尺八の旅・その他のアルバム
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その1)(2023.11.15)
11月13日からの旅行、三重県鳥羽市に宿泊した翌日、レンタカーで熊野市に移動し、熊野倶楽部に宿泊、翌日は世界遺産の熊野古道の松本峠コースにチャレンジしました。案内は地元の語り部、向井さん82歳でした。向井さんは、地元の砂浜でウミガメの産卵のサポートや、熊野古道の補修作業を20年続けてきたとのことでした。海岸沿いに道路が出来るまでは、熊野古道が生活道路で、小学校のころから、松本峠を越えて通学したそうです。松本峠のお地蔵さん、昔、妖怪に間違えられ、鉄砲で撃たれた傷が残っていました。お地蔵さまに、大久保甲童作の2尺3寸管で献奏して、別道で下山しました。約2時間の散策でした。
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その2)(2023.11.15)
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その3)(2023.11.15)
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その4)(2023.11.15)
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その5)(2023.11.15)
尺八の旅・その他のアルバム:熊野古道・新宮市・尾崎真龍の全竜寺訪問(その6)(2023.11.15)
尺八の旅・その他のアルバム:白骨温泉の中里介山の石碑を見る(その1)(2023.10.2)
尺八の旅・その他のアルバム:上高地を散策(その1)(2023.10.3)
50年前に、穂高や槍ヶ岳などの登山で訪れた上高地、その後、家族で27年前に訪れて以来、久々に上高地を散策しました。今は、韓国や中国からの団体や、ヨーロッパなどからの観光客が多く、日本人は、昔を思いだすような、杖を片手の老人ばかり、すっかり様子が変わっていました。帝国ホテル前から明神池までの往復10キロばかりの散策で、翌朝、起床したら、両足が筋肉痛、ホテルから上高地バスターミナルまで、足を引き摺りながら、やっとバスに乗ることが出来ました。遠い昔の健脚はどこに行ったやら。
尺八の旅・その他のアルバム:甲州・乙黒明暗寺跡に史蹟訪問(その1)(2023.10.5)
白骨温泉から、上高地、美ヶ原高原を回り、最後は下諏訪温泉に宿泊して、帰りに中央市乙黒にあります、乙黒明暗寺史蹟に立ち寄りました。甲州乙黒明暗寺史蹟碑除幕式は昭和60年9月29日に、玉穂町町長の出席され、盛大に行われました。その翌年に、旅の途中に立ち寄ったら、石碑の位置が、門の右側に移動していて驚きましたが、甲斐日産自動車の整備工場を建設するのに、障害になり、移動したとのことでした。それから37年ぶりの訪問になりました。石碑の文字は、私の師匠、岡本竹外先生が書かれた書が石碑に刻まれました。昭和60年のある日、岡本竹外先生宅に稽古に出かけたら、ちょうど、先生がこの文字を書き終えたところでした。今では11月3日に地元の尺八家が、虚無僧供養の会を開催しているとのことでした。昭和60年の除幕式の記念写真の方々、大半が亡くなられました。
安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その1)
長野県佐久市安原1687 臨済宗(妙心寺派)安養寺にあります法灯円明国師座像を拝見し、献奏をしてきました。この安養寺の住職、役員の方々は毎年10月、和歌山県由良にあります興国寺の訪問が恒例になっているとのことでした。今年の10月は檀家の皆さんとマイクロバスで遠路、由良興国寺まで出かけたとのこと。今回、突然の訪問、檀家の法要の最中でしたが、御厚意で本堂奥の法燈国師像の前で、3尺管で阿字観を献奏させていただきました。献奏のあと、客間で娘とお茶をいただきました。帰りに安養寺味噌を購入して帰りました。
安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その2)
安養寺の木造伝法燈国師座像について(佐久市のホームページより転載)
平成22年10月18日 長野県宝指定
所在地長野県佐久市安原
所有者 安養寺
