽為信公より祈願所と定められた。5月6日、猿賀神社を訪問し、山谷敬宮司にお会いして、祖父の山谷義雄氏は錦風流尺八は津島孤松師の門下であったので、尺八や楽譜が残っていないか確認をしたところ、自宅にあることがわかり、次回に弘前を訪問した時に拝見させていただきことにしました。山谷敬氏も大学時代に、川瀬派の琴古流を学んだとのことです。写真中段は、山谷敬宮司と、下段は猿賀神社の本殿。猿賀神社の境内には広大な蓮池があります。
弘前の旅(2010.5.5)
平成22年5月5日、佐藤初女さんの森のイスキアを訪問しました。佐藤初女さんは「おむすびの祈り」「いまを生きる言葉」「初女さんのお料理」の著書や、映画「地球交響曲第二番」で広く活動が知られています。森のイスキアを訪問した時に、お昼を食べて行きなさいと言葉をかけていただき、おいしい料理をいただきました。佐藤初女さんの息子さん、佐藤芳信さんは、若くして病気で亡くなっています。佐藤芳信さんは錦風流尺八は後藤清蔵氏の門下でした。ご馳走になったお礼に、3尺管で阿字観を聞いていただきましたが、佐藤初女さんは、私の演奏に涙を流しながら聞いていました。私にとっても忘れ難い旅になりました。森のイスキアの屋外で、地元の錦風流尺八家・藤田竹心氏、平尾雄三氏と3人で調、下り葉の合奏をしました。
弘前の旅:津軽軍師・沼田面松斎顕彰会(1)(2014.10.13)
弘前の旅:津軽軍師・沼田面松斎顕彰会(2)(2014.10.13)
弘前の旅(2015.10.11~10.15)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その1)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その2)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その3)
5月15日(日)白神山地に完成した津軽ダムに向かう途中、西目屋村に建てられました、すばらしい施設、白神山地ビジターセンターの敷地内で木彫りの芸術家・向井勝實氏との出会いがありました。今回の作品は、西目屋村村長の依頼で、栃木県那須から運んできました孟宗竹を使用し、長さ26mの巨大な飛行船のような作品を製作中でした。また、向井氏より、これまで海外に出かけて製作しました大木の彫刻作品のアルバムも拝見することができました。今月末にこの竹の作品も完成させ、今度はベトナムに3か月出かけるとのことでした。津軽ダムに向かう途中の川岸にも向井氏が以前に製作された木彫りの作品がありました。
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その4)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その5)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その6)
弘前の旅(平成28年5月12日~16日)(その7)
弘前からの便り(2016.8.21)
弘前からの便り(2016.9.18)
弘前の旅(2016.10.16)弘前市観光館ホールでの演奏会(その1)
10月16日、午後6時30分より弘前市観光館多目的ホールで古典尺八と根笹派錦風流尺八演奏会が開催されました。前半の演奏は地元弘前市の錦風流尺八伝承会の皆さんの演奏。
1.古典尺八曲「調子」全員での合奏
2.呼び竹ー高橋濤月 受け竹ー全員
3.錦風流「調・下リ葉」 全員
4.錦風流「松風調べ・松風」-藤田竹心
5.「三谷清攬」-高橋濤月
後半「古典尺八演奏とお話」は前川耕月が担当しました。
6.「阿字観」地無し3尺管
7.小野寺源吉傳・鶴の巣籠 地無し1尺6寸管
8.布袋軒産安・竹調べ 地無し2尺管(古管)
9「神保三谷」 地無し2尺7寸管
10.「越後鈴慕・鉢返し」 地無し2尺3寸管
1.古典尺八曲「調子」全員での合奏
2.呼び竹ー高橋濤月 受け竹ー全員
3.錦風流「調・下リ葉」 全員
