根笹派錦風流尺八の歴史調査報告
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錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その1)2021.5.17
錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その2)2021.5.17
錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その3)2021.5.17
錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その4)2021.5.17
錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その5)2021.5.17
錦風流4代宗家・井上照影師の遺稿(その6)2021.5.17
錦風流尺八宗家引継ぎのこと(その1)2020.5.3
錦風流尺八宗家引継ぎのこと(4代宗家・井上照影師の手記より)
その時の様子は今でも目に浮かびます。何時とも違い、何やら重苦しい様な大変きびしい様な室の空気でした。奥さんは何時もにこにこしていたのですが、その日はきびしい顔をしていました。私は何か機嫌をそこねておこられるのではないかと思い神妙にしていまいました。先生はおもむろに後ろの押し入れの戸をあけて箱入りの尺八と乳井月影著の楽譜を出して今日からあんたに宗家をゆずるから、これを持って帰りなさいと云われました。とてもおことわり出来る様な状態ではありませんでしたので、それではおあずかり致しますと云って頂いた様なわけです。箱には立派な字で松風と書いてあります。中側には錦風流尺八(貮尺)錦風流宗家 初代真龍作 月影―旭影―松影 と書いてあります。そのとき先生から月影師からの伝言として宗家は必ず名前に影を付けること。錦風流を吹くときは必ず二尺管を吹奏することと伝えられました。箱の中には二尺1本と永野先生より成田先生への錦風流宗家引継目録が入っておりました。
錦風流宗家引継目録
宗家 永野旭影
引継者 成田清衛
今般宗家引継ぐ事に相定め候依て尺八左記の通り譲渡候也
昭和17年11月22日
1.二尺 初代真了作 1本
1.一尺九寸 二代真了作 1本
1.一尺三寸 一夜切り(夕暮)1本
以上 右 永野旭影印
成田清衛殿
と書いてあります。一尺九寸と一夜切りは戦時中、私の家(東中野)にあづけておいたが戦災で焼けてしまったと云う話でした。そう云えば父の室の戸だなの中に鉢巻をいっぱい巻いた黒い尺八と横笛を立てにした様な尺八のあったのが思い出されます。私は会員には錦風流を教えておりましたが、かたちだけ覚えても錦風流らしい味わいがなかなか出来ませんので先生にその事を伺いましたら、自分で勝手に作ってはいけない、今のままでかたちをこわさない様に吹いておれば、あんたはまだ若いし、年と共にだんだん分かって来るから心配はいらないし、もう教えることも無いと云われましたが、非常に心細い気持ちでしたが、あれからもう三十年ぐらいたちました。近頃やっと昔聞いた錦風流の感じが少し出てきました。ずいぶん永くかかるものです。昔し一、二曲を一生吹いたと云う話を聞きましたが、なる程と思う様にもなりました。これからが本当の勉強だと思い、毎日欠かさずに練習しております。
現在、私の知っている範囲の免許を授与されている人達を紹介します。
注記(この記事を書かれた昭和60年のころ)
師範 岡本忠毅(竹外)永野・成田両師直門(横浜)
師範 井上秀夫(秀風)成田師直門(宮城県塩釜市)
師範 木村泰夫(泰風)成田師直門(福島県いわき市)
師範 石井嶺雲(嶺風)井上直門(新潟市)
準師範 宮尾 乾(乾風)石井門人(新潟市)
師範 工藤豊次郎(玄風)井上直門(京都市)
師範 松井邦夫(一風) 井上直門(摂津市)
準師範 吉開守和(晃風)井上直門(亀岡市)
根笹派錦風流四代宗家 井上照影
宗家・井上照影師の言葉
私達も経験していますが、都山流をやった人、琴古流をやった人、明暗流をやった人、新曲をやった人、民謡をやった人、たとえそれが1年くらいであっても流儀のくさみと云いますか、それが良し悪しは別として他の流儀に変わりましても、十年、二十年ぐらいでは、そうそう抜け切れるものではありません。
岡本竹外先生の言葉
昭和29年1月に3代宗家・成田松影師より師範免状をもらいましたが、その後、3年くらいして、成田先生から、あなたもやっと錦風流になってきたなと言われたそうです。今では、即席に錦風流本曲を堂々と演奏する若い演奏家もいますが、本物はそう簡単に身に付くものではありません。基本の上に長年の稽古を積み重ねてやっと本物に近づくことができるのではないでしょうか。
