尺八の旅・その他のアルバム
HOME > 思い出のアルバム > 尺八の旅・その他のアルバム

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その1)(2023.11.15)

11月13日からの旅行、三重県鳥羽市に宿泊した翌日、レンタカーで熊野市に移動し、熊野倶楽部に宿泊、翌日は世界遺産の熊野古道の松本峠コースにチャレンジしました。案内は地元の語り部、向井さん82歳でした。向井さんは、地元の砂浜でウミガメの産卵のサポートや、熊野古道の補修作業を20年続けてきたとのことでした。海岸沿いに道路が出来るまでは、熊野古道が生活道路で、小学校のころから、松本峠を越えて通学したそうです。松本峠のお地蔵さん、昔、妖怪に間違えられ、鉄砲で撃たれた傷が残っていました。お地蔵さまに、大久保甲童作の2尺3寸管で献奏して、別道で下山しました。約2時間の散策でした。
熊野古道を松本峠に向かう(クリックで画像を拡大)
向井さんがウラジロを説明(クリックで画像を拡大)
熊野古道を松本峠に向かう(クリックで画像を拡大)
熊野古道を松本峠に向かう(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その2)(2023.11.15)

熊野古道を松本峠に向かう(クリックで画像を拡大)
松本峠のお地蔵様に献奏(クリックで画像を拡大)
松本峠のお地蔵様(クリックで画像を拡大)
松本峠の説明板(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その3)(2023.11.15)

熊野の海岸線を望む(クリックで画像を拡大)
松本峠の説明板(クリックで画像を拡大)
語り部の向井さんと(クリックで画像を拡大)
世界遺産との境界線(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その4)(2023.11.15)

明暗真法流尺八家の尾崎真龍の顕彰碑は、昭和53年10月1日に除幕式が開催されました。尾崎真龍師の明暗真法流の勝浦正山師は明治16年4月、28歳の時に新宮町に師を訪ねて入門を許され、明治20年11月、32歳の時に皆伝を許され、翌21年、33歳の時に京都に出て、東福寺山内善慧院に設けられて居た明暗教会と云う虚無僧の会に所属、虚無僧稼業を以って世を終わられたのであった。(塚本虚堂集より)
曹洞宗・全竜寺(クリックで画像を拡大)
曹洞宗・全竜寺山門(クリックで画像を拡大)
全竜寺の元の説明(クリックで画像を拡大)
全竜寺本堂(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その5)(2023.11.15)

全竜寺の住職に、尾崎真龍の吹き料の尺八のことをお聞きしたところ、自分も10年ばかり尺八を習ったが、ものにならず、尺八は人にあげて今は無いとのことでした。私が献奏しました、大久保甲童作の尺八を見て、同じような色をしていたが、大久保甲童作の手穴は14mmくらいあるので、これよりは小さい手穴だったと。
本堂前の尾崎真龍の顕彰碑(クリックで画像を拡大)
本堂前の尾崎真龍の顕彰碑(クリックで画像を拡大)
尾崎真龍の顕彰碑(クリックで画像を拡大)
尾崎真龍の顕彰碑に献奏(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その6)(2023.11.15)

尾崎真龍の顕彰碑に献奏(クリックで画像を拡大)
尾崎真龍の顕彰碑(クリックで画像を拡大)
全竜寺の山門前にて(クリックで画像を拡大)
全竜寺の山門前にて(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:白骨温泉の中里介山の石碑を見る(その1)(2023.10.2)

10月2日の朝、家族3人で車にて、長野県の白骨温泉に出かけました。白骨温泉入口の右上には、大菩薩峠の小説で有名な中里介山の石碑があります。
白骨温泉入口(クリックで画像を拡大)
白骨温泉入口(クリックで画像を拡大)
中里介山の石碑(クリックで画像を拡大)
中里介山の石碑(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:白骨温泉の中里介山の石碑を見る(その2)(2023.10.2)

大菩薩峠と書かれた石碑(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:上高地を散策(その1)(2023.10.3)

50年前に、穂高や槍ヶ岳などの登山で訪れた上高地、その後、家族で27年前に訪れて以来、久々に上高地を散策しました。今は、韓国や中国からの団体や、ヨーロッパなどからの観光客が多く、日本人は、昔を思いだすような、杖を片手の老人ばかり、すっかり様子が変わっていました。帝国ホテル前から明神池までの往復10キロばかりの散策で、翌朝、起床したら、両足が筋肉痛、ホテルから上高地バスターミナルまで、足を引き摺りながら、やっとバスに乗ることが出来ました。遠い昔の健脚はどこに行ったやら。
上高地河童橋にて(クリックで画像を拡大)
上高地河童橋にて(クリックで画像を拡大)
上高地たしろ橋にて(クリックで画像を拡大)
梓川沿いで尺八を吹く(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:上高地を散策(その2)(2023.10.3)

梓川沿いで尺八を吹く(クリックで画像を拡大)
梓川の流れ(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:甲州・乙黒明暗寺跡に史蹟訪問(その1)(2023.10.5)

白骨温泉から、上高地、美ヶ原高原を回り、最後は下諏訪温泉に宿泊して、帰りに中央市乙黒にあります、乙黒明暗寺史蹟に立ち寄りました。甲州乙黒明暗寺史蹟碑除幕式は昭和60年9月29日に、玉穂町町長の出席され、盛大に行われました。その翌年に、旅の途中に立ち寄ったら、石碑の位置が、門の右側に移動していて驚きましたが、甲斐日産自動車の整備工場を建設するのに、障害になり、移動したとのことでした。それから37年ぶりの訪問になりました。石碑の文字は、私の師匠、岡本竹外先生が書かれた書が石碑に刻まれました。昭和60年のある日、岡本竹外先生宅に稽古に出かけたら、ちょうど、先生がこの文字を書き終えたところでした。今では11月3日に地元の尺八家が、虚無僧供養の会を開催しているとのことでした。昭和60年の除幕式の記念写真の方々、大半が亡くなられました。
甲州・乙黒明暗寺史蹟にて献奏(クリックで画像を拡大)
甲州・乙黒明暗寺史蹟にて献奏(クリックで画像を拡大)
乙黒明暗寺史蹟横で(クリックで画像を拡大)
乙黒明暗寺史蹟横で(クリックで画像を拡大)

尺八の旅・その他のアルバム:甲州・乙黒明暗寺跡に史蹟訪問(その2)(2023.10.5)

乙黒明暗寺史蹟(クリックで画像を拡大)
乙黒明暗寺史蹟(クリックで画像を拡大)

安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その1)

長野県佐久市安原1687 臨済宗(妙心寺派)安養寺にあります法灯円明国師座像を拝見し、献奏をしてきました。この安養寺の住職、役員の方々は毎年10月、和歌山県由良にあります興国寺の訪問が恒例になっているとのことでした。今年の10月は檀家の皆さんとマイクロバスで遠路、由良興国寺まで出かけたとのこと。今回、突然の訪問、檀家の法要の最中でしたが、御厚意で本堂奥の法燈国師像の前で、3尺管で阿字観を献奏させていただきました。献奏のあと、客間で娘とお茶をいただきました。帰りに安養寺味噌を購入して帰りました。
法燈国師像に献奏(クリックで画像を拡大)
法燈国師像の前で(クリックで画像を拡大)
法燈国師像(クリックで画像を拡大)
安養寺方丈(クリックで画像を拡大)

