ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)5月4日
5月4日
朝5時に起床しました。ホテルの窓から快晴の空に時計台がそびえていました。午前8時に1階レストランに行き、朝食を済ませました。いよいよ、ポーランド最後の日なので、荷物の整理をしてから、中央広場を妻と散策しました。午前11時30分にホテルのロビーにシェフメクさんとイグロさんが迎えに来たので荷物はフロントに預けて、徒歩で近くの公園を散策、歴史博物館も見学しました。その後、イグロさんの車で、ブロツワフで一番高いビルに行き、48階の展望台からブロツワフの街を眺めました。はるか遠くに、クションシュ城を見に出かけた時に横に見えていた山が見えました。1階に降りてレストランで昼食をご馳走になりました。食事の後、ホテルに戻り、荷物を車に載せて、ブロツワフ空港に向かいました。空港内の喫茶店で、シェフメクさん、イグロさんとコーヒーを飲んだ後、ポーランド航空カウンターまで、荷物を運んでもらいました。カウンターの係りの男性にイグロさんが、シュトラビバリウスの尺八だから扱いを慎重にと話すと、搭乗したら機長に預けて下さいと言いました。ここで、11日間お世話になった、シェフメクさん、イグロさんとお別れしました。搭乗口で待っていたら、先ほどのカウンターの男性が来て、空席があるので、この搭乗券の席に尺八を置いてシートベルトで固定して下さいと、搭乗券2枚をくれました。ワルシャワまで1時間ほどで到着しました。空港で出国手続きを終えて、ラウンジで食事をして、午後7時前に飛行機に搭乗しました。帰りの飛行機の方が新しくて、ビジネスクラスは24席ありました。この後、大事件が待ち構えていました。日本人は二人だけ、午前0時に食事が出てきました。和食は私たちだけ、どの料理も、異常な塩辛いのと、酢の味が強烈でした。私は半分くらいで食べるのをやめ、妻も少し食べてやめました。客室乗務員に味がまずいと言うと、ポーランド人が作った和食なのですみませんと膳を下げました。代わりにローストビーフが出てきました。その後のご飯、みそ汁は断りました。食事の後、席をベッドにして寝ていたら、胸がむかむかするので起き上がったら、吐きそうになり、あわててトイレに駆け込みました。それから、水分補給をしながら成田空港に着くまでに6回も吐いてしまいました。へとへとになり25キロのスーツケースと3キロの尺八ケースを背負い、電車を乗り継いで、午後11時に川崎の自宅に戻りました。熱い風呂に入り、床につきました。翌日、1日、白湯だけで過ごしました。仕事に出かけた妻は帰宅して、吐いて寝込みました。翌朝、妻は様態が悪化して救急車で病院に搬送され、点滴になりました。私も薬を出してもらいました。夜には、二人とも体調が回復しました。最後に落とし穴があったポーランドの旅になりました。今回のブロツワフでの「サクラ」をテーマにしたイベントでは、私のコンサートの出演料、並びに私たちの滞在費用すべてを支給していただきました、日本大使館に厚く御礼申し上げます。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)5月4日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)5月4日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)5月4日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その5)5月4日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その6)5月4日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)5月3日
5月3日
朝7時に起床しました。アートホテルの窓からは、高いレンガの時計台が見えます。8時からホテル1階のレストランで朝食を済ませて、外出の準備をし、午前10時にロビーに行くと、すでにイグロさんロマンさんが待っていました。近くの大学の庭園に案内してもらいました。外部の庭園は、きれいな花が咲いていました。内部の植物園には、サボテンの部屋やたくさんの種類のツタがある部屋、また熱帯魚の水槽がある部屋もありました。庭園には日本の紫色のつつじが咲いていました。大学の庭園から、近くの教会に向かうと祝日なので、音楽隊のパレードもありました。教会の中も見学してから、ブロツワフで最も高いタワービルに出かけましたが、祝日で閉館でした。