その時の様子は今でも目に浮かびます。何時とも違い、何やら重苦しい様な大変きびしい様な室の空気でした。奥さんは何時もにこにこしていたのですが、その日はきびしい顔をしていました。私は何か機嫌をそこねておこられるのではないかと思い神妙にしていまいました。先生はおもむろに後ろの押し入れの戸をあけて箱入りの尺八と乳井月影著の楽譜を出して今日からあんたに宗家をゆずるから、これを持って帰りなさいと云われました。とてもおことわり出来る様な状態ではありませんでしたので、それではおあずかり致しますと云って頂いた様なわけです。箱には立派な字で松風と書いてあります。中側には錦風流尺八(貮尺)錦風流宗家 初代真龍作 月影―旭影―松影 と書いてあります。そのとき先生から月影師からの伝言として宗家は必ず名前に影を付けること。錦風流を吹くときは必ず二尺管を吹奏することと伝えられました。箱の中には二尺1本と永野先生より成田先生への錦風流宗家引継目録が入っておりました。
錦風流宗家引継目録
宗家 永野旭影
引継者 成田清衛
今般宗家引継ぐ事に相定め候依て尺八左記の通り譲渡候也
昭和17年11月22日
1.二尺 初代真了作 1本
1.一尺九寸 二代真了作 1本
1.一尺三寸 一夜切り(夕暮)1本
以上 右 永野旭影印
成田清衛殿
と書いてあります。一尺九寸と一夜切りは戦時中、私の家(東中野)にあづけておいたが戦災で焼けてしまったと云う話でした。そう云えば父の室の戸だなの中に鉢巻をいっぱい巻いた黒い尺八と横笛を立てにした様な尺八のあったのが思い出されます。私は会員には錦風流を教えておりましたが、かたちだけ覚えても錦風流らしい味わいがなかなか出来ませんので先生にその事を伺いましたら、自分で勝手に作ってはいけない、今のままでかたちをこわさない様に吹いておれば、あんたはまだ若いし、年と共にだんだん分かって来るから心配はいらないし、もう教えることも無いと云われましたが、非常に心細い気持ちでしたが、あれからもう三十年ぐらいたちました。近頃やっと昔聞いた錦風流の感じが少し出てきました。ずいぶん永くかかるものです。昔し一、二曲を一生吹いたと云う話を聞きましたが、なる程と思う様にもなりました。これからが本当の勉強だと思い、毎日欠かさずに練習しております。
現在、私の知っている範囲の免許を授与されている人達を紹介します。
注記(この記事を書かれた昭和60年のころ)
師範 岡本忠毅(竹外)永野・成田両師直門(横浜)
師範 井上秀夫(秀風)成田師直門(宮城県塩釜市)
師範 木村泰夫(泰風)成田師直門(福島県いわき市)
師範 石井嶺雲(嶺風)井上直門(新潟市)
準師範 宮尾 乾(乾風)石井門人(新潟市)
師範 工藤豊次郎(玄風)井上直門(京都市)
師範 松井邦夫(一風) 井上直門(摂津市)
準師範 吉開守和(晃風)井上直門(亀岡市)
根笹派錦風流四代宗家 井上照影
宗家・井上照影師の言葉
私達も経験していますが、都山流をやった人、琴古流をやった人、明暗流をやった人、新曲をやった人、民謡をやった人、たとえそれが1年くらいであっても流儀のくさみと云いますか、それが良し悪しは別として他の流儀に変わりましても、十年、二十年ぐらいでは、そうそう抜け切れるものではありません。
岡本竹外先生の言葉
昭和29年1月に3代宗家・成田松影師より師範免状をもらいましたが、その後、3年くらいして、成田先生から、あなたもやっと錦風流になってきたなと言われたそうです。今では、即席に錦風流本曲を堂々と演奏する若い演奏家もいますが、本物はそう簡単に身に付くものではありません。基本の上に長年の稽古を積み重ねてやっと本物に近づくことができるのではないでしょうか。
錦風流尺八歴史調査報告(平成27年5月)一音成仏45号掲載
根笹派錦風流尺八・歴史調査の旅
(平成27年12月・虚無僧研究会機関紙・一音成仏45号掲載)