安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その2)

安養寺の木造伝法燈国師座像について(佐久市のホームページより転載)
平成22年10月18日 長野県宝指定
所在地長野県佐久市安原
所有者 安養寺
木像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右4枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。等身像で水晶をはめ込んだ両目は伏し眼がちに俯瞰(高い所から見おろす)し、鼻すじのとおった細面、固く結んだ口もとには端厳(ただしくおごそか)な国師の意志をうかがわせている。衣服には青っぽい色彩が施されており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などからは清潔感がただよう。製作年代を示す銘記はないが、両膝間は左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林郷に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの謚(オクリナ)(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追謚された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。法量は、胴高85.0cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15.0cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、座奥60.5cm、衣掛け60.0cmである。
安養寺における長野県宝(クリックで画像を拡大)
安養寺寺宝の標識(クリックで画像を拡大)
安養寺本堂(クリックで画像を拡大)
安養寺の庭(クリックで画像を拡大)

安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その3)

安養寺の庭から参道を望む(クリックで画像を拡大)
安養寺の鐘楼(クリックで画像を拡大)
参道から安養寺を望む(クリックで画像を拡大)
参道から安養寺を望む(クリックで画像を拡大)

安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その4)

(安養寺みその説明書き)
信州味噌発祥の地として知られる安養寺は佐久市安原にあります。鎌倉時代の高僧法燈円明国師覚心が拝請開山した寺です。覚心上人は中国より秘法を伝授され日本各地へと広めました。寺のほ場、佐久平一帯で取れた原料を丹精こめて熟成させた味噌です。安養寺味噌で健康増進をはかり、生命を養い安泰にて過ごすことを願います。
参道から安養寺を望む(クリックで画像を拡大)
参道から安養寺を望む(クリックで画像を拡大)
安養寺味噌(クリックで画像を拡大)
安養寺味噌(クリックで画像を拡大)

釈迦牟尼会・五竜の滝での研修(その1)(2010.5.29)

平成22年5月29日、静岡県裾野市にあります釈迦牟尼会・不二般若道場にて研修会を開催しました。当日は、現地に集合して、般若道場にて、山本龍廣老師の指導の元に、座禅会が午前、午後と2回開催されました。昼食の後、五竜の滝に移動して瀧落の曲を献奏しました。道場に戻った後、再度、座禅会が開催され、3時にお茶をいただき、解散になりました。
お参り耕月(クリックで画像を拡大)
献奏を上から見る(クリックで画像を拡大)
滝から帰り道(クリックで画像を拡大)
3時のお茶(クリックで画像を拡大)

釈迦牟尼会・五竜の滝での研修(その2)(2010.5.29)

道場での献奏(クリックで画像を拡大)
不二般若道場の玄関前で(クリックで画像を拡大)
五龍の滝(クリックで画像を拡大)
五龍の滝を背に全員写真(クリックで画像を拡大)

釈迦牟尼会・五竜の滝での研修(その3)(2010.5.29)

五龍の滝の前で献奏(クリックで画像を拡大)
五龍の滝の前で献奏(クリックで画像を拡大)

平成30年増位山虚無僧供養献奏会(2018.5.13)(その1)

平成30年5月13日(日)増位山虚無僧保存会主催で随願寺本堂にて献奏会が開催されました。当日は生憎の雨降りでしたが、全国から30名が参加されました。午前10時に本堂にて出席者全員で調子と増位山随願寺虚無僧供養曲の合奏の後、各自が献奏をしました。
全員写真(クリックで画像を拡大)
当日のプログラム(クリックで画像を拡大)
雨の随願寺本堂(クリックで画像を拡大)
全員で調子の献奏(クリックで画像を拡大)

平成30年増位山虚無僧供養献奏会(2018.5.13)(その2)

上村風穴氏の秋田曲の献奏(クリックで画像を拡大)
谷林白毫氏の霧海ジ(クリックで画像を拡大)
前川耕月の阿字観(クリックで画像を拡大)
懇親会の様子(クリックで画像を拡大)

岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その1)2021.6.24~25

6月24日の午前10時に岡山県高梁市の実家から、竹材や工具などを車に積み込み出発しました。4月に川崎の自宅に戻った時と同じように、途中、三重県菰野、御在所岳の中腹にあります湯の山温泉(鹿の湯)に1泊して、今日、朝食の後、午前10時にホテルを出発、途中の静岡県内は雷雨なのでサービスエリアで休憩しながら、午後3時に川崎市の自宅に無事に帰りました。4月の時は、ゴンドラ、リフトを乗り継ぎ御在所岳の山頂に登りましたが、今回は悪天候なので中止しました。愛車も5年間、岡山県高梁市の実家には14回往復しましたが、明後日に新車に交換です。7月31日まで川崎の自宅で作業をして8月1日に岡山県高梁市の実家に帰省予定です。
竹材・工具類を積み込みました(クリックで画像を拡大)
竹材・工具類を積み込みました(クリックで画像を拡大)
湯の山温泉鹿の湯(クリックで画像を拡大)
湯の山温泉鹿の湯(クリックで画像を拡大)

岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その2)2021.6.24~25

湯の山温泉鹿の湯(クリックで画像を拡大)
湯の山温泉鹿の湯(クリックで画像を拡大)
14畳の和室(クリックで画像を拡大)
床の前で3尺管で阿字観(クリックで画像を拡大)

岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その3)2021.6.24~25

床の前で3尺管で阿字観(クリックで画像を拡大)
床の前で2尺2寸管で獅子(クリックで画像を拡大)
鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)
鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)

岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その4)2021.6.24~25

鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)
鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)
鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)
鹿の湯の夕食は個室で(クリックで画像を拡大)

岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その5)2021.6.24~25

朝はベランダから、向かい側の山に向かい3尺管で吹き込みをしました。雨降る中、山に3尺管の音が響きました。
デザートはロビーで食べ放題(クリックで画像を拡大)

川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その1)(2021.4.21)

川崎市の自宅でわずか18日間を過ごして、また、母が入院しています郷里の岡山県高梁市の実家に向かうことにしました。4月20日、午前10時に自宅を尺八の竹材28本や工具、衣類などを載せて出発、途中で長女の夫佐子を乗せ、滋賀県甲賀市の山中にあります大河原温泉に向かいました。ここまでで片道400キロ、71歳の年齢では、今までのように、夜中9時間の運転は危険なのでやめて、途中で一休みすることにしました。今朝は、朝食の後、御在所岳を見た後、国道1号線で名神の栗東ICに向かい、ここから名神、新名神、中国道、岡山道経由で午後3時過ぎに岡山県高梁市の実家に到着しました。まだ4月だというのに、高梁市の気温は29℃、2階ベランダの作業場は40℃近い気温で、とても尺八製作は出来ません。これから、アルミサッシュ窓を取り付けたり、網戸を付けての対応、6月頃にはスポットエアコンも必要になります。
自宅で28本の竹材の積み込み(クリックで画像を拡大)
甲賀市の観光案内板(クリックで画像を拡大)
若宮神社参道の桜(クリックで画像を拡大)
甲賀市の観光案内板(クリックで画像を拡大)