木像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右4枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。等身像で水晶をはめ込んだ両目は伏し眼がちに俯瞰(高い所から見おろす)し、鼻すじのとおった細面、固く結んだ口もとには端厳(ただしくおごそか)な国師の意志をうかがわせている。衣服には青っぽい色彩が施されており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などからは清潔感がただよう。製作年代を示す銘記はないが、両膝間は左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林郷に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの謚(オクリナ)(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追謚された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。法量は、胴高85.0cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15.0cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、座奥60.5cm、衣掛け60.0cmである。
平成22年10月18日 長野県宝指定
所在地長野県佐久市安原
所有者 安養寺
木像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右4枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。等身像で水晶をはめ込んだ両目は伏し眼がちに俯瞰(高い所から見おろす)し、鼻すじのとおった細面、固く結んだ口もとには端厳(ただしくおごそか)な国師の意志をうかがわせている。衣服には青っぽい色彩が施されており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などからは清潔感がただよう。製作年代を示す銘記はないが、両膝間は左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林郷に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの謚(オクリナ)(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追謚された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。法量は、胴高85.0cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15.0cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、座奥60.5cm、衣掛け60.0cmである。
安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その3)
安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その4)
釈迦牟尼会・五竜の滝での研修(その1)(2010.5.29)
釈迦牟尼会・五竜の滝での研修(その2)(2010.5.29)
平成30年増位山虚無僧供養献奏会(2018.5.13)(その1)
平成30年増位山虚無僧供養献奏会(2018.5.13)(その2)
岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その1)2021.6.24~25
6月24日の午前10時に岡山県高梁市の実家から、竹材や工具などを車に積み込み出発しました。4月に川崎の自宅に戻った時と同じように、途中、三重県菰野、御在所岳の中腹にあります湯の山温泉(鹿の湯)に1泊して、今日、朝食の後、午前10時にホテルを出発、途中の静岡県内は雷雨なのでサービスエリアで休憩しながら、午後3時に川崎市の自宅に無事に帰りました。4月の時は、ゴンドラ、リフトを乗り継ぎ御在所岳の山頂に登りましたが、今回は悪天候なので中止しました。愛車も5年間、岡山県高梁市の実家には14回往復しましたが、明後日に新車に交換です。7月31日まで川崎の自宅で作業をして8月1日に岡山県高梁市の実家に帰省予定です。
岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その2)2021.6.24~25
岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その3)2021.6.24~25
岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その4)2021.6.24~25
岡山県高梁市の実家から川崎市の自宅への旅(その5)2021.6.24~25
川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その1)(2021.4.21)