今年も5月8日、すでに桜の花も散り、葉桜の緑が美しい弘前を訪問しました。弘前城は天守閣下の石垣の大規模改修工事の最中で、お濠も埋め立てられ、お濠の中に工事用の仮設道路が整備され、工事車両が出入りしていました。5月9日の早朝、いつものようにホテルでの朝食を済ませて、早朝散歩で、弘前公園から、藤田記念館の前を通り、曹洞宗の寺院が並ぶ禅林街に向かいました。最初は盛雲院の墓地にあります錦風流初代宗家・乳井月影師の墓前での献奏をし、その並びにあります正光寺の墓地に移動し、乳井月影師の弟子、津島孤松師の墓前での献奏を済ませ、裏道を抜けて禅林街のメイン道路に出て、鳳松院を訪問しました。鳳松院は、虚無僧研究会の献奏大会の前日に、献奏大会に参加された方々を観光に案内したことがあります。鳳松院の寺宝としては、先々代住職・黒滝大休和尚の描かれた釈迦一代記の油絵があります。大休和尚は、油絵を学んだ頃は、仲間に棟方志功氏がいました。また、2001年、タリバンにより破壊されましたバーミヤン石仏も、それ以前に、大休和尚は、現地でスケッチし、油絵で描いた作品が現在、弘前博物館に展示されています。その鳳松院を訪ね、先代住職の奥さん、黒滝さんにお会いしました。鳳松院は、錦風流外伝・鶴の巣籠の名人として東京や大阪で活躍されました乳井建道師の奥さんの実家であり、また、乳井建道師の長女・田村琴子さん、長男の乳井宏さんは、黒滝さんとは、従兄弟同士で、毎年、桜の季節には、墓参りを兼ねて、さいたま市在住の田村琴子さんや、東京品川区に在住の乳井宏さんは弘前の鳳松院に来ていました。その、田村琴子さんや、乳井宏さんの近況を聞きたくて、黒滝さんを訪ねたわけです。黒滝さんのお話では、田村琴子さんは、昨年の9月に92歳で亡くなり、また、乳井宏氏も今年の1月に88歳で亡くなったとのことでした。また、黒滝さんから、今日の午後、東京の乳井宏さんの納骨が盛雲院で行われるので、私も午後から盛雲院に出かけるとのことでした。私も、当日の午後2時頃に盛雲院に出かけて、本堂裏の墓地で、乳井宏さんの奥さんや長男の新之助さんに、お会いすることができました。乳井さん家族に、あなた方の先祖は、尺八の名人であり、私は弘前訪問の度に、乳井家の墓前で尺八の献奏をしていることを話すと大変喜んでいただきました。その後、今度は、隣のお寺、寿松院の墓地を訪ねました。寿松院の奥さんは、隣の鳳松院の生まれなので、この二軒のお寺は親戚同士です。以前、錦風流尺八の先師の墓参りの時に、松岡金一氏、松岡幸一郎氏の墓が見つからず、寿松院の奥さんや娘さんに、お世話になったことがあります。今回の目的は、神田可遊氏が、尺八評論に錦風流尺八二代宗家・永野旭影師の墓が寿松院にあるのではと、記事に書かれていました。その記事には、お寺さんからの回答に、永野はないが、長野はあると書いてありました。そのため、今回、墓地に入り確認をしたところ、松岡家の墓の前方に、雪で倒れた墓石に永野氏の文字あり、その隣の墓石も永野氏とありました。さらにその横には、永野、長野の墓石が9基寄せ墓になっていました。この件の詳細調査は、地元の錦風流伝承会の高橋勝良さんに、お願いをして、弘前を後にしました。その後、高橋勝良氏さんから、2度ばかり寿松院を訪問し、住職に調べていただいた事を手紙で報告して
いただきましたので、その内容を、ここに紹介します。平成27年5月11日、寿松院の住職との面談でわかった事。永野氏と表記された墓石は、現在11基確認することができる。その他に、明治になって永野家から長野家に表記変更をした墓石が一基あり、現在は、その長野家が檀家登録をしているが、改姓のいきさつや、永野雄次郎(旭影)氏の件は不明とのこと。旧士族が明治になって改姓、改名した事は、よくあった。(昭和20年まで)家督相続法(権)の事から、長子、長男がストレートに相続することが一般的であった為、次男以下は相続権が無かった分、本家の墓に入るのがたて前であったので、大きい一族では、とんでもない人数の仏様を埋葬することになって、一部分離、あるいは分墓という形で墓石が増えてきたが、結局、長い間に忘れ去られたものも多いとのこと。因みに住職と、あらためて見ましたが、永野一族の代表格である現・長野氏の墓誌には昭和17年没の永野雄次郎(旭影)氏の表記はなかったので、その名前の示すように長男ではなかったのでしょう。どの墓に埋葬されたかは不明とのことです。後日、高橋勝良さんは、門前の花屋で花を買って、寿松院を再度訪問したところ、住職は、高橋勝良さんは、永野家とは、よほど縁の深い人間ではないかと思われたのか、丁寧に説明をしていただきました。寿松院の先住・先々住が墓地、墓石の確認と、檀家登録の確認を徹底させていなかったことが、今日の不明という答えにつながったとのことで住職から深々と頭を下げられことには、こちらも恐縮した次第です。無情なようですが、寿松院では、倒れた永野氏と隣の永野氏の二基については、何十年もお参りする人もいないので、雪で倒れたことを