川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その2)(2021.4.21)

今晩の宿・大河原温泉(クリックで画像を拡大)
今晩の宿・大河原温泉(クリックで画像を拡大)
今晩の宿・大河原温泉(クリックで画像を拡大)
ホテルの向かい側はキャンプ場(クリックで画像を拡大)

川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その3)(2021.4.21)

早朝の屋外で、空気砲の3尺管の音は風にのり遠くまで伝わります。
早朝・屋外で3尺管を吹く(クリックで画像を拡大)
早朝・屋外で3尺管を吹く(クリックで画像を拡大)
早朝・屋外で3尺管を吹く(クリックで画像を拡大)
ホテル前の清流(クリックで画像を拡大)

虚無僧尺八を聞く会(山形県酒田市庄内能楽館)2019.5.15

令和元年5月15日に山形県酒田市にあります公益財団法人庄内能楽館において、虚無僧尺八を聞く会が開催されました。庄内能楽館の池田宏理事長は、明暗導主会で活躍されました故・高橋呂竹先生の甥っ子にあたる方です。今回の尺八を聞く会は、高橋呂竹先生を偲んで、弟子の古屋竹涯先生と弟子の森下月泉氏、それに生前、何かと教えていただいた私の3名での演奏会になりました。昭和54年に池田理事長の母上が趣味の世界で建設されました能舞台、今ならば1億円はかかるということです。こんな立派な舞台で地元の皆さんの前で演奏させていただき、一生の思い出になりました。古屋先生、森下先生の演奏を舞台裏で聞きましたが、高橋呂竹先生が演奏されているように感じました。演奏会の後、池田理事長に、料亭井筒に招待していただき、御馳走になりました。今回の演奏旅行、東京駅から行きは山形新幹線経由で酒田駅まで遠く感じましたが、帰りは庄内空港から飛行機で、あっと思う間に羽田空港に到着しました。思い出に残る旅になりました。
当日のプログラム(クリックで画像を拡大)
演奏者の経歴(クリックで画像を拡大)

虚無僧尺八を聞く会(山形県酒田市能楽館)2019.5.15

当日の講演と演奏の写真
私の講演(クリックで画像を拡大)
私の演奏(クリックで画像を拡大)

巨瀬の祇園寺と竹材(その1)2018.11.14

岡山県高梁市巨瀬町、海抜500mの場所にある巨瀬の祇園寺に平成15年以来、久々に地無し管の竹材堀に出掛けました。また、柳生新陰流に使用します袋竹刀の中の竹も伐採しました。祇園寺の山にある真竹の竹藪の中で地無し管に使用できる肉厚の竹がある場所は一部に限られています。今回、竹を掘った場所はイノシシの住処でもあり、多量の糞も山になっています。
祇園寺についての説明版(クリックで画像を拡大)
正面は祇園寺の鐘楼(クリックで画像を拡大)
天狗杉の大木を望む(クリックで画像を拡大)
天狗杉の大木を望む(クリックで画像を拡大)

巨瀬の祇園寺と竹材(その2)2018.11.14

昼食までに14本の竹材と袋竹刀に使用する竹を10本切ることが出来た。
竹藪の裏の平らな場所は、イノシシが掘り返して荒れていた。夜になれば、活動をしているのだろう。この日は、宇喜多住職夫妻も遠方まで出かけているとのことで、広い山では風で竹がきしむ音だけが不気味に聞こえていました。
真竹の竹藪(クリックで画像を拡大)
真竹の竹藪(クリックで画像を拡大)
竹は小石に中から生えている(クリックで画像を拡大)
午前中の作業が終わり昼食(クリックで画像を拡大)

巨瀬の祇園寺と竹材(その3)2018.11.14

夕方4時までに21本の竹を掘り出した。この竹材を高梁市の実家に持ち帰り根回りの処理をして、七輪を準備して、備長炭で4時間かけて油抜き作業をし、2階ベランダで天日干しにした。この後、正月明けに神奈川県川崎市の自宅に持ち帰り、2月半ばまでベランダで天日干しをする。
掘り出した竹材(クリックで画像を拡大)
実家で根回りの処理をした竹材(クリックで画像を拡大)
備長炭で油抜き作業をする(クリックで画像を拡大)
天日干しにした竹材(クリックで画像を拡大)

小豆島の20番札所:佛ケ滝での献奏(2018.1.3)

今年の尺八吹き始めは小豆島の20番札所・佛ケ滝にて地無し3尺管で阿字観を献奏しました。ここは昨年の5月に母と訪問、洞窟内部で献奏をしましたが、ここの洞窟は管理人がいる午前11時30分から15時までしか内部に入れません。今回は到着が午後4時で門が閉まっていました。そのため、入り口横の不動尊像に献奏をしました。娘が横の鐘楼で鐘を鳴らすと、地無し3尺管の音と共鳴して谷間に響きました。
20番札所・佛ケ滝の前で(クリックで画像を拡大)
佛ケ滝の石段(クリックで画像を拡大)
不動明王の像に献奏(クリックで画像を拡大)
洞窟内部には入れず(クリックで画像を拡大)

前島竹堂先生宅を訪問2017.12.5

明暗蒼龍会の長老・大阪府吹田市在住の前島竹堂先生宅を12月5日の午後、訪問しました。この日は、普化風韻会会長の上村風穴氏、増位山虚無僧保存会会長の伊藤随和氏、前島竹堂先生の門下・深田明水氏のみなさんが訪問されました。前島竹堂先生は明暗蒼龍会の最長老、、まもなく95歳になります。この日も、長時間、椅子に座られ談話されました。午後5時まで尺八談義の後、解散になりました。写真は向かって左から上村風穴氏、前川耕月、前島竹堂先生、深田明水氏、伊藤随和氏。
前島先生宅で記念撮影(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その1)(2016.6.8)黄檗宗・万福寺門前・白雲庵での普茶

黄檗駅で昼前に下車し、耕月会の飛田氏の案内で、黄檗宗・万福寺門前にあります黄檗普茶・白雲庵にて昼食に黄檗普茶をいただきました。庵主の解説によれば、黄檗普茶は今から約三百数十年前江戸時代の初期(1661年寛文元年)中国明の高僧隠元禅師により黄檗宗共々渡来しました明風の精進料理です。京料理の大半は寺院の影響を受けた寺院料理を基調としたものが多く中でも中国風の名残を留めた精進料理は黄檗系統の普茶(黄檗)料理のみです。名称の起こりは普く衆に茶を供するの意と、赴茶(茶に赴く)の意味とがあり、いずれにしても禅門の茶礼(儀式法要などの行事が終わった後全山の者が一堂に会し茶を喫しながら意見交換協議)の後労を犒う為に作法にしたがって出される謝茶(僧堂の御馳走)が普茶で万福寺山門前の白雲庵はその食礼様式を正確に踏襲し簡易素朴な禅味として長方形朱色の飯台に長幼の別なく一座に四人が会して大器に盛られた菜をお互いに自由に取って戴く形式になっています。菜は本来の風味を生かす為に淡泊な味を本位に色彩の取り合わせ素朴さの中にも豪華に其の献立は二汁六菜を中心としております。        (庵主 合掌)