川崎市の自宅でわずか18日間を過ごして、また、母が入院しています郷里の岡山県高梁市の実家に向かうことにしました。4月20日、午前10時に自宅を尺八の竹材28本や工具、衣類などを載せて出発、途中で長女の夫佐子を乗せ、滋賀県甲賀市の山中にあります大河原温泉に向かいました。ここまでで片道400キロ、71歳の年齢では、今までのように、夜中9時間の運転は危険なのでやめて、途中で一休みすることにしました。今朝は、朝食の後、御在所岳を見た後、国道1号線で名神の栗東ICに向かい、ここから名神、新名神、中国道、岡山道経由で午後3時過ぎに岡山県高梁市の実家に到着しました。まだ4月だというのに、高梁市の気温は29℃、2階ベランダの作業場は40℃近い気温で、とても尺八製作は出来ません。これから、アルミサッシュ窓を取り付けたり、網戸を付けての対応、6月頃にはスポットエアコンも必要になります。
川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その2)(2021.4.21)
川崎市の自宅から岡山県高梁市への旅(その3)(2021.4.21)
虚無僧尺八を聞く会(山形県酒田市庄内能楽館)2019.5.15
令和元年5月15日に山形県酒田市にあります公益財団法人庄内能楽館において、虚無僧尺八を聞く会が開催されました。庄内能楽館の池田宏理事長は、明暗導主会で活躍されました故・高橋呂竹先生の甥っ子にあたる方です。今回の尺八を聞く会は、高橋呂竹先生を偲んで、弟子の古屋竹涯先生と弟子の森下月泉氏、それに生前、何かと教えていただいた私の3名での演奏会になりました。昭和54年に池田理事長の母上が趣味の世界で建設されました能舞台、今ならば1億円はかかるということです。こんな立派な舞台で地元の皆さんの前で演奏させていただき、一生の思い出になりました。古屋先生、森下先生の演奏を舞台裏で聞きましたが、高橋呂竹先生が演奏されているように感じました。演奏会の後、池田理事長に、料亭井筒に招待していただき、御馳走になりました。今回の演奏旅行、東京駅から行きは山形新幹線経由で酒田駅まで遠く感じましたが、帰りは庄内空港から飛行機で、あっと思う間に羽田空港に到着しました。思い出に残る旅になりました。
巨瀬の祇園寺と竹材(その1)2018.11.14
巨瀬の祇園寺と竹材(その2)2018.11.14
巨瀬の祇園寺と竹材(その3)2018.11.14
小豆島の20番札所:佛ケ滝での献奏(2018.1.3)
前島竹堂先生宅を訪問2017.12.5
京都の旅(その1)(2016.6.8)黄檗宗・万福寺門前・白雲庵での普茶
黄檗駅で昼前に下車し、耕月会の飛田氏の案内で、黄檗宗・万福寺門前にあります黄檗普茶・白雲庵にて昼食に黄檗普茶をいただきました。庵主の解説によれば、黄檗普茶は今から約三百数十年前江戸時代の初期(1661年寛文元年)中国明の高僧隠元禅師により黄檗宗共々渡来しました明風の精進料理です。京料理の大半は寺院の影響を受けた寺院料理を基調としたものが多く中でも中国風の名残を留めた精進料理は黄檗系統の普茶(黄檗)料理のみです。名称の起こりは普く衆に茶を供するの意と、赴茶(茶に赴く)の意味とがあり、いずれにしても禅門の茶礼(儀式法要などの行事が終わった後全山の者が一堂に会し茶を喫しながら意見交換協議)の後労を犒う為に作法にしたがって出される謝茶(僧堂の御馳走)が普茶で万福寺山門前の白雲庵はその食礼様式を正確に踏襲し簡易素朴な禅味として長方形朱色の飯台に長幼の別なく一座に四人が会して大器に盛られた菜をお互いに自由に取って戴く形式になっています。菜は本来の風味を生かす為に淡泊な味を本位に色彩の取り合わせ素朴さの中にも豪華に其の献立は二汁六菜を中心としております。 (庵主 合掌)
京都の旅(その2)(2016.6.8)黄檗宗・万福寺門前・白雲庵での普茶
京都の旅(その3)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)
琴古流宗家竹友社で活躍されました中塚竹禅氏が雑誌三曲の昭和12年3月号に投稿された記事の一部を掲載します。(現在の様子と比較すれば時代の流れ
を感じとることができます。)
雑音集(七)竹禅生
廿九、普化塚
明くれば極月廿三日、風もなく雲もなく、陽はカンカンに照り輝いて全く絶好の普化日和といった形、同行の老女を促して急ぎ足に行けば、製造所の門を出て塀沿ひの道を右へ 四五町左方にコンモリと茂った竹藪が見える。待望の普化塚は此竹藪の陰に在るのである。圖に就て説明すると道路に面して竹藪垣あり、其中程に黒門あり、黒門には木戸あり常に閉して居る。黒門を入れば両側に地蔵堂あり其周囲は全部共同墓地黒門より中央正面石段までの距離凡そ二十間、石段は三段、其左右に石燈、各左の如き文字を刻す。表 開祖朗菴虚竹禅師墓前 表 安政三年丙辰春正月立 虚霊山明暗寺