きっかけに、無縁墓に合葬したいようです。宗家の永野雄次郎(旭影)氏が亡くなったのが昭和十七年の戦時中であり、家人も、お寺も出征したり、仮埋葬したりと、正確に帳面に記載されない事実が山ほどあった時代背景を考えると、仕方がない話かも知れません。以上が、高橋勝良氏の調査報告です。盛雲院にあります初代宗家・乳井月影師や孫の乳井建道師の墓、あるいは隣の正光寺にあります津島孤松師のように、今でも末裔の方や尺八家が、お参りする墓もあれば、永野雄次郎(旭影)氏のように無縁仏になる墓もあることは残念な事です。また、話は変わりますが、以前、小菅会長から、八雲本陣・木幡吹月師所蔵の錦風流楽譜を写真で拝見したことがあります。その件について今年の六月八日に、島根県松江市宍道町の八雲本陣を訪問し、御家流尺八笛譜を拝見できました。曲目は(1、調)(2、佐可里波)(3、松風志らべ)(4、佐舞也都楽関(5、獅子)(6、流鈴慕)の6曲です。注記のところに、奥州南津軽本郷村鎌田氏の譜(明治32年書写)とあります。この譜は、乳井月影師が明治16年に残された錦風流尺八本調子の譜や、その
弟子の津島孤松師の書かれた譜と違い、コミも書き込まれています。弘前で活躍されました折登如月師のものに近いでしょうか。残念なことに、拝見しました譜は佐舞也都楽関の途中から欠落していて、目録にない真虚空の後半が、残っていました。また、機会があれば、八雲本陣を訪問して、資料集の中から見つければと思っています。また、今年の10月11日から弘前を訪問しました。弘前公園にあります弘前城天守閣は、数日前に、曳家工事で、レールに乗せられ、50メートルばかり移動していました。天守広場の中央には、仮の石垣基礎が準備してあり、ここに据え付けが完了すれば、天守閣も観光客に公開されるようです。今回の旅は、八雲本陣で拝見できました御家流尺八笛譜に書かれていました、南津軽本郷村の鎌田氏なる家が現在もあるかどうかの確認でした。弘前藩士に見られる名字(苗字)天保三年(1832)から明治35年(1902)年「弘前明治一統誌・第一巻・士族卒族名員録」(内藤官八郎著)によれば、士族の中に鎌田の姓も記載されています。明治になり、鎌田氏も弘前城下から離れ、本郷村に移住したのでしょうか。現在は、本郷村は、青森市浪岡本郷に住所が変わっています。いざ、本郷に出かけてみると、バス通りに面して、お店や土建屋、無人のような立派な門構えの邸宅の表札も鎌田でした。鎌田氏も本郷に移り、分家が次々とできたのでしょうか。平成27年の今日、明治時代の1人の錦風流尺八家を探すことは至難の業のように感じました。今や弘前の小学校では、津軽三味線や、ねぷた笛の授業はありますが、音楽を指導する地元の先生方も、江戸時代から地元の弘前藩に伝わる、錦風流尺八の存在すら知らないことは残念なことです。地元の錦風流伝承会には、20代の若者も入会して稽古に励んでいます。1人でも多くの若者が、この道に入り伝承してくれることに期待しながら筆をおきます。
前川 耕月
(平成27年12月・虚無僧研究会機関紙・一音成仏45号掲載)
今年も5月8日、すでに桜の花も散り、葉桜の緑が美しい弘前を訪問しました。弘前城は天守閣下の石垣の大規模改修工事の最中で、お濠も埋め立てられ、お濠の中に工事用の仮設道路が整備され、工事車両が出入りしていました。5月9日の早朝、いつものようにホテルでの朝食を済ませて、早朝散歩で、弘前公園から、藤田記念館の前を通り、曹洞宗の寺院が並ぶ禅林街に向かいました。最初は盛雲院の墓地にあります錦風流初代宗家・乳井月影師の墓前での献奏をし、その並びにあります正光寺の墓地に移動し、乳井月影師の弟子、津島孤松師の墓前での献奏を済ませ、裏道を抜けて禅林街のメイン道路に出て、鳳松院を訪問しました。鳳松院は、虚無僧研究会の献奏大会の前日に、献奏大会に参加された方々を観光に案内したことがあります。鳳松院の寺宝としては、先々代住職・黒滝大休和尚の描かれた釈迦一代記の油絵があります。大休和尚は、油絵を学んだ頃は、仲間に棟方志功氏がいました。また、2001年、タリバンにより破壊されましたバーミヤン石仏も、それ以前に、大休和尚は、現地でスケッチし、油絵で描いた作品が現在、弘前博物館に展示されています。その鳳松院を訪ね、先代住職の奥さん、黒滝さんにお会いしました。鳳松院は、錦風流外伝・鶴の巣籠の名人として東京や大阪で活躍されました乳井建道師の奥さんの実家であり、また、乳井建道師の長女・田村琴子さん、長男の乳井宏さんは、黒滝さんとは、従兄弟同士で、毎年、桜の季節には、墓参りを兼ねて、さいたま市在住の田村琴子さんや、東京品川区に在住の乳井宏さんは弘前の鳳松院に来ていました。その、田村琴子さんや、乳井宏さんの近況を聞きたくて、黒滝さんを訪ねたわけです。黒滝さんのお話では、田村琴子さんは、昨年の9月に92歳で亡くなり、また、乳井宏氏も今年の1月に88歳で亡くなったとのことでした。また、黒滝さんから、今日の午後、東京の乳井宏さんの納骨が盛雲院で行われるので、私も午後から盛雲院に出かけるとのことでした。