昼食時間なので、イグロさん宅に近い公園の中にあるレストランでピザをご馳走になりましたが、あまりに大きいので、妻とやっと半分を食べ、残りはお持ち帰りになりました。食事の後、イグロさん宅で、ロマンさんと尺八談議になりました。コーヒーをご馳走になり、妻はイグロさん宅の2匹の猫がお気に入りになりました。帰りはロマンさんがアートホテルまで送ってくれました。歩き疲れて、夕食は昼の残りのピザや、果物を食べました。ブロツワフの旅もいよいよ最後の夜になりました。明日の夕方の飛行機で、ワルシャワに戻り、夜便で日本に向かうことになります。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その5)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その6)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その7)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その8)5月3日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)5月2日
5月2日
朝5時30分に起床しました。8時からホテル1階のレストランで朝食、これまで自炊生活でしたが、さすがにホテルの食事は豪華でした。午前10時に1階ロビーにイグロさんが迎えに来て、すぐ近くの古い市場を案内してくれました。肉類、野菜、果物が並んでいましたが、ポーランドはユーロ圏でないので、物価が安く、特にイチゴなどの果物も安いのに驚きました。市場の駐車場に車を置いて、すぐ前の観光船乗り場に行きました。小型の観光船には、私たち3人と若い親子3人が乗船しました。ここから川下に向かい、最後は私たちが1週間滞在しましたブロツフスキーの研究所の先の動物園で折り返し、ました、親子3人は動物園に入りました。帰りは尺八を出して、イグロさんに稽古指導をしました。その姿を携帯で撮影していました、船の船員さん、趣味が日本刀と甲冑の蒐集のようで、写真を見せてくれました。元の場所に戻り、車でイグロさん宅に向かいました。イグロさんは、ジャズサックスのプロの奏者なので、玄関を入ると、1階に楽器置き場の部屋がありました。2階のリビングに案内されました。壁には、尺八棚があり、数本の尺八が並んでいました。その横に、山形市の高橋龍童氏の書かれた、臥龍会の入門許可証がありました。今から30年前に、日本に出かけて、山形市の高橋龍童氏の道場で尺八を習ったとのことでした。イグロさんは、4年前に私がワルシャワで開催しました尺八教室に参加、その時に、私の孫弟子のマルチンさんから、私が製作しました地なし2尺3寸管を譲り受けて所有していますが、今回は、私が地なし1尺7寸管を贈呈したので、保管ケースが必要だと、耐久性の優れたマシンガンケースを購入しました。コーヒーをご馳走になっていたら、整形外科医のロマンさんがやってきました。ロマンさんは、奥さんと日本に出かけて、ひと月旅行をしたとのこと。仙台市では、お琴を習い、尺八の先生と合奏している動画を見せてもらいました。また、長年にわたり尺八製作もしているとのこと。ただし、見せてもらったドイツの竹材は肉が薄くて地なし管には不向きでした。午後1時にロマンさんは自宅に帰ったので、イグロさんが自宅近くのレストランに連れて行ってくれました。ポーランド語のメニューは、どんな料理かわかりませんが、どれも驚くぐらいボリュームがあるので、イグロさんに小さいものをとお願いしました。食事も終わり、ホテルまで送ってもらいました。夕方、妻とイグロさんに連れて行ってもらった市場に徒歩で向かいました。ホテルから川沿いに500mくらいで市場に着きました。夕方なので、すでに閉店している店もありまし。果物も野菜もすべて量り売り、またソーセージやハムも種類が豊富で、こちらも購入してホテルに戻りました。夕食は、果物を主に、パンと一緒に食べました。明日も午前10時にイグロさんとロマンさんが、迎えに来て、近くの公園を案内するとのことでした。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)5月2日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)5月2日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)5月2日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その5)5月2日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その6)5月2日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)5月1日