 
白雲庵の前で(クリックで画像を拡大)
白雲庵の部屋内(クリックで画像を拡大)
白雲庵内食事のテーブル(クリックで画像を拡大)
食事の部屋から庭を望む(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その2)(2016.6.8)黄檗宗・万福寺門前・白雲庵での普茶

普茶
澄子(スメ)(蘭茶・前汁)
蔴腐 (マフ)(胡麻豆腐)
雲片(ウンペン)(吉野煮)
冷拌(ロンパン)(和合物) 
笋羹(シュンカン)(菜煮の盛り合わせ)
油鎡(ユジ)(味付天麩羅)
素汁(ソジュウ)(後汁)
醃菜(エンサイ)(香の物)
行堂(ヒンタン)(季節御飯)

これだけの料理をいただきました。 
大皿に盛られた天麩羅(クリックで画像を拡大)
料理を前に飛田氏(クリックで画像を拡大)
運ばれた普茶(クリックで画像を拡大)
大皿に盛られた煮物(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その3)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)

琴古流宗家竹友社で活躍されました中塚竹禅氏が雑誌三曲の昭和12年3月号に投稿された記事の一部を掲載します。(現在の様子と比較すれば時代の流れ
を感じとることができます。)
雑音集(七)竹禅生
廿九、普化塚
明くれば極月廿三日、風もなく雲もなく、陽はカンカンに照り輝いて全く絶好の普化日和といった形、同行の老女を促して急ぎ足に行けば、製造所の門を出て塀沿ひの道を右へ 四五町左方にコンモリと茂った竹藪が見える。待望の普化塚は此竹藪の陰に在るのである。圖に就て説明すると道路に面して竹藪垣あり、其中程に黒門あり、黒門には木戸あり常に閉して居る。黒門を入れば両側に地蔵堂あり其周囲は全部共同墓地黒門より中央正面石段までの距離凡そ二十間、石段は三段、其左右に石燈、各左の如き文字を刻す。表 開祖朗菴虚竹禅師墓前 表 安政三年丙辰春正月立 虚霊山明暗寺
石は花崗岩、高さ五尺四寸幅一尺二寸五分、上方に直径一尺の丸窓火舍なり。石段を上れば瓦葺の門、門朽ちて瓦は落つ塀は土塀にて全部瓦葺、高さ四尺、間口凡七八間、奥行凡十五六間土塀の周囲は野原、後方遥かに黄檗山、人家は只此門に向かって右方塀の外に一軒あるのみ。此門を入ると幅三尺程の石疊が敷詰めてあり、其左右に一基の石燈立つ、
石疊の正面は二間四方位の石敷、石敷の内部に花崗岩の石柱十二本立つ、石柱の内廊には大きな自然石四個、正面に石香爐石花瓶各一個、但此石敷の一角は一體何であるか判らず仕舞ひ。(写真の説明分は略す)
正面突當りの塀際に一列の墓石が建ち並んで居る。右から順次其文字を記せば□不昧軒霊光幸玉禅師墓 文久第三稔次癸亥盂秋建立 幸玉書判□法眷合葬之墓 安政二年乙卯四月立 虚霊山明暗寺○明暗三十一世堅堂宗固塔主禅師 嘉永三庚戌四月二十三日□觀妙玄堂居士 慶應二年丙寅冬十一月朔日卒□魯堂元協居士 安政六季巳末秋八月十三日卒 以上各墓の前には石で、四角な香立と丸い花立が建って居る。觀妙玄堂居士は明暗寺台三十三世、魯堂元協居士は同三十二世。

墓地の入口に立つ虚竹禅師の石碑(クリックで画像を拡大)
正面突きあたりが普化塚(クリックで画像を拡大)
普化塚の内部(クリックで画像を拡大)
奥に並ぶ墓石(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その4)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)

昭和12年、中塚竹禅氏がこの場所を訪れた記事と現在の写真を比較すれば
敷地の後方を京阪電車が走り、隙間もないくらい住宅も建ち、その当時の面影は全くありません。 
虚竹禅師の墓(クリックで画像を拡大)
虚竹禅師の墓(クリックで画像を拡大)
朗菴虚竹禅師の石標(クリックで画像を拡大)
普化塚重修之碑(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その5)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)

梅雨に入り天候も心配でしたが、幸いに晴れて暑い中の訪問になりました。
飛田氏の献奏(クリックで画像を拡大)
飛田氏の献奏(クリックで画像を拡大)
私も調子の献奏(クリックで画像を拡大
私も調子の献奏(クリックで画像を拡大

京都の旅(その5)(2016.6.8)(樋口対山師の墓を訪問)

昭和12年4月に発行された雑誌三曲の4月号に琴古流宗家竹友社で活躍された中塚竹禅氏が樋口対山師の墓参りをした記事があるので、その一部をここに掲載します。
三十四 対山居士墓
實報寺を出て元の道即ち高札のある所から更に西大谷の塀に沿ふて坂を上がると左側に花家が飛々に三軒ある。其一番上の花屋(白髪染の大看板のある家)で聞くと此花家が樋口家の墓所を預る家である事が判った、何しろ鳥邉山の墓地は頗る廣いのでサンザン捜しあぐんだ事を記して後の人の為に御注意して置く。樋口家の墓所は中々廣く大きい、即ち墓は右側に六基、左側に九基、中央に小路あり、右側の一番手前の墓が即ち対山居士の墓である例に依って恭しく墓石を洗ひ浄め香華を手向け謹んで雲上律を奏す、但し特に居士に由縁の瀧落の曲を奏したのである、芦水翁善哉々々といふ、恐る恐る碑面を拝すれば表 天聲院孝道対山居士 左 大正三年十一月廿二日建 號 明暗対山 碑文は建仁寺管長竹田黙雷筆。対山居士は所謂明暗流の祖、名古屋兼友西園の門人で始め鈴木姓、明治三十五年四十七歳の時、京都六波羅の樋口家の養子となって改姓、享年五十九といふ説(塚本説)であるが川瀬先生のお話では五十七歳が本當らしい、此點目下調査中。辞世を○うきふしのしらべかさぬる笛の音を松ふく風にのこしてそゆく といふて墓碑面に刻んであるソウな時は黄昏、餘りに先を急いだ為に遂に此辞世歌を見落としてしまった事は取り返しのつかぬ一大失策であった、謹んで遥に居士の霊にお詫びをする次第である。
 
当時の花屋(松田花店)は現存(クリックで画像を拡大)
しらがぞめの看板(クリックで画像を拡大)
日蓮宗・延年寺の墓地は松田花店で管理されている(クリックで画像を拡大)
樋口家の墓(クリックで画像を拡大)

京都の旅(その7)(2016.6.8)(樋口対山師の墓を訪問)

樋口対山師の墓に献奏すれば、視線の先に清水寺の五重塔の朱色が鮮やかに
見える。但し、この鳥邉山墓地の道から清水寺には通り抜けが出来ないと表札が出ていました。 
右が樋口対山師の墓(クリックで画像を拡大)
対山師の墓石(クリックで画像を拡大)
対山師の墓に飛田氏が献奏(クリックで画像を拡大)
私も調子を献奏する(クリックで画像を拡大)