私も、当日の午後2時頃に盛雲院に出かけて、本堂裏の墓地で、乳井宏さんの奥さんや長男の新之助さんに、お会いすることができました。乳井さん家族に、あなた方の先祖は、尺八の名人であり、私は弘前訪問の度に、乳井家の墓前で尺八の献奏をしていることを話すと大変喜んでいただきました。その後、今度は、隣のお寺、寿松院の墓地を訪ねました。寿松院の奥さんは、隣の鳳松院の生まれなので、この二軒のお寺は親戚同士です。以前、錦風流尺八の先師の墓参りの時に、松岡金一氏、松岡幸一郎氏の墓が見つからず、寿松院の奥さんや娘さんに、お世話になったことがあります。今回の目的は、神田可遊氏が、尺八評論に錦風流尺八二代宗家・永野旭影師の墓が寿松院にあるのではと、記事に書かれていました。その記事には、お寺さんからの回答に、永野はないが、長野はあると書いてありました。そのため、今回、墓地に入り確認をしたところ、松岡家の墓の前方に、雪で倒れた墓石に永野氏の文字あり、その隣の墓石も永野氏とありました。さらにその横には、永野、長野の墓石が9基寄せ墓になっていました。この件の詳細調査は、地元の錦風流伝承会の高橋勝良さんに、お願いをして、弘前を後にしました。その後、高橋勝良氏さんから、2度ばかり寿松院を訪問し、住職に調べていただいた事を手紙で報告して
いただきましたので、その内容を、ここに紹介します。平成27年5月11日、寿松院の住職との面談でわかった事。永野氏と表記された墓石は、現在11基確認することができる。その他に、明治になって永野家から長野家に表記変更をした墓石が一基あり、現在は、その長野家が檀家登録をしているが、改姓のいきさつや、永野雄次郎(旭影)氏の件は不明とのこと。旧士族が明治になって改姓、改名した事は、よくあった。(昭和20年まで)家督相続法(権)の事から、長子、長男がストレートに相続することが一般的であった為、次男以下は相続権が無かった分、本家の墓に入るのがたて前であったので、大きい一族では、とんでもない人数の仏様を埋葬することになって、一部分離、あるいは分墓という形で墓石が増えてきたが、結局、長い間に忘れ去られたものも多いとのこと。因みに住職と、あらためて見ましたが、永野一族の代表格である現・長野氏の墓誌には昭和17年没の永野雄次郎(旭影)氏の表記はなかったので、その名前の示すように長男ではなかったのでしょう。どの墓に埋葬されたかは不明とのことです。後日、高橋勝良さんは、門前の花屋で花を買って、寿松院を再度訪問したところ、住職は、高橋勝良さんは、永野家とは、よほど縁の深い人間ではないかと思われたのか、丁寧に説明をしていただきました。寿松院の先住・先々住が墓地、墓石の確認と、檀家登録の確認を徹底させていなかったことが、今日の不明という答えにつながったとのことで住職から深々と頭を下げられことには、こちらも恐縮した次第です。無情なようですが、寿松院では、倒れた永野氏と隣の永野氏の二基については、何十年もお参りする人もいないので、雪で倒れたことを
きっかけに、無縁墓に合葬したいようです。宗家の永野雄次郎(旭影)氏が亡くなったのが昭和十七年の戦時中であり、家人も、お寺も出征したり、仮埋葬したりと、正確に帳面に記載されない事実が山ほどあった時代背景を考えると、仕方がない話かも知れません。以上が、高橋勝良氏の調査報告です。盛雲院にあります初代宗家・乳井月影師や孫の乳井建道師の墓、あるいは隣の正光寺にあります津島孤松師のように、今でも末裔の方や尺八家が、お参りする墓もあれば、永野雄次郎(旭影)氏のように無縁仏になる墓もあることは残念な事です。また、話は変わりますが、以前、小菅会長から、八雲本陣・木幡吹月師所蔵の錦風流楽譜を写真で拝見したことがあります。その件について今年の六月八日に、島根県松江市宍道町の八雲本陣を訪問し、御家流尺八笛譜を拝見できました。曲目は(1、調)(2、佐可里波)(3、松風志らべ)(4、佐舞也都楽関(5、獅子)(6、流鈴慕)の6曲です。注記のところに、奥州南津軽本郷村鎌田氏の譜(明治32年書写)とあります。この譜は、乳井月影師が明治16年に残された錦風流尺八本調子の譜や、その