5月1日
朝5時30分に起床しました。窓から川の流れを見るのもこれが最後になりました。午前7時に朝食を済ませて、1週間過ごしました、ブロトフスキー・インスティテュートのゲストルームともお別れです。荷物をまとめて、移動の準備をしました。午前10時にシェフメフクさんが迎えに来ました。4階のゲストルームから、私と妻のスーツケース25キロを両手に階段を降りて車まで運んでくれました。合気道2段のハンドパワーでしょうか。今度は街の中心部にあるアートホテルに移動しました。ホテルのカウンターに荷物を預けたら、玄関に整形外科医のロマンさん夫妻が車で迎えに来てくれました。今日はクションシュ城まで観光に出かけることになりました。午前10時30分にホテルを出発、郊外に出ると、黄色の菜の花畑が目に付くようになりました。現地に12時に到着、しかし草原の駐車場に向かう車が両方向から大渋滞、駐車場に入れたのは午後1時でした。駐車場は牧草地のような場所をトラクターで草を押し倒したような臨時駐車場、水たまりのような場所もありました。駐車場からお城は見えませんが、石畳みの道路の両側は屋台が並び、人の行列でした。途中の林の中を抜けたら、大きな城が見えてきました。入口は大混雑していましたが、ロマンさんは、すでに入場券を購入していたので、スムーズに門の中に入ることができました。今はフラワーデザインの作品展の最中、城の中も装飾の花がたくさん展示してありました。城の中のトイレも行列、内部の部屋を見学したのち、外部階段を庭に降りました。庭の外壁の外は急斜面で、はるか下を川が流れていました。庭から見上げる外壁はまさに要塞といえる建造物でした。外周を歩き、午後3時、駐車場に向かう道は、まだお城に向かう人の行列でした。屋台でロマンさんがソフトクリームを買ってくれました。駐車場を出発したのが午後4時、まだ駐車場に向かう車の列がありました。帰る途中の町にあるレストランを予約してあるとのこと。午後5時に小さな町に入ると、レンガの塔のような建物が見えました。上部は廃墟のようでしたが、1階、2階はレストランでした。2階の席に座り、ロマンさんが注文をしてくました。祭日なので、店の中も大混雑、30分が過ぎ、やっと注文のピザが出てきました。遅い昼食になりました。午後6時に店を出発、郊外の菜の花畑を見ながら、ブロツワフの街中に入り。午後7時30分、ホテルに到着しました。私たちの荷物は部屋に運ばれていました。ロマンさんが、部屋まで確認について来てくれました。4階の特別室が用意されていました。シェフメクさんの配慮に感謝です。ここでロマンさん夫妻とお別れしました。郊外の静かなゲストルームから、今度は街の中心部のホテルで3日間を過ごすことになりました。お城観光で足も疲れて、すぐに寝てしまいました。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)5月1日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)5月1日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その6)5月1日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その7)5月1日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月30日
4月30日
朝5時に起床しました。ホウジュンさんが朝食を準備してくれ、午前7時に朝食を済ませました。午前9時から、3階のスタジオでコンサートの稽古をしました。午前11時過ぎにシェフメクさんが車で迎えに来ました。日本庭園で尺八の演奏をして欲しいとのこと。ホウジュンさんは、友人3人と日本庭園で待ち合わせにしたとのこと。この日は、日本庭園と動物園に向かう車で大渋滞となり、途中で車を駐車して、徒歩で日本庭園に向かうことになりました。日本庭園は12時に開園なので、ゲートの前は大変な人で混雑をしていました。日本庭園の隅に白いセラミックストーンが並び、その白い石に墨で文字が書かれていました。ポーランド人夫妻は、日本で書を学び、帰国後、この石に墨で文字を書いたそうです。