京都市立芸術大学第64回公開講座(2024.3.22)京都・明暗寺で開催(その1)
京都市立芸術大学第64回公開講座(2024.3.22)京都・明暗寺で開催(その2)
京都市立芸術大学第64回公開講座(2024.3.22)京都・明暗寺で開催(その3)
弘前に錦風流を伝えたと言われています吉崎八弥好道の家系について
ここに吉崎家の系図(吉崎家14代当主・吉崎一弘氏より)を掲載します。
先祖(半兵衛)→二代(作兵衛)→三代(権右衛門)→四代(新六・好勝)→
五代(権六・好里)→六代(権右衛門・好章)→七代(勇八・好殷)→八代
(権六)→九代(八弥・好道)→十代(喜作)→十一代(勇八)→十二代
(寅之丞)→十三代(操)→十四代(一弘)(寅之丞の長女・藤子の養子)
また吉崎一弘氏の調査されました吉崎家のことを、ここに掲載します。
吉崎家先祖吉崎半兵衛本国本所不伝承候、信牧公代銭七拾目、壱人口、御徒
被召出、其外不伝承候、二代作兵衛信義公代御徒被召出、慶安三年四月十三日新知高新田百石内真部御山奉行、三代権右衛門馬廻、四代新六好勝(木村茂左衛門二男)御小姓迄、五代権六好里寛保二年五月二十七日深浦奉行、六代権右衛門好章御目付役迄、七代勇八好殷(乗田忠左衛門三男)寛政二年六月三日長柄奉行格御小姓組之頭、同六年七月七日俵子三十俵勤料、物頭格是迄之通、同七年正月十一日弐拾石後加増、同十二年七月朔日御持鑓奉行百三十石、御薬知御小姓組之頭是迄之通、同三年五月廿二日死、八代権六好章御錠口役御小納戸兼、九代八弥好道文政五年正月廿八日御近習小姓御納戸兼、
同六年八月廿三日不調法有之御留守居組役下、天保四年九月十七日深浦奉行ヨリ御使番同六年二月朔日死、十代喜作(天保六年七月十五日)跡式百五十石(嘉永元年十二月十四日死)、十一代勇八(同年二年三月朔日跡式百五十石) (旧家子孫書上士族由緒 全)
吉崎八弥好道と吉崎家のこと
吉崎権六 百五十石 文化三寅年十月廿七日病死。 同年十二月廿八日家督 無相違倅貞蔵江被下置、御手廻二番組被候付
吉崎貞蔵 百五十石(御手廻与)文化四卯年四月朔日八弥与名改願之通同 十二年亥年六月廿六日若殿様御附御近習番被仰付、同年十月廿
一日若殿様小納戸役被仰付候
吉崎八弥 百五十石(御小姓壱 若殿様近習番与)御小納戸役、御附御小 納戸役江。文政五午年閏正月廿八日御附御近習小姓被仰付、御
小納戸役是迄之通被仰付候。文政五年午年二月二日奥通被仰付、 同六未年八月二十三日於江戸表言行不宣候ニ付、御留守居組江
御役下被仰付二番組江入。文政十亥年十一月十五日御手廻二番組
被仰付候。文政十三年八月廿一日御馬廻三番組番頭被仰付候。
天保四年巳年九月十七日深浦奉行被仰付。天保九子閏四月一日勤
中三人扶持勤料下置候。天保五年十一月廿四日御馬廻三番頭与。
天保六年二月朔日病死。(深浦奉行与)同年閏七月十五日跡式無
相違伜喜作江被下置候、尤喜作御手廻壱番組被仰付候。
吉崎喜作 百五十石(御馬廻壱番組番頭被仰付候)御使番八弥跡
錦風流尺八・吉崎八弥師の墓を訪ねる(その1)(2010.2.5)
錦風流尺八・吉崎八弥師の墓を訪ねる(その2)(2010.2.5)
根笹派錦風流尺八、県技芸保持者に正式に追加認定されました:2020.4.30
錦風流県技芸保持者追加認定(高橋涛月)勝良氏2020.4.3
根笹派錦風流県技芸保持者認定審査(2020.3.16)
平成7年に弘前で開催されました錦風流尺八・津軽郁田流筝曲演奏会プログラム(その1)
平成7年に弘前で開催されました錦風流尺八・津軽郁田流筝曲演奏会プログラム(その2)
平成7年に弘前で開催されました錦風流尺八・津軽郁田流筝曲演奏会プログラム(その3)
平成7年に弘前で開催されました錦風流尺八・津軽郁田流筝曲演奏会プログラム(その4)
昭和年60年に弘前で開催されました錦風流尺八演奏会プログラム(その1)
昭和56年に弘前で開催されました錦風流尺八演奏会プログラム(その2)
昭和56年に弘前で開催されました錦風流尺八演奏会プログラム(その3)