高橋呂竹師の尺八(H.28.3.7)

昨年の5月に亡くなりました高橋呂竹先生の尺八、平成22年に訪問した時に
歌口が欠けているので修理を依頼されました。自宅に持ち帰り、歌口を交換した後、写真に残していました。中継ぎ部も、現代管とは反対側の上管側が凸に
なっています。音味の良い、1尺8寸管でした。 
姿の良い地無し管(クリックで画像を拡大)
上管側が凸になっている(クリックで画像を拡大)
上管側が凸になっている(クリックで画像を拡大)
修理後、息を入れる(クリックで画像を拡大)

京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その1)

平成28年2月10日(水)、京都市右京区宇多野上ノ谷町3にあります、臨済宗建仁寺派妙光寺を訪問しました。今から30年以上前に、岡本竹外先生宅で稽古の時に、妙光寺は、荒れ果てて、座敷の下から竹の子が畳を突き抜け、天井までも抜けていて、雨漏りがしてひどい状態になっていると聞いたことがあります。今回、大阪訪問の後、京都に宿泊したので、この記憶を元に、妙光寺を訪ねることができました。突然の訪問でしたが、芳賀和尚に気持ちよく、迎えていただきました。座敷で挨拶の後、虚無僧研究会会長、小菅大徹和尚から寄贈されました昭和25年頃の虚無僧の偈箱と、妙光寺が発行した托鉢許可証を見せていただきました。また、普化尺八の歴史に登場します法燈国師の像も拝見することができました。芳賀和尚の説明では、幕末、この妙光寺は勤皇方の集合場所であり、桂小五郎や高杉晋作もここにいたとのこと。庭には高杉晋作が酔っぱらって、誤って落ちたと言われる井戸もありました。今は、改修されて、座禅や普化尺八の修行の場として知られています。芳賀和尚から、お抹茶の接待を受け、禅の悟りについてのお話を 聞くことができました。京都訪問で、すばらしい土産になりました。帰り道、小雪が舞っていました。 
嵐電宇多野駅で下車(クリックで画像を拡大)
嵐電宇多野駅(クリックで画像を拡大)
京都市指定有形文化財の説明板(クリックで画像を拡大)
山門には本朝普化古道場の看板がある(クリックで画像を拡大)

京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その2)

妙光寺復興趣意書
飄々として空を吹き抜けるが如く渡る風神、地を睨み雲を踏付け雷を放たんとする雷神。
桃山時代を代表する自由迂達・豪華絢爛なる俵屋宗達筆国宝「風神雷神」は時の豪商打它家によって妙光寺に奉納されたとされている。京都十刹という高い寺格に在りながらも、江戸期から明治の変革期に勤皇の一拠点として新撰組の焼き討ちを受け、廃仏毀釈と度重なる風水害により荒廃の極に達している。百年の願いであった大復興が臨済宗大本山建仁寺によって挙行されている。 

京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その3)

沿革
弘安八年(1285)法燈国師覚心を開山とする。藤原氏・花山院との繋がりから南朝より勅願寺とされ一時「三種の神器」は奉安されていた。応仁の乱による都の荒廃に巻き込まれるものの、高台寺三江和尚の指導のもと才林・雲庵和尚らと打它家の支援によって室町末期、更なる繁栄を取り戻している。覚心禅師は宋より尺八を法器とし托鉢行脚する普化宗を伝えられ、とりわけ味噌・醤油伝来による日本食文化への功績は大きい。京都三条・糸屋の娘、姉は十八妹は十五。諸国大名は弓矢で殺す糸屋の娘は目で殺す。で有名な糸屋十右衛門は打它氏の呼称であり、光悦、宗達、仁清、光琳、乾山、小堀遠州らとの交流の後が多々文書に残されている。 
高杉晋作が落ちたという井戸(クリックで画像を拡大)
荒廃していた妙光寺(クリックで画像を拡大)
荒廃していた妙光寺(クリックで画像を拡大)

大阪の旅(2016.2.9)

平成28年2月9日(火)大阪府吹田市在住で明暗蒼龍会の長老・前島竹堂先生宅を訪問しました。皆さん、稽古の後、前島先生が行きつけの店での夕食会
にてご馳走になりました。写真の左手前から、前川、島田、國見、右奥から、前島、伊藤、上村、飛田の7名。 
前島竹堂先生との夕食会(クリックで画像を拡大)

西向寺虚無僧之碑建立記念15周年記念献奏大会(2015.10.25)

横浜市本覚寺に虚無僧寺・西向寺虚無僧之碑が建立されて15年が過ぎました。平成27年10月25日本覚寺において虚無僧練りと献奏大会が開催されました。 
虚無僧練りの記念写真(クリックで画像を拡大)
本覚寺本堂前で(クリックで画像を拡大)

大阪の旅(その1)2015.4.18~4.20)

大阪の旅 平成27年4月18日~20日 4月18日、大阪ガーデンパレスにて東久邇宮記念賞の授与式が開催されました。昨年、11月3日の文化褒賞に続いて、今回も普化禅尺八の功績により、記念賞を授与しました。4月19日は、大阪府吹田市在住の明暗蒼龍会の長老・前島竹堂先生(92歳)宅を訪問しました。また、19日の午後は、蒼龍会大阪支部の飛田氏の案内で、平野区の念仏宗本山、大念仏寺を訪ねました。明治6年まで京都東山区池田町にあった明暗寺山門、その後、京都下京区の皆山尋常小学校の山門として移築され、現在は大阪市平野区上町の大念仏寺の境内にあります客殿・瑞祥閣の山門として存在しています。その姿は、長年の風雪に耐えてきた面影があり、また瓦の形は尺八の姿をしています。
東久邇宮記念賞授与式(クリックで画像を拡大)
前島竹堂先生宅にて(クリックで画像を拡大)
旧・明暗寺山門(クリックで画像を拡大)
旧・明暗寺山門(クリックで画像を拡大)

岡山での竹材(2014.12.26)

平成26年12月、岡山の北部で堀った地無し尺八用の竹材を高梁市の実家で
処理をする。地無し管用竹材は、砂利の斜面にある、肉厚で堅い竹を選んで
掘りだし、根回りの砂利を取り除き、きれいにした後は、備長炭で油抜き作業をする。その後は、神奈川県川崎市の自宅の持ち帰り天日干しをする。
岡山県備中産の竹材(クリックで画像を拡大)
根回りの処理が終わった竹材(クリックで画像を拡大)
備長炭を使用して、油抜き作業をする(クリックで画像を拡大)
油抜きした竹材を天日干しする(クリックで画像を拡大)

東久邇宮文化褒賞授与式・祝賀会(2014.11.3)

東久邇宮文化褒賞授与式 平成26年11月3日 京王プラザホテル
このたび普化禅尺八の活動により、東久邇宮文化褒賞を受賞しました。師匠の故・岡本竹外先生より普化禅尺八の師家としての蒼龍窟号の免状をいただき、普及活動を続けてきましたが、その功績が認められました。来賓として明暗蒼龍会・高橋峰外会長も出席していただき、祝賀会では高橋峰外氏には来賓代表として挨拶もしていただき、私は3尺管にて阿字観を演奏しました。
東久邇宮文化褒賞(クリックで画像を拡大)
左から、高橋峰外氏、前川耕月、河内恭夫氏(クリックで画像を拡大)
高橋峰外氏の挨拶(クリックで画像を拡大)
3尺管にて阿字観の演奏(クリックで画像を拡大)