石は花崗岩、高さ五尺四寸幅一尺二寸五分、上方に直径一尺の丸窓火舍なり。石段を上れば瓦葺の門、門朽ちて瓦は落つ塀は土塀にて全部瓦葺、高さ四尺、間口凡七八間、奥行凡十五六間土塀の周囲は野原、後方遥かに黄檗山、人家は只此門に向かって右方塀の外に一軒あるのみ。此門を入ると幅三尺程の石疊が敷詰めてあり、其左右に一基の石燈立つ、石疊の正面は二間四方位の石敷、石敷の内部に花崗岩の石柱十二本立つ、石柱の内廊には大きな自然石四個、正面に石香爐石花瓶各一個、但此石敷の一角は一體何であるか判らず仕舞ひ。(写真の説明分は略す)
正面突當りの塀際に一列の墓石が建ち並んで居る。右から順次其文字を記せば□不昧軒霊光幸玉禅師墓 文久第三稔次癸亥盂秋建立 幸玉書判□法眷合葬之墓 安政二年乙卯四月立 虚霊山明暗寺○明暗三十一世堅堂宗固塔主禅師 嘉永三庚戌四月二十三日□觀妙玄堂居士 慶應二年丙寅冬十一月朔日卒□魯堂元協居士 安政六季巳末秋八月十三日卒 以上各墓の前には石で、四角な香立と丸い花立が建って居る。觀妙玄堂居士は明暗寺台三十三世、魯堂元協居士は同三十二世。
を感じとることができます。)
雑音集(七)竹禅生
廿九、普化塚
明くれば極月廿三日、風もなく雲もなく、陽はカンカンに照り輝いて全く絶好の普化日和といった形、同行の老女を促して急ぎ足に行けば、製造所の門を出て塀沿ひの道を右へ 四五町左方にコンモリと茂った竹藪が見える。待望の普化塚は此竹藪の陰に在るのである。圖に就て説明すると道路に面して竹藪垣あり、其中程に黒門あり、黒門には木戸あり常に閉して居る。黒門を入れば両側に地蔵堂あり其周囲は全部共同墓地黒門より中央正面石段までの距離凡そ二十間、石段は三段、其左右に石燈、各左の如き文字を刻す。表 開祖朗菴虚竹禅師墓前 表 安政三年丙辰春正月立 虚霊山明暗寺
石は花崗岩、高さ五尺四寸幅一尺二寸五分、上方に直径一尺の丸窓火舍なり。石段を上れば瓦葺の門、門朽ちて瓦は落つ塀は土塀にて全部瓦葺、高さ四尺、間口凡七八間、奥行凡十五六間土塀の周囲は野原、後方遥かに黄檗山、人家は只此門に向かって右方塀の外に一軒あるのみ。此門を入ると幅三尺程の石疊が敷詰めてあり、其左右に一基の石燈立つ、石疊の正面は二間四方位の石敷、石敷の内部に花崗岩の石柱十二本立つ、石柱の内廊には大きな自然石四個、正面に石香爐石花瓶各一個、但此石敷の一角は一體何であるか判らず仕舞ひ。(写真の説明分は略す)
正面突當りの塀際に一列の墓石が建ち並んで居る。右から順次其文字を記せば□不昧軒霊光幸玉禅師墓 文久第三稔次癸亥盂秋建立 幸玉書判□法眷合葬之墓 安政二年乙卯四月立 虚霊山明暗寺○明暗三十一世堅堂宗固塔主禅師 嘉永三庚戌四月二十三日□觀妙玄堂居士 慶應二年丙寅冬十一月朔日卒□魯堂元協居士 安政六季巳末秋八月十三日卒 以上各墓の前には石で、四角な香立と丸い花立が建って居る。觀妙玄堂居士は明暗寺台三十三世、魯堂元協居士は同三十二世。
京都の旅(その4)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)
京都の旅(その5)(2016.6.8)(普化塚を訪ねる)
京都の旅(その5)(2016.6.8)(樋口対山師の墓を訪問)
昭和12年4月に発行された雑誌三曲の4月号に琴古流宗家竹友社で活躍された中塚竹禅氏が樋口対山師の墓参りをした記事があるので、その一部をここに掲載します。
三十四 対山居士墓
實報寺を出て元の道即ち高札のある所から更に西大谷の塀に沿ふて坂を上がると左側に花家が飛々に三軒ある。其一番上の花屋(白髪染の大看板のある家)で聞くと此花家が樋口家の墓所を預る家である事が判った、何しろ鳥邉山の墓地は頗る廣いのでサンザン捜しあぐんだ事を記して後の人の為に御注意して置く。樋口家の墓所は中々廣く大きい、即ち墓は右側に六基、左側に九基、中央に小路あり、右側の一番手前の墓が即ち対山居士の墓である例に依って恭しく墓石を洗ひ浄め香華を手向け謹んで雲上律を奏す、但し特に居士に由縁の瀧落の曲を奏したのである、芦水翁善哉々々といふ、恐る恐る碑面を拝すれば表 天聲院孝道対山居士 左 大正三年十一月廿二日建 號 明暗対山 碑文は建仁寺管長竹田黙雷筆。対山居士は所謂明暗流の祖、名古屋兼友西園の門人で始め鈴木姓、明治三十五年四十七歳の時、京都六波羅の樋口家の養子となって改姓、享年五十九といふ説(塚本説)であるが川瀬先生のお話では五十七歳が本當らしい、此點目下調査中。辞世を○うきふしのしらべかさぬる笛の音を松ふく風にのこしてそゆく といふて墓碑面に刻んであるソウな時は黄昏、餘りに先を急いだ為に遂に此辞世歌を見落としてしまった事は取り返しのつかぬ一大失策であった、謹んで遥に居士の霊にお詫びをする次第である。
三十四 対山居士墓