4.錦風流「松風調べ・松風」-藤田竹心
5.「三谷清攬」-高橋濤月
後半「古典尺八演奏とお話」は前川耕月が担当しました。
6.「阿字観」地無し3尺管
7.小野寺源吉傳・鶴の巣籠 地無し1尺6寸管
8.布袋軒産安・竹調べ 地無し2尺管(古管)
9「神保三谷」 地無し2尺7寸管
10.「越後鈴慕・鉢返し」 地無し2尺3寸管
弘前の旅(2016.10.16)弘前市観光館ホールでの演奏会(その2)
弘前の旅(2016.10.16)弘前市観光館ホールでの演奏会(その3)
弘前の旅(2016.10.16)弘前市観光館ホールでの演奏会(その4)
弘前の旅(2016.10.15)岩木山百沢・野風パンにて(その1)
弘前の旅(2016.10.15)岩木山百沢・野風パンにて(その2)
弘前の旅(2018.5.31~6.4)(その1)
弘前の旅(2018.5.31~6.4)(その2)
弘前の旅(2018.5.31~6.4)(その3)
弘前の旅(2017.5.18~5.22)(その1)
弘前の旅(2017.5.18~5.22)(その2)
天保2年、弘前藩九代藩主・津軽寧親公の命により、この円覚寺に真竹が佐渡から移植されました。寧親公は、藩士の吉崎八弥好道を虚無僧の本山一月寺に入門させましちゃ。吉崎八弥は三年間の修行の後に、免状をもらい帰国しました。その吉崎八弥好道は、天保四年からは、この深浦に深浦奉行をして赴任しました。尺八を吹くならば、その尺八の材料となる真竹が、この地に植えられたことは、好都合ではなかったでしょうか。寒冷地に育った真竹は肉厚で竹質が堅いので、地無し管には良き材料です。
弘前の旅(2017.5.18~5.22)(その3)
弘前の旅(2017.5.18~5.22)(その4)
弘前の旅(2017.5.18~5.22)(その5)
弘前の旅(2009.5.1)錦風流尺八県技芸保持者故・松岡俊二郎(竹風)氏宅訪問の記録(その1)
平成21年5月1日、青森県無形文化財、錦風流尺八県技芸保持者・故・松岡俊二郎(竹風)氏宅を訪問しました。前年の平成20年3月に松岡俊二郎氏は亡くなり、同じ県技芸保持者で兄の松岡幸一郎(錦堂)氏は、12月に亡くなりました。地元の錦風流尺八の長老、二人が亡くなり、その伝承も危ぶまれる状況に、何か資料を後世に残せればと、ご遺族にお願いして形見の品を拝見させていただきました。その中に、松岡幸一郎、俊二郎兄弟の父親で、錦風流尺八を明治の末期に、青森市内にいました津島孤松師に師事された松岡金一氏の写真も拝見することが出来ました。松岡金一氏は、弘前のリンゴを海外に出荷する仕事をしていた方だったようです。その中に、尺八を手にされた写真も見ることができました。松岡金一氏の時代には、青森の津島孤松師門下は、100名くらいいたようです。昭和56年に、弘前大学教授、笹森建英氏と折登如月門下の内山嶺月氏の活動により、青森県無形文化財・錦風流尺八県技芸が認定されました。認定された時には、すでに内山嶺月氏は病死され、また、松山定之助氏は高齢で尺八がすでに吹けない状況で、結局は、後藤清蔵氏、松岡幸一郎氏、松岡俊二郎氏の3名が認定されました。認定を受けました、後藤清蔵氏、松岡幸一郎氏、松岡俊二郎氏の3名は門下の方々と、錦風流尺八の先師の墓を調査され、その墓前で献奏しました。その写真をここに紹介します。
弘前の旅(2009.5.1)錦風流尺八県技芸保持者故・松岡俊二郎(竹風)氏宅訪問の記録(その2)
弘前の旅(2009.5.1)錦風流尺八県技芸保持者故・松岡俊二郎(竹風)氏宅訪問の記録(その3)
弘前市でリンゴの輸出を商売としていました松岡金一氏、明治末期に青森市内で津軽錦風流尺八の名人として知られていました津島孤松師に入門、松岡家には明治45年に津島孤松師が書いた譜本が残されています。松岡金一氏の長男・松岡幸一郎(錦堂)、次男・松岡俊二郎氏は昭和56年に錦風流尺八県技芸保持者に認定されています。弘前市内、岩木川にかかる富士見橋が水害で流され昭和33年3月に新しい富士見橋が完成した時の祝賀で、松岡竹風氏、後藤清蔵氏が、祝賀行列の先頭で尺八を吹いています。