錦風流尺八の新聞記事(陸奥新報)2018.11.23(その1)
錦風流尺八の新聞記事(陸奥新報)2018.11.23(その2)
八雲本陣訪問 平成27年6月8日(月)
以前、弘前で拝見しました工藤兵一氏所蔵の楽譜と良く似ています。
折登如月師の系統の楽譜と思われます。
明治二年弘前絵図(その1)
錦風流尺八の歴史調査で、中心的人物として、また、錦風流尺八の祖として伴建之(勇蔵)師の名前が知られています。伴建之(勇蔵)師から伝わった曲を明治16年に乳井月影(永助)師が錦風流尺八本調子之譜として残しています。今回、弘前市の広瀬寿秀氏から明治二年弘前絵図の資料をいただきました。その地図に、伴建之(勇蔵)、乳井月影(永助)佐田大之丞、山形修助、などの当時の錦風流尺八家の名前があります。また、津軽藩主・寧親公の命により一月寺に入門し修行の後、弘前に帰った吉崎好道(八弥)の孫にあたる吉崎勇八宅もあります。伴建之(勇蔵)師は、明治3年までは弘前に住んでいましたが、明治4年(74歳)の時に、弘前市郊外、田舎館村垂柳に住居を移しました。明治16年の本調子之譜の中で真虚空は伴先生の門人・笹森太真伝の手なり、乳井月影(永助)、野宮玉洗(治左衛門)が笹森太真より明治7年に習ったと書かれています。明治7年に乳井月影(永助)、野宮玉洗(治左衛門)は、田舎館村垂柳の伴建之(勇蔵)先生(77歳)のところに往き、信偽を尋ねしその時、先生別に異議なかりしなり。こう記載されています。伴先生は翌年78歳で亡くなっています。現在、伴家の墓は弘前市新町247の浄土宗光明院誓願寺にあります。弘前市の広瀬寿秀氏から送られてきました、明治2年弘前絵図、赤い枠で書き込みました、左上から伴建之(勇蔵)宅その下が弘前誓願寺本堂にあります、明治20年、錦風流尺八家50名のうちの一人、山形修助宅、一番下が、錦風流尺八・初代宗家乳井月影(永助)宅 西小路に面している。弘前市の広瀬寿秀氏から送られてきました、明治2年弘前絵図赤い枠で書き込みました、左上から佐田大之丞宅、その下が吉崎好道(八弥)の孫にあたる吉崎家十一代の吉崎勇八宅。両家は相良町に面している。弘前市新町誓願寺本堂にあります、伴先生の追善額に記載されています、乳井月影(永助)師など錦風流尺八家50名の当時の所在を一人でも多く確認できればと思う次第です。
長堀孤雪氏を偲ぶ
写真の1は、長堀孤雪氏の師匠・函館在住の阿部孤鶴師の写真です。この写真は、津島孤松師のアルバムにありました。昭和6年12月19日撮影されたものです。その下の写真は、長堀孤雪氏の写真です。長堀さん宅を訪問した時のものです。下段の2枚の写真は、長堀さんが函館に持参して阿部孤鶴先生に書いてもらったものです。
青森県無形文化財技芸指定(錦風流尺八)の追加認定について
錦風流外伝・鶴の巣籠の名手:廣澤静輝師のこと
尺八 琴古流
静輝 廣澤富治郎 大阪市南区日本橋2の42
竹友社の門人として大阪に於ける重鎮であり松楓流生花の家元として天才畫家として著しく知られている君は、明治27年10月21日大阪市住吉区今林町に於いて生を享けたのである。幼児より尺八をはじめ各種の鳴り物に多趣味を有していたが、幸いにして君が17歳の春、故・宮内直方師に就いて尺八の研究を始めて後、君の楽才は忽ちにして世人の認める所となり大正3年には竹聲会を門中より組織して大阪に尺八教授所を開設し斯界の為に畫くす所多く、門弟の養成に努めていたが、其盛大なる十周年記念大演奏会を大阪南地演舞場に開催し多大の好評を受け、それより俄かに世人に知られ尺八界に重きをなすに至ったのである。前竹友社が解散せられてから現在の川瀬順輔師により竹友社が率いられるに至って君は川瀬門人として今日の如く大阪に於ける斯界の一角に立つようになった。君の芸術的天才と不断の努力とは将来、琴古流の為に偉大なる貢献をなすもので、今後に大いなる期待が各方面から掛けられているわけである。君は又、生花は花の村と称せらるる程で、14歳の時未生流を習い、1ケ年半にして遠山流も習い、更に眞生流、遠州流、池之坊等にそれぞれ研究を重ね、中でも遠州流は其の奥儀を極め師範の免許状を有し、池之坊に於いても奥儀に達し、家元より静輝の雅号を興へられ旭兤斎の冠称までも許されている程であり、眞生流も同様にし大正元年より其家元を組織している。之によって見るも生花の天才と称すべく大正10年には各師匠の援助を受け松楓流なる一流を起こし家元となった。其外書を良くし写真の術に長じ多芸多能なる人である。