實報寺を出て元の道即ち高札のある所から更に西大谷の塀に沿ふて坂を上がると左側に花家が飛々に三軒ある。其一番上の花屋(白髪染の大看板のある家)で聞くと此花家が樋口家の墓所を預る家である事が判った、何しろ鳥邉山の墓地は頗る廣いのでサンザン捜しあぐんだ事を記して後の人の為に御注意して置く。樋口家の墓所は中々廣く大きい、即ち墓は右側に六基、左側に九基、中央に小路あり、右側の一番手前の墓が即ち対山居士の墓である例に依って恭しく墓石を洗ひ浄め香華を手向け謹んで雲上律を奏す、但し特に居士に由縁の瀧落の曲を奏したのである、芦水翁善哉々々といふ、恐る恐る碑面を拝すれば表 天聲院孝道対山居士 左 大正三年十一月廿二日建 號 明暗対山 碑文は建仁寺管長竹田黙雷筆。対山居士は所謂明暗流の祖、名古屋兼友西園の門人で始め鈴木姓、明治三十五年四十七歳の時、京都六波羅の樋口家の養子となって改姓、享年五十九といふ説(塚本説)であるが川瀬先生のお話では五十七歳が本當らしい、此點目下調査中。辞世を○うきふしのしらべかさぬる笛の音を松ふく風にのこしてそゆく といふて墓碑面に刻んであるソウな時は黄昏、餘りに先を急いだ為に遂に此辞世歌を見落としてしまった事は取り返しのつかぬ一大失策であった、謹んで遥に居士の霊にお詫びをする次第である。
京都の旅(その7)(2016.6.8)(樋口対山師の墓を訪問)
高橋呂竹師の尺八(H.28.3.7)
京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その1)
平成28年2月10日(水)、京都市右京区宇多野上ノ谷町3にあります、臨済宗建仁寺派妙光寺を訪問しました。今から30年以上前に、岡本竹外先生宅で稽古の時に、妙光寺は、荒れ果てて、座敷の下から竹の子が畳を突き抜け、天井までも抜けていて、雨漏りがしてひどい状態になっていると聞いたことがあります。今回、大阪訪問の後、京都に宿泊したので、この記憶を元に、妙光寺を訪ねることができました。突然の訪問でしたが、芳賀和尚に気持ちよく、迎えていただきました。座敷で挨拶の後、虚無僧研究会会長、小菅大徹和尚から寄贈されました昭和25年頃の虚無僧の偈箱と、妙光寺が発行した托鉢許可証を見せていただきました。また、普化尺八の歴史に登場します法燈国師の像も拝見することができました。芳賀和尚の説明では、幕末、この妙光寺は勤皇方の集合場所であり、桂小五郎や高杉晋作もここにいたとのこと。庭には高杉晋作が酔っぱらって、誤って落ちたと言われる井戸もありました。今は、改修されて、座禅や普化尺八の修行の場として知られています。芳賀和尚から、お抹茶の接待を受け、禅の悟りについてのお話を 聞くことができました。京都訪問で、すばらしい土産になりました。帰り道、小雪が舞っていました。
京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その2)
妙光寺復興趣意書
飄々として空を吹き抜けるが如く渡る風神、地を睨み雲を踏付け雷を放たんとする雷神。
桃山時代を代表する自由迂達・豪華絢爛なる俵屋宗達筆国宝「風神雷神」は時の豪商打它家によって妙光寺に奉納されたとされている。京都十刹という高い寺格に在りながらも、江戸期から明治の変革期に勤皇の一拠点として新撰組の焼き討ちを受け、廃仏毀釈と度重なる風水害により荒廃の極に達している。百年の願いであった大復興が臨済宗大本山建仁寺によって挙行されている。
飄々として空を吹き抜けるが如く渡る風神、地を睨み雲を踏付け雷を放たんとする雷神。
桃山時代を代表する自由迂達・豪華絢爛なる俵屋宗達筆国宝「風神雷神」は時の豪商打它家によって妙光寺に奉納されたとされている。京都十刹という高い寺格に在りながらも、江戸期から明治の変革期に勤皇の一拠点として新撰組の焼き討ちを受け、廃仏毀釈と度重なる風水害により荒廃の極に達している。百年の願いであった大復興が臨済宗大本山建仁寺によって挙行されている。
京都の旅(2016.2.10)(臨済宗建仁寺派・妙光寺訪問)(その3)
沿革
弘安八年(1285)法燈国師覚心を開山とする。藤原氏・花山院との繋がりから南朝より勅願寺とされ一時「三種の神器」は奉安されていた。応仁の乱による都の荒廃に巻き込まれるものの、高台寺三江和尚の指導のもと才林・雲庵和尚らと打它家の支援によって室町末期、更なる繁栄を取り戻している。覚心禅師は宋より尺八を法器とし托鉢行脚する普化宗を伝えられ、とりわけ味噌・醤油伝来による日本食文化への功績は大きい。京都三条・糸屋の娘、姉は十八妹は十五。諸国大名は弓矢で殺す糸屋の娘は目で殺す。で有名な糸屋十右衛門は打它氏の呼称であり、光悦、宗達、仁清、光琳、乾山、小堀遠州らとの交流の後が多々文書に残されている。
弘安八年(1285)法燈国師覚心を開山とする。藤原氏・花山院との繋がりから南朝より勅願寺とされ一時「三種の神器」は奉安されていた。応仁の乱による都の荒廃に巻き込まれるものの、高台寺三江和尚の指導のもと才林・雲庵和尚らと打它家の支援によって室町末期、更なる繁栄を取り戻している。覚心禅師は宋より尺八を法器とし托鉢行脚する普化宗を伝えられ、とりわけ味噌・醤油伝来による日本食文化への功績は大きい。京都三条・糸屋の娘、姉は十八妹は十五。諸国大名は弓矢で殺す糸屋の娘は目で殺す。で有名な糸屋十右衛門は打它氏の呼称であり、光悦、宗達、仁清、光琳、乾山、小堀遠州らとの交流の後が多々文書に残されている。