興国寺訪問(1)(2014.6.5~6.6)

平成26年6月4日~5日 和歌山県由良・興国寺を訪問しました。
蒼龍会大阪支部の前島竹堂先生と門下の飛田氏に案内を、お願いしました。また、地元の寺田泰山先生にも、お世話になりました。私が普化禅尺八を学びました、岡本竹外先生は、この興国寺の古川華稜老師に参禅されました。
湯浅駅で特急くろしおから下車し各停を待つ。(クリックで画像を拡大)
紀伊由良駅で前島先生と。(クリックで画像を拡大)
興国寺法堂で、3尺管にて阿字観の献奏。(クリツクで画像を拡大)
興国寺法堂で、寺田泰山先生が調子の献奏。(クリックで画像が拡大)

興国寺訪問(2)(2014.6.5~6.6)

興国寺を見学した後、寺田泰山先生のお世話で、地元の旅館高垣にて
夕食をご馳走になりました。普化尺八の大先輩、前島竹堂先生(91歳)、寺田泰山先生(90歳)から、食事をしながら思い出話を聞くことが出来ました。
由良・興国寺法堂を背景に、大阪支部の飛田氏と。(クリックで画像を拡大)
寺田泰山先生の寄贈されました尺八道場・虚鈴庵を背に。(クリックで画像を拡大)
興国寺山門前で、門下の大部氏と。(クリックで画像を拡大)
旅館高垣での夕食会。(クリックで画像を拡大)

大阪の旅(2014.2.6~2.7)

平成26年2月6日~7日、明暗蒼龍会関西支部長の前島竹堂先生宅を、私と門下の大部氏、法純氏の3名で訪問しました。前島先生宅では、数々の古管を拝見しました。また、夕方には、前島先生のお世話で、箕面市の高台にあります箕面山荘風の杜での夕食会、大阪の夜景を満喫することができました。翌朝、前島先生宅に向かう途中、茨木市にあります「ぼろ塚」を訪ねました。徒然草115段に出てくる、宿河原のぼろ塚の逸話に由来し、その供養として建てられたといわれる。
前島先生宅にて(クリックで画像を拡大)
前島先生宅にて(クリックで画像を拡大)
ぼろ塚に立ち寄る(クリックで画像を拡大)
ぼろ塚で献奏(クリックで画像を拡大)

博多の旅2013.9.22)

博多の一朝軒を、平成25年9月22日に訪問しました。
住職の磯玄明住職は、京都建仁寺で修行を積まれましたが、虚無僧研究会の小菅大徹和尚は、同じ建仁寺で修行をされた先輩になるとのことです。訪問した日は、午後から尺八の稽古日であったので、稽古の終わった夕方5時に訪問をしました。磯玄明住職から、お抹茶をいただいた後、岡本竹外尺八随想集を寄贈させていただきました。岡本竹外先生の明暗蒼龍会の夏季旅行で一朝軒を訪問してから20年の歳月が過ぎていました。本堂で、磯玄明住職は、錦風流調、下り葉を献奏されました。折登如月師から、佐賀の山上月山師が習われたものを、磯譲山氏が学ばれ、それをご子息の磯玄明住職は学ばれたとのことです。私は地無し3尺管にて阿字観を献奏させていただきました。
博多・一朝軒の本堂(クリックで画像を拡大)
磯玄明住職と(クリックで画像を拡大)
本堂で磯玄明住職の献奏(クリックで画像を拡大)
本堂で阿字観を献奏しました(クリックで画像を拡大)

京都の旅(2013.2.16)

京都・霊山にあります明暗寺33世玄堂と弟子の素行の墓を、平成25年2月16日訪ねました。幕末、京都において普化宗は所詮、立つ瀬はない瀬戸際に、兼ねてから一宗の堕落に心を痛めていた明暗寺33世の看主玄堂は「これまで普化宗が暫くも有利な立場で過ごして来ることの出来たのも、一つには徳川幕府のお陰であるが、といっても、その発端はといえば、言わずも語らずして不思議に
落ち合った政略応酬の結果で、精神状態は両方共不純である。却って、これがために 開祖の眞諦は蔽われ、遂に一宗の堕落を招くこととなった。寧ろ、この際、大義名分に従って勤王に馳せ参じ、王政復古と共に普化宗の堕落を一掃して虚無僧托鉢の面目を昔時に逸回し、風紀を一新して王政と共に開祖の眞宗に復古したならば、既に傾いた狂瀾を未到に返し得ぬとも限らぬ。若しまた王政復古が成らず、普化復古も成らずして、不幸にも絶宗の憂き目に遭遇しても、それは天の制裁に基づくところで、人力の及ぶ限りでない。たとえまた如何なる事があっても内訌外患頻発して国家安危の際、一宗を捧げて馳せ参じ、国家の為に奔走するのは、一管の吹簫によって涵養された虚無純粋な精神の然らしめるところである。潔く發いて萬朶の桜と散り、赤き誠心を青史に飾ることが出来たならば、聊か普化宗積年の汚辱を雪ぐこともできるであろう。と断乎たる決心のもとに、一山の寺徒を励まし、慨然として勤王志士の群れに投じて奔走し、表面何食わぬ顔をして江戸に下り、その実は間謀として幕府の役人に睨まれ、遂に捕えられて、元治元年七月十九日に京都で首を刎ねられました。斯くと聞くや同じ明暗寺の役僧でありました素行師が、小癪なと許り師の意思を継いで、国事探偵となって復た江戸に下り、絶えず幕府の内情を京都に密通しておりましたが、素行師も亦、遂に
召し捕られて牢屋に打ちこまれました。 兎に角するうちに王政復古となり、
素行師は出牢しましたが、牢中の苛責に羸れ果てた結果、慶應二年十一月一日に大阪で病没いたしました。これがために両師は朝廷から勤王家として、東山霊山に厚く葬られました。次いで明治維新となり、百般の管正改革して
天下の両目を一新せられ、普化宗は案の如く廃しの議が決しましたが、玄堂、素行両師の功績で賞で、普化宗一派の哀訴を容れ、朝廷では一時廃宗を見合わせたとのことであります。然してその堕落弊風は到底矯正し難いとあって、明治4年太政官布告を以て、「自今普化宗を廃し虚無僧を禁じ民籍に編入す」という断乎たる普化宗廃止の聖裁が下りました。
(明暗吹簫法基階より抜粋) 
霊山の案内板(クリックで画像を拡大)
霊山にある玄堂・素行師の墓(クリックで画像を拡大)
玄堂・素行師の墓に献奏(クリックで画像を拡大)
霊山にある、坂本龍馬の墓(クリックで画像を拡大)

弘前からの便り(2)(2012.2.8)