弟子の津島孤松師の書かれた譜と違い、コミも書き込まれています。弘前で活躍されました折登如月師のものに近いでしょうか。残念なことに、拝見しました譜は佐舞也都楽関の途中から欠落していて、目録にない真虚空の後半が、残っていました。また、機会があれば、八雲本陣を訪問して、資料集の中から見つければと思っています。また、今年の10月11日から弘前を訪問しました。弘前公園にあります弘前城天守閣は、数日前に、曳家工事で、レールに乗せられ、50メートルばかり移動していました。天守広場の中央には、仮の石垣基礎が準備してあり、ここに据え付けが完了すれば、天守閣も観光客に公開されるようです。今回の旅は、八雲本陣で拝見できました御家流尺八笛譜に書かれていました、南津軽本郷村の鎌田氏なる家が現在もあるかどうかの確認でした。弘前藩士に見られる名字(苗字)天保三年(1832)から明治35年(1902)年「弘前明治一統誌・第一巻・士族卒族名員録」(内藤官八郎著)によれば、士族の中に鎌田の姓も記載されています。明治になり、鎌田氏も弘前城下から離れ、本郷村に移住したのでしょうか。現在は、本郷村は、青森市浪岡本郷に住所が変わっています。いざ、本郷に出かけてみると、バス通りに面して、お店や土建屋、無人のような立派な門構えの邸宅の表札も鎌田でした。鎌田氏も本郷に移り、分家が次々とできたのでしょうか。平成27年の今日、明治時代の1人の錦風流尺八家を探すことは至難の業のように感じました。今や弘前の小学校では、津軽三味線や、ねぷた笛の授業はありますが、音楽を指導する地元の先生方も、江戸時代から地元の弘前藩に伝わる、錦風流尺八の存在すら知らないことは残念なことです。地元の錦風流伝承会には、20代の若者も入会して稽古に励んでいます。1人でも多くの若者が、この道に入り伝承してくれることに期待しながら筆をおきます。
前川 耕月
根笹派錦風流尺八の歴史調査報告
1.平成21年5月 根笹派錦風流尺八の名手を偲んで弘前を訪問し先師たちの墓参りをしました。
2.平成21年7月 弘前訪問で、錦風流尺八の津軽3名人の一人であった 青森の津島孤松師の甥っ子であります、津島六奥氏を訪ねて、津島孤松師直筆の楽譜や、アルバムを拝見することができました。
このアルバムにより、初めて津島孤松師の顔も、皆さんに見てもらうことが出来ました。また、形見の尺八、折登如月作も拝見することができました。
3.平成21年9月 弘前訪問では、錦風流尺八・県技芸保持者 後藤清蔵門下の平尾雄三氏宅を訪問し、津軽三名人の一人であった津島孤松師の最後の弟子、瀧谷孤瀧師が愛用していました、太い地無し2尺2寸管を見ることができました。明治20年頃に、福島の神保政之輔師が青森に来た時に、面会した
津島孤松師 におくったもののようです。その尺八が、現在は平尾雄三氏の
手元にあります。神保三谷の曲を吹けば、竹が曲を歌ってくれるような
名管です。
4.平成21年11月 弘前訪問では、地元弘前の三曲協会で活躍されています
都山流尺八家・境道山先生(境淳一郎)にお会いすることができました。
境先生が所蔵されていました、錦風流二代宗家・永野旭影師から三代宗家・
成田松影師への引き継ぎ書や、地元の尺八家・村上文雄氏が、宗家の成田
松影師よりいただいた師範免状も見ることができました。
5. 平成22年2月 東京・巣鴨の長徳山妙光寺に出かけました。弘前藩九代
藩主・寧親公の命により虚無僧寺一月寺に3年間、尺八を学んで弘前に
戻った、吉崎八弥好道の菩提寺は、弘前・禅林街にあります曹洞宗・
恵林寺でしたが、後に東京・巣鴨の妙光寺に墓が移されました。
その吉崎家の墓参りをしてきました。
6.平成22年5月 弘前訪問では、平川市の猿賀神社を訪ね、宮司の山谷敬氏に会うことができました。山谷敬氏の祖父、山谷義雄氏(孤山)は、宮司であり、また、錦風流尺八は、明治40年頃に、津軽三名人の一人、青森の
津島孤松師に入門し、大正8年に師範免状をもらっています。
7. 平成22年10月 弘前訪問では、弘前市内にあります胸肩神社社務所を
訪問し、山谷敬宮司より、祖父、山谷義雄氏が愛用していました、尺八5本と津島孤松師直筆の楽譜を拝見することができました。特に、折登如月作の
地無し2尺管は、秩父宮殿下の御前演奏で使用されたものです。
また、山谷義雄氏と同じ明治40年頃に、津島孤松師に入門し、長年、弘前
の演奏会でも活躍されました岡本不二男氏宅を訪問し、息子の岡本美登利氏
より、父である不二男氏が愛用された地無し2尺管を拝見しました。
これまで、弘前で数々の錦風流尺八を見てきましたが、その中では一番
太いものでした。
8.平成23年5月 埼玉県在住の錦風流尺八及び、小野寺源吉伝の巣籠の
名手でした乳井建道師の長女、田村琴子さん宅を訪問し、明治16年乳井月影
師が書き残しました錦風流本調子之譜の原本並びに、乳井建道師の書かれた
楽譜、写真なども拝見することができました。
9.平成23年9月 弘前訪問では、禅林街にあります曹洞宗・蘭庭院 を
訪ね、流し六段の名手でした十七世鉄山芳樹和尚の墓参りをし、さらに
庭にあります芳樹和尚の石碑を見ることができました。この石碑には