テレビのインタビューの後、私に石の前で尺八の演奏をして欲しいとのことで、大久保甲童作の2尺3寸管で調子を吹きました。ホウジュンさんの友人3人も合流して、桜が満開の日本庭園を回り、道路は渋滞しているので、徒歩で宿舎まで帰ることにしました。動物園の周囲の道路から、橋を渡り、宿舎に午後2時に到着、ホウジュンさんが、宅配ピザを注文してくれたので、私の妻が野菜サラダを作り、宿舎の食堂にて6人で昼食にしました。疲れて昼寝をしたいところでしたが、シェフメクさんが車で迎えに来たので、尺八や衣装を準備して、コンサート会場に向かいました。午後3時から、リハーサルをして、午後5時に開演となりました。虚無僧について、ホウジュンさんが解説をして、コンサートの開始、曲の解説もホウジュンさんが、ポーランド語で話してくれました。
演奏曲目は、1.調子 前川耕月(2尺3寸) ホウジュン夢月(2尺3寸)2.奥州薩字 前川耕月(2尺3寸)3.明暗・鹿の遠音 前川耕月(2尺3寸) ホウジュン夢月(2尺3寸)4.錦風流・調、下り葉 前川耕月(1尺7寸)ホウジュン夢月(2尺3寸)5.手向 ホウジュン夢月(2尺3寸)6.阿字観 前川耕月(3尺管)7.布袋軒鶴の巣籠 前川耕月(1尺7寸)
4日間の日本のサクラと題したイベントも、私のコンサートで幕が降りました。コンサートの後、観客のみなさんがステージに降りて、私の地なし尺八や楽譜などを珍しそうに眺めました。劇団の女性も、1尺6寸管の音が出ると大変に喜びました。その後、着替えて宿舎に戻りました。ホウジュンさんは、迎えに来た両親や娘の麻耶ちゃんと、車に荷物を積み込み、実家に向かいました。宿舎には、また、妻と二人だけになりました。今回のコンサートでは、私の師匠が50年間愛用しました、大久保甲童作の2尺3寸管で演奏することを決めていました。しかし琴古流尺八家の大久保甲童氏が製作しました地なし尺八は、カリ吹きで歌口を吹いて鳴らすように出来ていました。この尺八が出来上がり、大阪の桜井無笛先生宅に届いた時に、岡本竹外氏の目の前で桜井先生が2回息を入れただけで、岡本君、これをあなたにあげるよと差し出されたとのこと。それをもらい、自宅に戻り吹いたが鳴らなかったとのこと。その後、歌口内部に漆を盛ってなんとか、鳴るようにしたそうです。しかし、岡本先生が亡くなるまでに内部に、かなりの手が加えられていました。私が高橋峰外氏から引き継ぎましたが、稽古にも使用できない状態でした。なんとか、桜井無笛先生の地なし尺八のように、息受けの良い尺八になるように、管尻内部の石膏を取り除き、ラッパの管尻には、水牛の象嵌を入れ、歌口の角度は桜井無笛作の角度に修正、歌口も明暗の形に入れ替えました。この改修で、素晴らしい息受けになり、歌口を鳴らす尺八から、管尻の先で音が響く尺八に姿を変えました。私の長年吹いてきました、門田笛空作の2尺3寸管は重量が480グラム、大久保甲童作は600グラム、当然、音味を聞けば、重い尺八の方が貴賓のある響きがします。改修の後、ポーランド遠征まで、かなりの吹込みをして、その音味をポーランドのみなさんに聞いていただけたことは、天国の岡本竹外先生も喜んでくれたのではと思う次第です。今やヨーロッパでは、古典本曲と言えば、地なし尺八が当たり前の時代になりました。単純な地付きの現代尺八にヨーロッパの人は耳を貸してくれません。まして、音楽の道の人たちは、地なし尺八の繊細な音を聞き分けます。歌口から風切り音の出るような地なし尺八では、なおさら相手にしてもらえません。いかに管尻の先から出る、繊細な音を聞いてもらえるかが勝負になります。そんな音を求めて、良き竹材を探して、古管尺八を参考に、日々、地なし尺八の製作を続けています。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月30日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)4月30日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その5)4月30日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月29日
4月29日