大阪の旅(2016.2.9)
西向寺虚無僧之碑建立記念15周年記念献奏大会(2015.10.25)
大阪の旅(その1)2015.4.18~4.20)
大阪の旅 平成27年4月18日~20日 4月18日、大阪ガーデンパレスにて東久邇宮記念賞の授与式が開催されました。昨年、11月3日の文化褒賞に続いて、今回も普化禅尺八の功績により、記念賞を授与しました。4月19日は、大阪府吹田市在住の明暗蒼龍会の長老・前島竹堂先生(92歳)宅を訪問しました。また、19日の午後は、蒼龍会大阪支部の飛田氏の案内で、平野区の念仏宗本山、大念仏寺を訪ねました。明治6年まで京都東山区池田町にあった明暗寺山門、その後、京都下京区の皆山尋常小学校の山門として移築され、現在は大阪市平野区上町の大念仏寺の境内にあります客殿・瑞祥閣の山門として存在しています。その姿は、長年の風雪に耐えてきた面影があり、また瓦の形は尺八の姿をしています。
岡山での竹材(2014.12.26)
東久邇宮文化褒賞授与式・祝賀会(2014.11.3)
東久邇宮文化褒賞授与式 平成26年11月3日 京王プラザホテル
このたび普化禅尺八の活動により、東久邇宮文化褒賞を受賞しました。師匠の故・岡本竹外先生より普化禅尺八の師家としての蒼龍窟号の免状をいただき、普及活動を続けてきましたが、その功績が認められました。来賓として明暗蒼龍会・高橋峰外会長も出席していただき、祝賀会では高橋峰外氏には来賓代表として挨拶もしていただき、私は3尺管にて阿字観を演奏しました。
このたび普化禅尺八の活動により、東久邇宮文化褒賞を受賞しました。師匠の故・岡本竹外先生より普化禅尺八の師家としての蒼龍窟号の免状をいただき、普及活動を続けてきましたが、その功績が認められました。来賓として明暗蒼龍会・高橋峰外会長も出席していただき、祝賀会では高橋峰外氏には来賓代表として挨拶もしていただき、私は3尺管にて阿字観を演奏しました。
興国寺訪問(1)(2014.6.5~6.6)
興国寺訪問(2)(2014.6.5~6.6)
大阪の旅(2014.2.6~2.7)
博多の旅2013.9.22)
博多の一朝軒を、平成25年9月22日に訪問しました。
住職の磯玄明住職は、京都建仁寺で修行を積まれましたが、虚無僧研究会の小菅大徹和尚は、同じ建仁寺で修行をされた先輩になるとのことです。訪問した日は、午後から尺八の稽古日であったので、稽古の終わった夕方5時に訪問をしました。磯玄明住職から、お抹茶をいただいた後、岡本竹外尺八随想集を寄贈させていただきました。岡本竹外先生の明暗蒼龍会の夏季旅行で一朝軒を訪問してから20年の歳月が過ぎていました。本堂で、磯玄明住職は、錦風流調、下り葉を献奏されました。折登如月師から、佐賀の山上月山師が習われたものを、磯譲山氏が学ばれ、それをご子息の磯玄明住職は学ばれたとのことです。私は地無し3尺管にて阿字観を献奏させていただきました。
住職の磯玄明住職は、京都建仁寺で修行を積まれましたが、虚無僧研究会の小菅大徹和尚は、同じ建仁寺で修行をされた先輩になるとのことです。訪問した日は、午後から尺八の稽古日であったので、稽古の終わった夕方5時に訪問をしました。磯玄明住職から、お抹茶をいただいた後、岡本竹外尺八随想集を寄贈させていただきました。岡本竹外先生の明暗蒼龍会の夏季旅行で一朝軒を訪問してから20年の歳月が過ぎていました。本堂で、磯玄明住職は、錦風流調、下り葉を献奏されました。折登如月師から、佐賀の山上月山師が習われたものを、磯譲山氏が学ばれ、それをご子息の磯玄明住職は学ばれたとのことです。私は地無し3尺管にて阿字観を献奏させていただきました。
京都の旅(2013.2.16)
京都・霊山にあります明暗寺33世玄堂と弟子の素行の墓を、平成25年2月16日訪ねました。幕末、京都において普化宗は所詮、立つ瀬はない瀬戸際に、兼ねてから一宗の堕落に心を痛めていた明暗寺33世の看主玄堂は「これまで普化宗が暫くも有利な立場で過ごして来ることの出来たのも、一つには徳川幕府のお陰であるが、といっても、その発端はといえば、言わずも語らずして不思議に
落ち合った政略応酬の結果で、精神状態は両方共不純である。却って、これがために 開祖の眞諦は蔽われ、遂に一宗の堕落を招くこととなった。寧ろ、この際、大義名分に従って勤王に馳せ参じ、王政復古と共に普化宗の堕落を一掃して虚無僧托鉢の面目を昔時に逸回し、風紀を一新して王政と共に開祖の眞宗に復古したならば、既に傾いた狂瀾を未到に返し得ぬとも限らぬ。若しまた王政復古が成らず、普化復古も成らずして、不幸にも絶宗の憂き目に遭遇しても、それは天の制裁に基づくところで、人力の及ぶ限りでない。たとえまた如何なる事があっても内訌外患頻発して国家安危の際、一宗を捧げて馳せ参じ、国家の為に奔走するのは、一管の吹簫によって涵養された虚無純粋な精神の然らしめるところである。潔く發いて萬朶の桜と散り、赤き誠心を青史に飾ることが出来たならば、聊か普化宗積年の汚辱を雪ぐこともできるであろう。と断乎たる決心のもとに、一山の寺徒を励まし、慨然として勤王志士の群れに投じて奔走し、表面何食わぬ顔をして江戸に下り、その実は間謀として幕府の役人に睨まれ、遂に捕えられて、元治元年七月十九日に京都で首を刎ねられました。斯くと聞くや同じ明暗寺の役僧でありました素行師が、小癪なと許り師の意思を継いで、国事探偵となって復た江戸に下り、絶えず幕府の内情を京都に密通しておりましたが、素行師も亦、遂に