以上
廣澤静輝師の師匠であります乳井建道師は昭和20年に57歳で亡くなり、また廣澤静輝師は昭和24年に56歳で病のために亡くなっています。
写真は、乳井月影師の錦風流楽譜を廣澤静輝師が、書かれたものです。この楽譜は、従来の錦風流楽譜と違い、奏法のための手法が書きこまれています。(侍方の奏法です)
錦風流五調子の楽譜(阿部孤鶴師筆)
錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その1)
錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その2)
錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その3)
ようですが、昭和になると、地付き中継ぎの如月管が多く使用されていたようです。永野旭影師の系統では、宗家の引き継ぎ事項に、二尺管で吹くようにと書かれていました。現代管の地付き管で錦風流を吹いても、中に息が入らず、口先での奏法になってしまいます。
津軽郁田流について(その1)
津軽郁田流箏曲の歴史
天明か明和の頃、西暦1700年の後半、初代黒沢琴古、二代黒沢琴古が活躍
していた時代に、曽呂都と称する旅の盲法師が弘前の亀甲町の酒店 三国屋
八右衛門方に来た。箏をもっているので弾かせてみると上手なので娘のきよ
と、近所の官盲城象とに習わせ、城象は奥許に達した。二年して曽呂都が
去ったあと、城象は城御代に、城御代は城千代に伝えた。こうして弘前に広
まった。明治時代に入り、箏曲の名手、金清兵衛則博の門下に竹内婦き子が
いた。根笹派錦風流の尺八家、山上謙次郎(影琢)は竹内婦き子の門下とな
り箏を学んだ。明治17年から箏・尺八の合奏を始めたようだ。明治24年竹
内婦き子は錦風流の乳井永助(月影)、福士豊(影季)、山上謙次郎(影琢
に委託して、糸の名と間合を兼ね備えた生田流の筝譜の製作を依頼したが
翌・明治25年に竹内婦き子は70歳くらいで亡くなってしまった。当時津軽
郁田流をする者に、かってのように学識ある男子がいなかったからのよう
だ。錦風流の3人に委託した楽譜は見つかっていないので恐らく完成され
ず、あるいは着手さえされずに終わったのではないだろうか。この頃、錦風
流の乳井永助、福士豊、山上謙次郎は宮城県金成村に住んでいた、小野寺源
吉が弘前に伝えた巣籠の研究に没頭していて、筝曲の譜面作成どころではな
かったのではないだろうか。
(参考文献:岸辺成雄・笹森建英著・津軽筝曲郁田流の研究・歴史篇)
H.21.7.2 作成
津軽郁田流について(その2)
工藤兵一氏が愛用した錦風流地無し2尺管
津島孤松師の写真及び直筆楽譜(2009.7.30)
錦風流の祖・伴勇蔵建之師の一代記について(2015.11.28)
弘藩明治一統誌(人名録全)より
錦風流尺八外伝・小野寺源吉伝鶴の巣籠について(2015.11.28)(その1)
錦風流尺八外伝・小野寺源吉伝鶴の巣籠について(2015.11.28)(その2)
錦風流尺八・津島孤松師最後の弟子、瀧谷孤瀧師のこと
錦風流尺八の名人・津島孤松師と津軽郁田流筝曲
佐藤中隠著・八方往来の尺八交遊録に登場する錦風流尺八