朝5時に起床、ホウジュンさんが朝食の準備をしてくれた。朝から雨降り。午前9時から尺八教室を始める。テレビ局が撮影に来た。この尺八教室の様子は、今晩のポーランドのテレビのニュースで放送されることになった。新しく幼稚園の先生をしている女性が参加、またクラクフから4年前に、私の川崎市の自宅に来てくれたパウエルさんが来てくれた。昼食は、ホウジュンさんがパスタを注文してくれた。午後3時に尺八教室は終了して、記念撮影をして解散した。そのあと、スタジオでホウジュンさんと合奏稽古をした。この日の夕食は、野菜サラダにパンを食べた。今回の3日間の尺八教室は無償で希望者に参加していただきました。ワルシャワ在住のマルチン氏が生徒の募集をしてくれました。4年前のワルシャワでの尺八教室と同じように個人指導をしました。少しでも尺八をポーランドの人に知ってもらうための活動でした。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月29日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)4月29日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月28日
4月28日
朝5時に起床、外の気温は4度と寒い、朝食はホウジュンさん、マルチンさんが準備をしてくれる。妻が野菜サラダを用意した。4人で朝食の後、午前9時から尺八教室を始めた。昼食は、近くのレストランにイグロさん、文雄さん、ホウジュンさん、マルチンさんたちと出かけた。午後1時から午後の稽古を開始しました。午後3時に教室の授業は終わり、ホウジュンさんとコンサートの曲の合奏稽古をしました。その後、マルチンさんは、荷物をまとめて、5時にバスでワルシャワに向かうとのこと。ワルシャワまで4時間30分くらいかかるとのこと。私がプレゼントした2尺2寸管や竹材5本を嬉しそうに持ち帰りました。夜は澤田和彦先生の講義があるので、午後5時過ぎに私たちをタクシーが迎えに来るとのこと。ホウジュンさんは、宿舎で留守番をするとのこと。玄関にタクシーが来たので、妻と乗車したら、街の中心部にと向かった、石畳の中央広場は車の侵入が禁止なので、タクシーは車止めで停止、運転手は先の方を指さし、ポーランド語で話すのだが理解できず、20mだけは確認できました。どの位置から20mなのか、運転手は私たちを降ろして走り去りました。中央広場は多くの人がいます。仕方なく、ホウジュンさんにラインで緊急事態を連絡しました。しばらくしたら、主催者のシェフメクさんが両手を合わせて、ごめんなさいと駆け付けました。広場の先のビルの間の狭い路地の奥、20m先の古いビルに入ると、中は神田の古書店のような雰囲気で壁は書籍の本棚になっていました。すでに30名くらいが集まっていました。奥の部屋に日本人の人が座っていました。この人が埼玉大学の澤田和彦先生でした。挨拶をして、荷物を置いたら、別の広い部屋に椅子が並び、奥の机にパソコンとプロジェクターがあり、先生が座ると講義が始まりました。戦前に日本に来た、ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキという人物が、アイヌの女性と結婚して、どんな人たちと交友したかの伝記を書かれた澤田先生が、英文で1ページずつ読み上げ、横の若い男性がポーランド語で通訳しました。私の横の老人は、大きないびきをかいて寝ていました。1時間ぐらいで講義も終わり、今度は全員で外に出て、隣のビルに入ると、3階までの急な階段は、若者が並んでいました。わけもわからず、シェフメクさんについて上ると、3階はレンガ壁のスタジオになっていました。両側に単純な3段の板のベンチがありました。みなさん、椅子に座ると、3名の黒い袴をはいた女性が入ってきて、大きな声をげました。よく理解できない演劇を30分ばかり鑑賞しました。終わりに全員立ち上がり、割れるような拍手でした。元のビルに戻ると、ワイングラスが用意され、全員で乾杯になりました。この後、夕食会ということで、シェフメクさんの案内で、澤田和彦先生、元、駐日大使の金髪の背が高い女性、私たち夫婦と、秘書の女性で広場先の角にあるレストランで午後9時30分から食事会になりました。澤田先生と元・駐日大使の女性は、明日はポーランドの古城を見に出かけるとのことでした。食事会の後、みささんとお別れして、私たちはシェフメクさんが車で宿舎まで送ってくれました。すでにホウジュンさんは寝ているようでした。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月28日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)4月28日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)4月28日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月27日