召し捕られて牢屋に打ちこまれました。 兎に角するうちに王政復古となり、
素行師は出牢しましたが、牢中の苛責に羸れ果てた結果、慶應二年十一月一日に大阪で病没いたしました。これがために両師は朝廷から勤王家として、東山霊山に厚く葬られました。次いで明治維新となり、百般の管正改革して
天下の両目を一新せられ、普化宗は案の如く廃しの議が決しましたが、玄堂、素行両師の功績で賞で、普化宗一派の哀訴を容れ、朝廷では一時廃宗を見合わせたとのことであります。然してその堕落弊風は到底矯正し難いとあって、明治4年太政官布告を以て、「自今普化宗を廃し虚無僧を禁じ民籍に編入す」という断乎たる普化宗廃止の聖裁が下りました。
(明暗吹簫法基階より抜粋)
落ち合った政略応酬の結果で、精神状態は両方共不純である。却って、これがために 開祖の眞諦は蔽われ、遂に一宗の堕落を招くこととなった。寧ろ、この際、大義名分に従って勤王に馳せ参じ、王政復古と共に普化宗の堕落を一掃して虚無僧托鉢の面目を昔時に逸回し、風紀を一新して王政と共に開祖の眞宗に復古したならば、既に傾いた狂瀾を未到に返し得ぬとも限らぬ。若しまた王政復古が成らず、普化復古も成らずして、不幸にも絶宗の憂き目に遭遇しても、それは天の制裁に基づくところで、人力の及ぶ限りでない。たとえまた如何なる事があっても内訌外患頻発して国家安危の際、一宗を捧げて馳せ参じ、国家の為に奔走するのは、一管の吹簫によって涵養された虚無純粋な精神の然らしめるところである。潔く發いて萬朶の桜と散り、赤き誠心を青史に飾ることが出来たならば、聊か普化宗積年の汚辱を雪ぐこともできるであろう。と断乎たる決心のもとに、一山の寺徒を励まし、慨然として勤王志士の群れに投じて奔走し、表面何食わぬ顔をして江戸に下り、その実は間謀として幕府の役人に睨まれ、遂に捕えられて、元治元年七月十九日に京都で首を刎ねられました。斯くと聞くや同じ明暗寺の役僧でありました素行師が、小癪なと許り師の意思を継いで、国事探偵となって復た江戸に下り、絶えず幕府の内情を京都に密通しておりましたが、素行師も亦、遂に
召し捕られて牢屋に打ちこまれました。 兎に角するうちに王政復古となり、
素行師は出牢しましたが、牢中の苛責に羸れ果てた結果、慶應二年十一月一日に大阪で病没いたしました。これがために両師は朝廷から勤王家として、東山霊山に厚く葬られました。次いで明治維新となり、百般の管正改革して
天下の両目を一新せられ、普化宗は案の如く廃しの議が決しましたが、玄堂、素行両師の功績で賞で、普化宗一派の哀訴を容れ、朝廷では一時廃宗を見合わせたとのことであります。然してその堕落弊風は到底矯正し難いとあって、明治4年太政官布告を以て、「自今普化宗を廃し虚無僧を禁じ民籍に編入す」という断乎たる普化宗廃止の聖裁が下りました。
(明暗吹簫法基階より抜粋)
弘前からの便り(2)(2012.2.8)
高橋景外氏を偲ぶ(その1)(2011.10.29)
明暗蒼龍会会員の高橋景外氏が、7月17日病気で他界されました。
岡本竹外先生が亡くなって後、私の自宅に稽古に通われて、普化禅尺八を
学ばれ、また武蔵野会では一橋大学のOBとして、津田塾筝曲のOGとの
三曲合奏でも活躍されていました。私の製作しました、地無し管 2尺3寸管、2尺8寸管、3尺管を長年愛用していただきました。闘病中は、私に茶杓を製作してほしいと電話があり、共筒には桜の季節にちなんで、夜桜の銘をつけました。茶杓を受け取りに来られたのが、永久の別れとなりました。この時は帰り際に、3尺管で阿字観を吹いてほしいとのことで、この曲を満足そうに聞いておられました。10月29日、虚無僧研究会本部の法身寺において、明暗蒼龍会と武蔵野会の合同で法要が行われます。平成23年10月29日(土) 虚無僧研究会本部・臨済宗 法身寺に於いて明暗蒼龍会会員で今年7月17日に他界されました高橋景外氏の法要が行われました。蒼龍之碑に分骨が収められ小菅和尚の読経のあと会員で冥福を祈り、 法身寺の本堂において高橋景外氏のご遺族、蒼龍会会員、武蔵野会会員が集まり、故人の遺影に焼香しました。 高橋景外氏を偲び、蒼龍会会員による越後鈴慕の献奏をしました。一橋大学 都山流尺八部 OB、 津田塾 筝曲部 OG の武蔵野会による地唄 残月の演奏が献曲されました。
高橋景外氏を偲ぶ(その2)(2011.10.29)
弘前からの便り(1)(2011.3.)