竹童師匠は少年の頃から吹いていたという。ネプタの笛を吹いたのがきっかけだという。よく神如道を口にする。如道は今東京で嘖さくたる大家だ。世界中股にかけ吹き歩いている。NHKのラジオからも常に放送している。弘前出身だ。師匠は甞て友達として稽古したという。決して腕ではヒケを取らぬと自負する。ただ世渡りが下手で、今こうして田舎にいて、一介の雑貨屋のおやじとしてうずもれている。既に名声に対する野望はない。ただ興が起きれば昼夜を分たず三昧境に入る。とはいうものの、酒飲むというか俄かに欝屈とした怒りが出て来るのであろうか、何やらわめき散らしながら、その揚句寝てしまうあ。そんな時に稽古をつけて貰えぬと思い帰ろうとする。しかし帰ってはいけないのだ。師匠の寝顔を見ながら吹いていなければならぬ。やがて酔眼朦朧の眼をこすり、無理に尺八をとろうとする。やはり音も乱れ、間もくずれ、到底聞かれたもんじゃない。それでも我われはじっとそれに合わせなくっちゃならない。ところがそんな様子で一時間くらい経つと、酔いも大分さめてくるのであろうか、突然微妙な音色に変ずる。 すると竹童師匠は立ち上がって、「おい、これが最高の尺八の音だ。よく覚えておくんだ。神如道も井上も川瀬も吉田晴風も誰もだせぬ」、さらりさらりと左右に体を揺れ動かしながら吹きまくる。まことにエスタシーの境地であった。この時だけは東京の有名な尺八の大家を乗り越えていると思えるのが、竹童師匠の安らぎなのであろうか。私は師匠のよく言う、川瀬とか吉田とか井上とかという名人の音は聞いたことがない。しかし師匠の音が決してそれらに劣ることはないと思った。そしてその絶妙な音色を早く自分の手に入れなければ!と我われもまた酔いどれの師匠に合わせるべく、立ち上がり激しく体を左右に振るわせながら吹きつけるのである。時たま闖入者が表われる。Sさんとか言って職業は表具師だが、ぶらりと我われの吹いている雑貨店の二階に風のように入ってきて、皆の様を見てやや軽蔑の表情を見せながら、もっともらしい尺八の講義をする。「尺八の音は川のせせらぎ、大木のざわめき、或は茅屋をたたく雨の模様など、凡そ森羅万象の音を含んでいるのだ。されば日常それらの自然の音を、心深く耳をすませて聞かねばならぬ。一管をとったらまさに人間と自然一体、ここに極意が生ずるのである。名人というのは、ひとたびハローと天地の音を奏でれば、自分の前からすべてが消え、音そのものになる。そしてそれを聞いているものは、奏する名人の姿は見えず、まさに竹だけが見える。今俺が一曲奏して聞かせる。もしかして俺の姿が消えて、竹だけ諸君の眼に写るかも知れぬ。よく眼を開いて、心して聞け。曲は錦風流鈴慕!」まるで講釈師のように言いたいだけのことを言いながら、やおら、竹童師匠の側にある二尺の竹をとり、フーと吹きはじめる。錦風流というのは津軽独特の流派だ。普化宗の一派が津軽に流れて編み出したという。荘重な調べだ。Sさんもかなりやったらしくなかなか堂に入っている。ただその口にいう理論ほどは思われぬ。一曲終わってから、「どうだ、俺の体が消えてしまっただろう。この竹の中に体は確かに忽然として消えたはずだ」という。我われは爆笑。竹童師匠も「わしも懸命に眼をこすってS君の体が消えるかと期待したのだが、尺八は見えなくなるが、体はありありと見えるよ」と揶揄の眼差しで言った。手一杯論じ手一杯吹いてしまうとSさんは、我われの眼の前から去ってゆく。かことに変わった人だ。竹童先生に言わせると、Sは尺八に説明が多すぎる。体が消えるの、風がどうのあめがどうの、と、そりゃ理屈だ。ありゃ、講釈師になればいい。かなり罵倒気味である。それでも先生にとってはこよなく尺八仲間らしく、時どき、Sが来ないかなあと呟くことがある。(以上が尺八交遊録の一部です)
この中に登場する錦風流尺八家のS氏とは、弘前市の錦風流尺八伝承会の会長・藤田竹心氏の話によれば、錦風流尺八と、笛の名手であった須藤清氏の
ことだそうです。須藤清と藤田竹心氏の父親は友人であったとのこと。現在、藤田竹心氏宅には、須藤清が愛用された1尺9寸管の尺八が残っています。
岡本竹外先生の錦風流尺八レコードの解説記事より(2016.2.18)