4月27日
朝5時に起床した。外の気温は3℃、窓を開けたらかなりの冷え込みだった。午前6時にホウジュンさん、マルチンさんが台所で朝食の準備をしていた。妻が野菜サラダを作り、4人で朝食を食べた。午前9時から、3階のスタジオで尺八教室は始まるので、ホウジュンさん、マルチンさんは準備をした。人数が少ないので個人指導にしました。稽古に使用する尺八は樹脂製のパイプで、イグロさんが5本、持参してくれました。尺八教室に参加された若い人たち、子供の時から、楽器演奏をしているので、耳が鋭く、琴古流や都山流尺八の音には興味を持たず、地無し管の音だけを尺八の音だと思っています。簡単な調子や虚鈴の曲の指導から始めました。午後3時に授業も終わり、ホウジュンさんと、コンサートの稽古をしました。午後4時ころ、4人で町を散策することにして、宿泊施設から、川沿いに歩き、鉄骨の自転車や歩行者専用の橋を渡りました。その先は、レンガの塀が長く続いていました。歴史ある動物園だそうです。それを迂回した道路の反対側に日本庭園がありました。途中の店で買い物をして、また来た道を宿舎まで引き返しました。夕食は宅配ピザを注文して、妻が野菜サラダを作り、夕食になりました。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月27日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その3)4月27日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その4)4月27日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その5)4月27日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その6)4月27日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月26日
4月26日
朝5時に起床。6時に朝食を済ませて、10時にイグルさんが迎えに来るのを、待ちました。10時にイグルさんが迎えに来たので尺八の稽古の後、円形絵画博物館に案内されました。ポーランドの農民がロシア軍に勝利した様子を巨大な巻絵に描き上げ、その絵が今日まで保存されてきたそうです。その後、イグルさんに、レストランで食事をご馳走になり、午後3時過ぎに宿舎に送ってもらいました。イグルさんは、電車で来るホウジュンさん、マルチンさんを駅まで迎えに行くとのことでした。ホウジュンさんは、午後3時30分に宿舎に到着、タクシーで市内の皮膚科にいくとのこと。帰りにマルチンさんと一緒に帰ると言い、稽古の後、外出しました。午後6時過ぎに、ホウジュンさん、マルチンさんが帰宅しました。タクシーの運転手がウクライナ人なので言葉が通じないで困ったと笑いました。夕食は、隣のホテルのレストランに決まりました。このホテルの外壁はツタが絡まり、廃墟ホテルかと思っていたら、中はきれいな建物でした。レストランで夕食を済ませて宿舎に戻りました。台所でやっと4人が顔を合わせて、賑やかになりました。孫弟子のマルチンさんには、日本から持参した竹材5本と私が錦風流尺八本曲CD演奏に使用しました、2尺2寸管をプレゼントしました。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月26日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月25日
4月25日の朝、午前5時過ぎに朝日で眼が覚めました。窓の外は、緑の広い庭の先に川が流れていて、大自然のような景色でした。時差が7時間なので、体の動きが思うように行きませんが、午前7時に朝食をとりました。昼食は、街中に出かけてレストランで食事をと、妻と街中に向かいました。路面電車や自動車の交通に激しい中、飲食の店は全く見当たらず、1時間も歩いて、やっと外壁にパスタやビザの看板がある建物、レストランだと思い入口から中の廊下の椅子に座っていたら、病院だと気が付き、あわてて外にでました。その後、公園や川の側に出て、仕方なく帰途に、午後2時になんとか、宿舎に戻り、30m離れたコンビニでサンドイッチや果物を買って昼食にしました。夕方、シェフメクさんが来て、明日の夕方、ホウジュンさん、マルチンさんが来ると言いました。この日は、体を休めました。