平成24年2月8日、9日、錦風流尺八・県技芸保持者の平尾竹朋氏、藤田竹心氏など4名の演奏収録が、文化庁により、弘前市民会館で県文化財保護課の古川氏、弘前学院大学教授、笹森建英氏立ち合いの元で、行われました。2月8日の午前中は、平尾竹朋氏、藤田竹心氏の演奏が、午後は須藤脩鵬さんの演奏が、また2月9日は、山田史生氏の演奏がそれぞれ収録されました。
平尾竹朋氏の演奏(クリックで画像を拡大)
藤田竹心氏の演奏(クリックで画像を拡大)

高橋景外氏を偲ぶ(その1)(2011.10.29)

明暗蒼龍会会員の高橋景外氏が、717日病気で他界されました。

岡本竹外先生が亡くなって後、私の自宅に稽古に通われて、普化禅尺八を

学ばれ、また武蔵野会では一橋大学のOBとして、津田塾筝曲のOGとの

三曲合奏でも活躍されていました。私の製作しました、地無し管 23寸管、28寸管、3尺管を長年愛用していただきました。闘病中は、私に茶杓を製作してほしいと電話があり、共筒には桜の季節にちなんで、夜桜の銘をつけました。茶杓を受け取りに来られたのが、永久の別れとなりました。この時は帰り際に、3尺管で阿字観を吹いてほしいとのことで、この曲を満足そうに聞いておられました。1029日、虚無僧研究会本部の法身寺において、明暗蒼龍会と武蔵野会の合同で法要が行われます。平成231029日(土) 虚無僧研究会本部・臨済宗 法身寺に於いて明暗蒼龍会会員で今年717日に他界されました高橋景外氏の法要が行われました。蒼龍之碑に分骨が収められ小菅和尚の読経のあと会員で冥福を祈り、 法身寺の本堂において高橋景外氏のご遺族、蒼龍会会員、武蔵野会会員が集まり、故人の遺影に焼香しました。 高橋景外氏を偲び、蒼龍会会員による越後鈴慕の献奏をしました。一橋大学 都山流尺八部 OB、 津田塾 筝曲部 OG の武蔵野会による地唄 残月の演奏が献曲されました。

在りし日の高橋景外氏(クリックで画像を拡大)
法身寺墓地・蒼龍之碑に納骨(クリックで画像を拡大)
本堂にて小菅住職の読経(クリックで画像を拡大)
本堂にて越後鈴慕の献奏(クリックで画像を拡大)

高橋景外氏を偲ぶ(その2)(2011.10.29)

本堂で献奏の後、客殿でお琴の献曲が、行われました。
三曲合奏・残月(クリックで画像を拡大)
景外氏の思い出を語る(クリックで画像を拡大)
客殿での記念写真(クリックで画像を拡大)

弘前からの便り(1)(2011.3.)

青森県文化財保護条例の規定により、県技芸。根笹派大音笹流尺八の
県技芸保持者として、青森県教育委員会から、追加認定で、平尾雄三氏と藤田竹心氏が認定されました。青森県教育庁の岡田康博氏より認定書が授与されました。写真は左から平尾雄三氏、岡田康博氏、藤田竹心氏。
平尾雄三氏、藤田竹心氏は、師匠であり県技芸保持者でした故・後藤清蔵氏の墓前に報告し、献奏をしました。 
県技芸認定書授与(クリックで画像を拡大)
後藤清蔵氏の墓前に報告(クリックで画像を拡大)
献奏をする(クリックで画像を拡大)

明暗蒼龍会の研修会・法身寺にて(2010.10.30)

平成22年10月30日に新宿区の法身寺にて虚無僧研究会の献奏大会に備えての合奏稽古をしました。11月23日の献奏会では錦風流松風を本手を1尺8寸管で、雲井調子を2尺3寸管にて
合奏。研修の後、懇親会は台風の影響を気にしながら17時30分に解散になりました。 
松風の稽古(クリックで画像を拡大)
松風の稽古(クリックで画像を拡大)
松風の稽古(クリックで画像を拡大)
記念写真(クリックで画像を拡大)

広島県福山市神辺町・金尾山龍華寺での献奏(2009.3.21)

広島県三原市にあります臨済宗・仏通寺派大本山仏通寺の末寺で、福山市神辺町にあります金尾山龍華寺の山門が完成し、落慶法要が行われました。竹友であり、このお寺の檀家である高松氏から
招待を受けました。この祝賀会に本堂にて献奏を依頼され、3尺管にて阿字観を献奏しました。龍華寺の周りは、銀山後があり、谷間に昔の栄えた時代の家並みが廃墟となっていました。この龍華寺は山の上にあるので、はるか先に瀬戸内海を見ることができます。
完成した山門(クリックで画像を拡大)
山門を背に(クリックで画像を拡大)
完成した山門の前で(クリックで画像を拡大)

岡山での竹材(2008.12.28~2009.1.11)

郷里・岡山での竹材、岩場の傾斜地に生えた真竹で親根からのわずかな水分で生育しているので、5年もすれば立ち枯れになってしまう。根の部分を掘り出すのに、新潟三条の芋ほりノミに水道管の重たい柄を付けて、重さで石をたたいて掘り出す。1本掘るだけで、ノミの刃は、刃先が丸くなってしまう。根回りに石が食い込む青竹は1本は1キロ以上もある。これだけ堅い竹材は油抜きをして天日干しをしても
重量は、あまり減らない。土に生えた竹とは、乾燥後に大いに違いがある。今回は60本掘ることが出来た。 
根回りを始末した竹(クリックで画像を拡大)
きれいに洗った竹材(クリックで画像を拡大)
天日干しの竹材(クリックで画像を拡大)

岡本竹外師の7回忌法要(藤田正治・松沢空外氏も)(2007.10.27)

平成19年10月27日、新宿区法身寺において、岡本竹外先生の7回忌法要と、蒼龍会会員の故・藤田正治氏、松沢空外氏の法要が行われました。本堂で、小菅住職の読経の後、会員各自が焼香をしました。その後、調子・虚鈴・越後鈴慕の献奏をしました。この日は、台風の影響で悪天候でしたが、法要も無事に終わりました。
本堂での法要(クリックで画像を拡大)
全員で献奏(クリックで画像を拡大)
記念写真(クリックで画像を拡大)

藤田正治氏の思い出

写真は虚鈴を献奏される藤田正治氏
甲州唯一の虚無僧寺である乙黒明暗寺跡地を所有されています田中潤次氏によって、乙黒明暗寺の史跡碑が建立されました。その祝賀会献奏会に山口県光市から参加され、長管の地無し尺八を吹かれる、藤田先生に、初めて お会いしました。翌年の昭和61年2月16日、横浜の郵船倶楽部で明暗蒼龍会総会及び新年会が開催され、この時に来賓として虚無僧研究会会長の小菅大徹氏、顧問の島村石翁氏、戸谷泥古氏、さらに藤田正治氏が出席されました。これ以降、蒼龍会の総会や地方への研修旅行にも藤田正治氏は参加され、長いお付き合いをさせていただきました。顔を合せるたびに、勝浦正山師の明暗真法流の伝承が絶えてしますと、心配しておられました。岡本竹外先生も数曲のみ吹かれましたが、お経のような曲は、現代尺八家には好まれないようです。勝浦正山師は息が強く、尺八を吹けば障子がバリバリ音をたてたと言われていますが、勝浦正山師の吹き料の尺八が地付きなので、それならば大きな音がすることを理解できます。
長管を吹かれる藤田正治氏(クリックで画像を拡大)