錦風流尺八は普化禅宗十六派の一つ根笹派から出たもので、青森県弘前地方では大音笹流とか、御家流と言われていた。その起源については、いろいろの説があるけれども、弘前藩の武士によって代々吹き継がれて来た尺八曲である。錦風流を公式に呼称したのは明治十六年旧・弘前藩士乳井建朝(竹号月影)が門人の協力を得て、自分の師であった伴建之師、口伝の曲を整譜して「根笹派所伝錦風流尺八本調子之譜」を作ってからである。弘前藩第九代の藩主津軽寧親公は文化十二年(1815)に藩士、吉崎八弥好道に普化宗総本山の武蔵国小金にあった金龍山一月寺に伝承されている尺八曲の修業を命じた。好道は直ちに江戸に上がり、一月寺に入門して、当時一月寺にいた根笹派出身の栗原栄之助(竹号錦風)と一月寺院代の傑秀看我に師事し、根笹派、金先派、寄竹派、括惣派の伝承曲、数十曲を習得し文政元年(1818)帰藩し寧親公に逐一報告した。公は大いに喜ばれて、藩士にこれらの曲を伝習することを命ぜられた。御家流と呼ばれたのも、この辺の消息を物語るものである。根笹派は建長六年、紀州由良、興国寺開山法燈円明国師と同船にて来朝した宝伏居士を元祖とし相模国三崎にて宋和派と号して慈上寺を本寺とする派であったが、第九代の湛光風車和尚(禅宗として達磨大師より廿一代目)の時、上州箕輪城主、長野信濃守業政から関東乱派の総大将になるように招請され三崎より箕輪に移った。その時根笹派と改めたと言う。上州箕輪城を中心とする地方は戦国の治乱興亡により、長野氏、武田氏、滝川氏、北条氏、徳川氏と勢力圏の変動激しく、慈上寺も高崎城主井伊直正の代、慶長五年高崎に移った。慈上寺の親寺である大雲寺は井伊家の彦根転封と共に、移っていった。慈上寺は括惣派に転じて明治四年普化宗廃止まで高崎に存続したのである。弘前藩祖の津軽為信公は永禄十年(1567)その父、大浦為則の葬送の導師、津軽長勝寺八世、格翁舜逸禅師に参禅して、「普化鈴澤の話」を透過してその印可を得、用兵、戦術の神髄を把握したと言われ、この時以来、弘前藩と普化宗は緊密な関係を生じた。為信公は豊臣家滅亡後、徳川家康の麾下に参じ、本領を安堵され、上野国勢多郡のうちに二千石の領地を加増され、合計四万七千石を領した。弘前藩二代の信枚公は慶長十五年弘前城を築いて赤石城より移り住し、徳川家康の養女を娶った。記録によれば元和七年(1621)栗原泰藝が弘前藩に召預けとなっている。弘前藩の上州の所領の勢多郡には根笹派に属する普化寺が、二ケ寺もあり、(理光寺及び光林寺)、吉崎好道の師、栗原錦風も一月寺院代傑秀看我も共に根笹派出身で、錦風は泰藝の末裔と考えられる。弘前藩に根笹派が伝承されたのは上州の根笹派寺院との交流によるものであるが、弘前藩の武士の尺八として気魂に充ちたコミ息とチギリ(継色)と云われる独特の奏法を確立したのは津軽地方の傑れた音楽的素地に由来するものである。錦風流の流名起源には二説があり、その一つは伴建之師がその師の栗原錦風伝の曲を集成して師の竹号錦風をとって命名したという説と、伴師の後継者であった乳井建朝が元治元年九月九日の名月の夜、京都にて近衛家警固の任を帯びて上洛中、関白近衛忠煕公公の需めによって「松風」の曲を吹奏したところ、公の感銘一方ならず、吹きならす竹の調べもおのづから、澄み渡りたる夜半の月影と詠ぜられ、色紙と「月影」と云う竹号と大和錦の袋に入れた三日月銘の尺八を賜った。これを記念して大和錦の錦と松風の風をとり栗原錦風師の竹号を参酌して錦風流と名付けたという説であり、後者の説が当を得ているように思われる。乳井月影師を錦風流の初代として、二代目は永野雄次郎師(旭影)、三代目は私の師、成田清衛師(松影)、四代目は琴古流江雲会宗家で同じく津軽出身の井上重志師(照影)である。錦風流では尺八は地漆を用いない二尺管を基準とし、本調子の他、曙調子、大極調子、夕暮調子、及び雲井調子の四調子がある。これらの調子は楽理的には基音に対し、完全四度、長二度、短七度、完全五度の協和音程の四調子で吹くもので、完全五度と長二度、完全四度と短七度は共に協和音程となるので、三種の譜によって尺八の長さを変える事によって五調子を吹き分けるのである。
注・原文は 津軽藩となっていますが、この記載の文章では、正式名称の弘前藩にしました。