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その2)4月25日
ポーランド・ヴロツワフの旅の報告 (その1)4月23日~4月24日まで
Sakura-Wrociaw Days of Japanese Inspiretion
2023年4月27日から30日まで開催
昨年の10月27日に仙台市在住のポーランド人で曹洞宗僧侶の如玄・ノバク氏から電話があり、来年の4月に自分の故郷・ポーランドのヴロツワフで日本のサクラ祭りが開催されるので、地無し尺八のコンサートを、お願いしたいとのことでした。それから、あっと思う間に、3月後半になり、現地での準備も進んで、今回のサクラのイベントには、私と弟子でポーランド人のホウジュン氏が通訳として同行、さらにブロニスワフ・ピスキツ伝記を書かれた埼玉大学の澤田和彦先生の3名が日本大使館の支援により招待されました。3月の後半に、主催者から私にエコノミー航空券が送られてきました。私は妻が同行するので、妻は自己負担で航空券を手配、ホウジュン氏は娘の摩耶ちゃんを自己負担でポーランドに実家に連れて行くことになりました。出発の10日前になり、妻のプレミアムエコノミ席と、私のエコノミー席は、途中での交代は出来ないとポーランド航空から言われました。戦争でロシア上空を通過できず、南周りでワルシャワまで15時間、妻が長時間で、腰でも痛めて、尺八教室やコンサートが出来なくなれば、責任問題だと言いだし、自己負担でビジネスクラスに変更にしようと航空券を手配しました。行の飛行機のビジネスは18席、二人が並んだ席を確保するのが大変でした。飛行機の席の確保で、日程が変更になり、出発が1日早くなり4月23日に、帰国は5月1日から5月4日になりました。年金生活の私にはビジネスクラスの金額は負担出来ませんが、妻が実業家なので180万円を支払ってくれました。ホウジュン氏は一足早く4月22日にポーランドに向かいました。主催者のシェフメクさんに、飛行機の変更のことを連絡、日本大使館が用意してくれました航空券はキャンセルしてもらいました。4月23日の夜9時50分のポーランド航空で成田空港を出発しました。4月24日の朝、現地時間の5時40分にワルシャワ空港に到着、入国審査の後、国内便に乗り換えて、午前8時5分に、ブロツワフ空港に到着しました。空港の玄関ロビーには、4年前にワルシャワで尺八指導をしましたイグルさんと、主催者のシェフメクさんが車で迎えに来てくれました。車で1時間ばかり、ブロツワフ郊外のグロトフスキー・インスティテュートのスタジオ・グロブリの建物に到着、木造の巨大な劇場のような建物、エレベーターは無く、幅が3mくらいの階段を4階まで登ったゲストルームに案内されました。広い部屋にシャワールーム、トイレがありました。扉の外には、共同の台所があり、その奥に小さなゲストルームが2部屋ありました。ホウジュンさん、マルチンさんが到着すれば、この部屋に泊まるそうです。早速、シェフメクさんとイグルさんが、この劇場のような建物内部を案内してくれました。3階は、スタジオやシェフメクさんの合気道の畳式の道場、その奥にコンサートの舞台がありました。2階は、スタジオの隣は、演劇の舞台があり、その奥は稽古場になっていて、若い人たちが舞台の組み立てをしていました。台所に戻り、イグルさんから地無し管の1尺7寸管で地付き管の1尺8寸の律のものが欲しいとのことだったので、総藤巻の1尺7寸管の延管を持参して、プレゼントしました。大変に喜んで、台所で尺八稽古になりました。食材は、イグルさんがスーパーで購入して届けてくれました。体が疲れていたので、部屋で昼寝をしました。夕方5時30分に、ポーランド人で臨済宗永源寺派の僧侶、文雄さんが車で迎えに来ました。30分くらいで市内の中心部にある映画館に到着しました。30分くらい待って入場となりました。上段の席に文雄さん、私と妻が座りました。前の列にシェフメクさんが、奥さんと娘さんを連れて来ました。挨拶をした後、上映前にシェフメクさんが、舞台の上でサクラのイベントの紹介をしてから、黒澤明監督の「夢」寺尾聡主演が「サクラ」と題して上映され、ポーランド語の字幕がありました。映画が終わり、文雄さんが宿舎まで送ってくれました。表の大きな扉の鍵を開けて中庭に入り、さらに建物の扉を開けたら、中の階段室は真っ暗、不気味でした。手すりにつかまりながら、4階のゲストルームに着いたらほっとしました。隣の台所で、妻がパンと野菜サラダの夕食を準備してくれました。多忙な1日目が、やっと終わりました。