明暗蒼龍会の研修会・法身寺にて(2010.10.30)
広島県福山市神辺町・金尾山龍華寺での献奏(2009.3.21)
岡山での竹材(2008.12.28~2009.1.11)
岡本竹外師の7回忌法要(藤田正治・松沢空外氏も)(2007.10.27)
藤田正治氏の思い出
写真は虚鈴を献奏される藤田正治氏
甲州唯一の虚無僧寺である乙黒明暗寺跡地を所有されています田中潤次氏によって、乙黒明暗寺の史跡碑が建立されました。その祝賀会献奏会に山口県光市から参加され、長管の地無し尺八を吹かれる、藤田先生に、初めて お会いしました。翌年の昭和61年2月16日、横浜の郵船倶楽部で明暗蒼龍会総会及び新年会が開催され、この時に来賓として虚無僧研究会会長の小菅大徹氏、顧問の島村石翁氏、戸谷泥古氏、さらに藤田正治氏が出席されました。これ以降、蒼龍会の総会や地方への研修旅行にも藤田正治氏は参加され、長いお付き合いをさせていただきました。顔を合せるたびに、勝浦正山師の明暗真法流の伝承が絶えてしますと、心配しておられました。岡本竹外先生も数曲のみ吹かれましたが、お経のような曲は、現代尺八家には好まれないようです。勝浦正山師は息が強く、尺八を吹けば障子がバリバリ音をたてたと言われていますが、勝浦正山師の吹き料の尺八が地付きなので、それならば大きな音がすることを理解できます。
甲州唯一の虚無僧寺である乙黒明暗寺跡地を所有されています田中潤次氏によって、乙黒明暗寺の史跡碑が建立されました。その祝賀会献奏会に山口県光市から参加され、長管の地無し尺八を吹かれる、藤田先生に、初めて お会いしました。翌年の昭和61年2月16日、横浜の郵船倶楽部で明暗蒼龍会総会及び新年会が開催され、この時に来賓として虚無僧研究会会長の小菅大徹氏、顧問の島村石翁氏、戸谷泥古氏、さらに藤田正治氏が出席されました。これ以降、蒼龍会の総会や地方への研修旅行にも藤田正治氏は参加され、長いお付き合いをさせていただきました。顔を合せるたびに、勝浦正山師の明暗真法流の伝承が絶えてしますと、心配しておられました。岡本竹外先生も数曲のみ吹かれましたが、お経のような曲は、現代尺八家には好まれないようです。勝浦正山師は息が強く、尺八を吹けば障子がバリバリ音をたてたと言われていますが、勝浦正山師の吹き料の尺八が地付きなので、それならば大きな音がすることを理解できます。
その他のアルバム(2006.4~11.23)
写真上段は、元祖・琴古作 雲上律(2006.4)
中塚竹禅氏が昭和2年に新宿の古道具屋で見つけた、琴古作の刻印がある地無し二尺四寸七分管、表面上部に雲上律の銘あり、竹材は非常に肉薄で筒音のロもおかしい。手孔割もおかしい。本曲が吹けるものではない。写真中段は足柄峠にある新羅三郎の碑(2005.11)
富士山を背に地無し3尺管で阿字観を献奏する。
下段の写真は、神保の展示コーナーにある地無し2尺9寸管(2005.11.23)
神保政之輔の尺八、っすがに名人の作なればこそ。吹こうとせず、自然に息を入れるだけで柔らかい音味がでる。これだけの長管を吹きこなすことが出来たのは、手や指が長かったからであろう。
中塚竹禅氏が昭和2年に新宿の古道具屋で見つけた、琴古作の刻印がある地無し二尺四寸七分管、表面上部に雲上律の銘あり、竹材は非常に肉薄で筒音のロもおかしい。手孔割もおかしい。本曲が吹けるものではない。写真中段は足柄峠にある新羅三郎の碑(2005.11)
富士山を背に地無し3尺管で阿字観を献奏する。
下段の写真は、神保の展示コーナーにある地無し2尺9寸管(2005.11.23)
神保政之輔の尺八、っすがに名人の作なればこそ。吹こうとせず、自然に息を入れるだけで柔らかい音味がでる。これだけの長管を吹きこなすことが出来たのは、手や指が長かったからであろう。
その他のアルバム(2)(2006.5~2006.6)
豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その1)
岡本竹外先生に入門して半年が過ぎた昭和54年3月11日に富森虚山先生が書かれた瀧落の本を入手することができました。その本を読んで、一度は旭滝に出かけてみたいと思いました。その年の10月10日の祭日を利用して旭滝に出かけました。電車で修善寺駅まで出かけ、そこからは下田行のレトロなボンネットバス に乗車、車掌の女性は踊り子の着物姿でした。旭滝口で下車し、旭滝に向かいました。約100mの滝の上部は、よく見えましたが、下の方は周りの樹木が生い茂りあまり良く見えませんでした。滝の横の虚無僧の墓にお参りしてから、滝に沿って、樹木につかまりながら滝の水が落ちる口まで登頂することができました。ここから林の中の小川に沿って上流まで進むと、コンクリートの砂防用堰堤もあり、最後は、富森虚山先生が心配していましたように、自然の池が、すでに開発され、ゴルフ場の中の池になっていました。旭滝の水も、すでにゴルフ場の農薬などを含んだ水が、流れ下り、旭滝に流れ落ちていることにがっかりしました。
豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その2)
豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その3)
豆州大平瀧源寺跡・旭滝調査の旅(1979.10.10)(その4)
巨瀬祇園寺での竹材(2011.12.26)(その1)
岡山県高梁市巨瀬町、海抜400mの山頂にあります真言宗・祇園寺は、日本三大祇園寺の一つです。このお寺の裏山にある竹林は昔の田圃のあぜ道に竹が生えたもので、砂利の上に竹が生えているので、肉厚で堅い材質の竹材です。ただ節の間隔は、せいぜい2尺1寸管までのものばかりですが、1本だけ、3尺管の7節で目割がぴったりの竹もありました。山頂に1軒だけの寺で眺めは最高の場所、山門の鐘楼の音は、吉備高原の山々まで響きます。この寺の住職は、高齢ですが、龍谷大学時代には、琴古流尺八を学んだとのことでした。今回は竹材20本ばかり掘ることができました。