その他のアルバム(2006.4~11.23)

写真上段は、元祖・琴古作 雲上律(2006.4)
中塚竹禅氏が昭和2年に新宿の古道具屋で見つけた、琴古作の刻印がある地無し二尺四寸七分管、表面上部に雲上律の銘あり、竹材は非常に肉薄で筒音のロもおかしい。手孔割もおかしい。本曲が吹けるものではない。写真中段は足柄峠にある新羅三郎の碑(2005.11)
富士山を背に地無し3尺管で阿字観を献奏する。
下段の写真は、神保の展示コーナーにある地無し2尺9寸管(2005.11.23)
神保政之輔の尺八、っすがに名人の作なればこそ。吹こうとせず、自然に息を入れるだけで柔らかい音味がでる。これだけの長管を吹きこなすことが出来たのは、手や指が長かったからであろう。 
雲上律の尺八(クリックで画像を拡大)
足柄峠で献奏(クリックで画像を拡大)
神保の尺八(クリックで画像を拡大)

その他のアルバム(2)(2006.5~2006.6)

上段の写真は、地無し尺八の表面に籐巻をし、その上に漆をかけて、ムロから出したところ。
中段の写真は、籐の表面の漆を落として完成したところ。3尺管1本、2尺3寸管7本。
下段の写真は地無し尺八の完成したもの。岡本竹外先生の太い尺八を吹きなさいとの言葉を
忘れずに、太い地無し管を製作しています。現在200本くらいでしょうか。 
籐巻に漆を塗る(クリックで画像を拡大)
完成した尺八(クリックで画像を拡大)
製作した地無し管(クリックで画像を拡大)

豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その1)

岡本竹外先生に入門して半年が過ぎた昭和54年3月11日に富森虚山先生が書かれた瀧落の本を入手することができました。その本を読んで、一度は旭滝に出かけてみたいと思いました。その年の10月10日の祭日を利用して旭滝に出かけました。電車で修善寺駅まで出かけ、そこからは下田行のレトロなボンネットバス に乗車、車掌の女性は踊り子の着物姿でした。旭滝口で下車し、旭滝に向かいました。約100mの滝の上部は、よく見えましたが、下の方は周りの樹木が生い茂りあまり良く見えませんでした。滝の横の虚無僧の墓にお参りしてから、滝に沿って、樹木につかまりながら滝の水が落ちる口まで登頂することができました。ここから林の中の小川に沿って上流まで進むと、コンクリートの砂防用堰堤もあり、最後は、富森虚山先生が心配していましたように、自然の池が、すでに開発され、ゴルフ場の中の池になっていました。旭滝の水も、すでにゴルフ場の農薬などを含んだ水が、流れ下り、旭滝に流れ落ちていることにがっかりしました。 
下田街道、旭滝口バス停横にある旭瀧見の観音の石碑(クリックで画像を拡大)
旭滝口バス停から大平山を望む(クリックで画像を拡大)
旭滝の手前にある大平神社(クリックで画像を拡大)
大平神社の奥に旭滝が見える(クリックで画像を拡大)

豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その2)

瀧源寺虚無僧の墓碑7基については、富森虚山先生の瀧落に下記のように解説されています。
「寛延三庚午年・瀧源前住春山牧水座元品位・二月初六日」「安永九庚子正月十二日焉・当寺八世汰山志定和尚、七世大光百休和尚」「当寺・六世一水芝丈座元塔、自造文印焉」「中興開山一風和尚」「享保四年十一月十一日・前住当寺廬山不風和尚」「六月十七日・□岩不関座元二世」
旭滝の上部を望む(クリックで画像を拡大)
旭滝の説明板(クリックで画像を拡大)
旭滝の広場にある両尊堂石碑(クリックで画像を拡大)
瀧源寺虚無僧の墓石(クリックで画像を拡大)

豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その3)

不動明王の横から岩場につかまり、約100mの旭滝の流出口まで登ることができました。滝の上部から見下ろす景色はすばらしいものでした。 
不動明王の石仏の横から滝の上部に登る(クリックで画像を拡大)
旭滝の上から二段目から旭滝口バス停を望む(クリックで画像を拡大)
旭滝の最上部(クリックで画像を拡大)
旭滝の流出部(クリックで画像を拡大)

豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その4)

旭滝の流出口から、流れをさかのぼること約1.5キロ、最後はラフォーレ修善寺カントリークラブゴルフ場の中にある池に着きました。冨森虚山先生の瀧落の中の写真では、大自然の林の中にある池が、旭滝の水源地になっていますが、今ではゴルフ場の中の池でした。 
旭滝の水源地に向かう途中(クリックで画像を拡大)
旭滝の水源地に向かう途中の林道(クリックで画像を拡大)
途中にある砂防堰堤(クリックで画像を拡大)
ゴルフ場の中の池(クリックで画像を拡大)

巨瀬祇園寺での竹材(2011.12.26)(その1)

岡山県高梁市巨瀬町、海抜400mの山頂にあります真言宗・祇園寺は、日本三大祇園寺の一つです。このお寺の裏山にある竹林は昔の田圃のあぜ道に竹が生えたもので、砂利の上に竹が生えているので、肉厚で堅い材質の竹材です。ただ節の間隔は、せいぜい2尺1寸管までのものばかりですが、1本だけ、3尺管の7節で目割がぴったりの竹もありました。山頂に1軒だけの寺で眺めは最高の場所、山門の鐘楼の音は、吉備高原の山々まで響きます。この寺の住職は、高齢ですが、龍谷大学時代には、琴古流尺八を学んだとのことでした。今回は竹材20本ばかり掘ることができました。
祇園寺の風景(クリックで画像を拡大)
祇園寺の風景(クリックで画像を拡大)
裏山の竹林(クリックで画像を拡大)
祇園寺の由緒(クリックで画像を拡大)

巨瀬祇園寺での竹材(2011.12.26)(その2)

私が子供の頃は、祇園寺の住職は、麓の村の法要などには、山道を馬に乗り出かけていました。今では、お寺の庭まで車で行くことができます。
祇園寺の鐘楼(クリックで画像を拡大)
祇園寺で掘り出した竹材(クリックで画像を拡大)

横浜本覚寺献奏大会(2010.10.20)(その1)

平成12年11月23日に西向く寺虚無僧之碑建立記念第19回虚無僧追善供養尺八献奏大会が本覚寺で開催されてから10年が過ぎ、10周年記念の献奏大会が平成平成22年10月20日に本覚寺で開催されました。本覚寺山門はアメリカ領事館として使用されましたが名残は、山門が白く塗られた跡が残っています。
本覚寺への石段(クリックで画像を拡大)
本覚寺の説明板(クリックで画像を拡大)
本覚寺山門(クリックで画像を拡大)
西向寺虚無僧之碑(クリックで画像を拡大)

横浜本覚寺献奏大会(2010.10.20)(その2)

本覚寺本堂の前で記念撮影の後、本堂にて献奏大会が開催されました。
本堂前で記念写真(クリックで画像を拡大)
白井会長の挨拶(クリックで画像を拡大)
住職の読経(クリックで画像を拡大)
私は3尺管で阿字観の献奏(クリックで画像を拡大)