芳樹和尚愛用の尺八と、ふきちらし我はうき世の北南と刻まれています。
10.平成24年2月 弘前市在住の矯正歯科医・広瀬寿秀氏 より、明治二年
弘前絵図の書籍と、地図のデータをいただきました。この地図によれば、
明治二年の在府町には、錦風流の祖、伴勇蔵師や、その弟子で初代錦風流
尺八の宗家、乳井月影師、また、その門下、前原修助氏の名前も書かかれて
いました。
11.平成24年5月 弘前訪問では、地元の尺八家、三戸建次氏より、昭和11年12月4日、弘前31連隊に勤務されていました、秩父宮殿下の宿舎、
菊池別邸において、山谷義雄氏と斎藤周童氏が御前演奏をしました。
その時の記念写真と、斎藤周童氏が御前演奏で使用されました尺八を
拝見することができました。
12. 平成24年9月 弘前訪問では、昭和10年に昭和天皇の弟、秩父宮殿下が
弘前31連隊に勤務することになり、宿舎の菊池別邸の警護のために、
作家の寺山修司の父親、寺山八郎が紺屋町臨時巡査派出所に巡査として
勤務していました。その臨時巡査派出所の改修工事が完了し、新しくなった、紺屋町派出所を見ることができました。
13.平成25年5月 北海道函館で活躍されました、錦風流尺八家で、津島
孤松師の弟子、阿部孤鶴師宅を 訪問し、長女の方から、昔の話を聞くことが
できました。また、阿部孤鶴師の錦風流尺八教授の看板も記念にいただき
ました。
14.平成25年10月 弘前訪問では、錦風流尺八・工藤兵一氏の書かれた
錦風流本曲譜・琴古流本曲譜を所蔵しています佐藤新子さんから見せて
いただくことができました。
15.平成26年5月 弘前訪問では、錦風流尺八・工藤兵一氏の愛用して
いました、地無し2尺管を所蔵しています佐藤新子さんから見せていただく
ことができました。
平成26年10月 弘前訪問では、錦風流尺八の祖とも言うべき、伴勇蔵
建之師の菩提寺で、津軽軍師・沼田面松斎顕影会開催され、私が錦風流
尺八について講演をさせていただきました。
17.平成27年5月 弘前訪問では、錦風流尺八二代宗家・永野旭影師の墓が
弘前禅林街・寿松院に実在するのか現地調査をしました。
18.平成27年6月 島根県松江市宍道町の八雲本陣を訪問し、木幡吹月師
コレクションの中の、御家流尺八笛譜を拝見することができました。
この錦風流楽譜の表紙裏には、明治32年奥州南津軽郡本郷村・鎌田氏
所蔵の楽譜を書き写すと記載されていました。
19.平成27年10月 弘前訪問では、禅林街・曹洞宗宗徳寺の黒滝住職に
江戸時代に、錦風流尺八・伴勇蔵師とならんで、僧・耕春院哲長という
僧侶がいたのかどうかを調べてもらいました。また、青森市浪岡の
本郷に出かけ、錦風流尺八家、鎌田氏なる家を探しました。
20.平成28年5月弘前訪問では、故・松岡竹風師宅で折登如月作の2尺管を
拝見をする。また、錦風流・報恩寺道広や円明寺、光善院跡地などを確認をした。また、流し六段の名手であり蘭庭院住職・芳樹和尚が眠る、報恩寺の東海家墓地にもお参りをしました。地元・錦風流伝承会の皆さんの研修会で奏法の指導もできました。
2.平成21年7月 弘前訪問で、錦風流尺八の津軽3名人の一人であった 青森の津島孤松師の甥っ子であります、津島六奥氏を訪ねて、津島孤松師直筆の楽譜や、アルバムを拝見することができました。
このアルバムにより、初めて津島孤松師の顔も、皆さんに見てもらうことが出来ました。また、形見の尺八、折登如月作も拝見することができました。
3.平成21年9月 弘前訪問では、錦風流尺八・県技芸保持者 後藤清蔵門下の平尾雄三氏宅を訪問し、津軽三名人の一人であった津島孤松師の最後の弟子、瀧谷孤瀧師が愛用していました、太い地無し2尺2寸管を見ることができました。明治20年頃に、福島の神保政之輔師が青森に来た時に、面会した
津島孤松師 におくったもののようです。その尺八が、現在は平尾雄三氏の
手元にあります。神保三谷の曲を吹けば、竹が曲を歌ってくれるような
名管です。
4.平成21年11月 弘前訪問では、地元弘前の三曲協会で活躍されています
都山流尺八家・境道山先生(境淳一郎)にお会いすることができました。
境先生が所蔵されていました、錦風流二代宗家・永野旭影師から三代宗家・
成田松影師への引き継ぎ書や、地元の尺八家・村上文雄氏が、宗家の成田
松影師よりいただいた師範免状も見ることができました。
5. 平成22年2月 東京・巣鴨の長徳山妙光寺に出かけました。弘前藩九代
藩主・寧親公の命により虚無僧寺一月寺に3年間、尺八を学んで弘前に
戻った、吉崎八弥好道の菩提寺は、弘前・禅林街にあります曹洞宗・
恵林寺でしたが、後に東京・巣鴨の妙光寺に墓が移されました。
その吉崎家の墓参りをしてきました。
6.平成22年5月 弘前訪問では、平川市の猿賀神社を訪ね、宮司の山谷敬氏に会うことができました。山谷敬氏の祖父、山谷義雄氏(孤山)は、宮司であり、また、錦風流尺八は、明治40年頃に、津軽三名人の一人、青森の
津島孤松師に入門し、大正8年に師範免状をもらっています。
7. 平成22年10月 弘前訪問では、弘前市内にあります胸肩神社社務所を
訪問し、山谷敬宮司より、祖父、山谷義雄氏が愛用していました、尺八5本と津島孤松師直筆の楽譜を拝見することができました。特に、折登如月作の
地無し2尺管は、秩父宮殿下の御前演奏で使用されたものです。
また、山谷義雄氏と同じ明治40年頃に、津島孤松師に入門し、長年、弘前
の演奏会でも活躍されました岡本不二男氏宅を訪問し、息子の岡本美登利氏
より、父である不二男氏が愛用された地無し2尺管を拝見しました。
これまで、弘前で数々の錦風流尺八を見てきましたが、その中では一番
太いものでした。
8.平成23年5月 埼玉県在住の錦風流尺八及び、小野寺源吉伝の巣籠の
名手でした乳井建道師の長女、田村琴子さん宅を訪問し、明治16年乳井月影
師が書き残しました錦風流本調子之譜の原本並びに、乳井建道師の書かれた
楽譜、写真なども拝見することができました。
9.平成23年9月 弘前訪問では、禅林街にあります曹洞宗・蘭庭院 を
訪ね、流し六段の名手でした十七世鉄山芳樹和尚の墓参りをし、さらに
庭にあります芳樹和尚の石碑を見ることができました。この石碑には
芳樹和尚愛用の尺八と、ふきちらし我はうき世の北南と刻まれています。
10.平成24年2月 弘前市在住の矯正歯科医・広瀬寿秀氏 より、明治二年
弘前絵図の書籍と、地図のデータをいただきました。この地図によれば、
明治二年の在府町には、錦風流の祖、伴勇蔵師や、その弟子で初代錦風流
尺八の宗家、乳井月影師、また、その門下、前原修助氏の名前も書かかれて
いました。
11.平成24年5月 弘前訪問では、地元の尺八家、三戸建次氏より、昭和11年12月4日、弘前31連隊に勤務されていました、秩父宮殿下の宿舎、
菊池別邸において、山谷義雄氏と斎藤周童氏が御前演奏をしました。
その時の記念写真と、斎藤周童氏が御前演奏で使用されました尺八を
拝見することができました。
12. 平成24年9月 弘前訪問では、昭和10年に昭和天皇の弟、秩父宮殿下が
弘前31連隊に勤務することになり、宿舎の菊池別邸の警護のために、
作家の寺山修司の父親、寺山八郎が紺屋町臨時巡査派出所に巡査として
勤務していました。その臨時巡査派出所の改修工事が完了し、新しくなった、紺屋町派出所を見ることができました。
13.平成25年5月 北海道函館で活躍されました、錦風流尺八家で、津島
孤松師の弟子、阿部孤鶴師宅を 訪問し、長女の方から、昔の話を聞くことが
できました。また、阿部孤鶴師の錦風流尺八教授の看板も記念にいただき
ました。
14.平成25年10月 弘前訪問では、錦風流尺八・工藤兵一氏の書かれた
錦風流本曲譜・琴古流本曲譜を所蔵しています佐藤新子さんから見せて
いただくことができました。
15.平成26年5月 弘前訪問では、錦風流尺八・工藤兵一氏の愛用して
いました、地無し2尺管を所蔵しています佐藤新子さんから見せていただく
ことができました。
平成26年10月 弘前訪問では、錦風流尺八の祖とも言うべき、伴勇蔵
建之師の菩提寺で、津軽軍師・沼田面松斎顕影会開催され、私が錦風流
尺八について講演をさせていただきました。
17.平成27年5月 弘前訪問では、錦風流尺八二代宗家・永野旭影師の墓が
弘前禅林街・寿松院に実在するのか現地調査をしました。
18.平成27年6月 島根県松江市宍道町の八雲本陣を訪問し、木幡吹月師
コレクションの中の、御家流尺八笛譜を拝見することができました。
この錦風流楽譜の表紙裏には、明治32年奥州南津軽郡本郷村・鎌田氏
所蔵の楽譜を書き写すと記載されていました。
19.平成27年10月 弘前訪問では、禅林街・曹洞宗宗徳寺の黒滝住職に
江戸時代に、錦風流尺八・伴勇蔵師とならんで、僧・耕春院哲長という
僧侶がいたのかどうかを調べてもらいました。また、青森市浪岡の
本郷に出かけ、錦風流尺八家、鎌田氏なる家を探しました。
20.平成28年5月弘前訪問では、故・松岡竹風師宅で折登如月作の2尺管を
拝見をする。また、錦風流・報恩寺道広や円明寺、光善院跡地などを確認をした。また、流し六段の名手であり蘭庭院住職・芳樹和尚が眠る、報恩寺の東海家墓地にもお参りをしました。地元・錦風流伝承会の皆さんの研修会で奏法の指導もできました。