小川芳外氏の法要と納骨(その1)(2023.9.2)法身寺
小川芳外氏の法要と納骨(その2)(2023.9.2)法身寺
小川芳外氏の法要と納骨(その3)(2023.9.2)法身寺
高橋峰外(宏)氏を偲んで(その1)(2022.4.13)
高橋峰外(宏)氏を偲んで(その2)(2022.4.13)
高橋峰外(宏)氏を偲んで
明暗蒼龍会二代目会長の高橋峰外さんが昨年6月25日に亡くなりました。私の母が認知症になり三年が過ぎ、その間、毎月、川崎市の自宅から新幹線を利用して実家のある岡山県高梁市に帰省、母の通院の付き添い、また母の好きな温泉にレンタカーを借りての小旅行を続けていましたが、コロナの感染拡大で私が実家に帰省すれば、母の介護施設でのデーサービスは2週間停止処置となり、とうとう実家で母と暮らす生活を続けていました。その後、昨年2月半ばに、母が脳梗塞で倒れ入院生活になりましたが、幸い大きな障害もなく、五月に市内の老人施設に入居となりました。私の自宅がある川崎市は人口が多いのでコロナのワクチン接種も、なかなか順番が来ませんでしたが、やっと昨年の6月28日に川崎市の集団接種会場での予約が出来たことと、車を新車に交換するので、片道720キロを運転して6月26日に川﨑市の自宅に戻りました。その翌朝、蒼龍会副会長の相藤さんから電話があり高橋峰外さんが亡くなったと法身寺の小菅会長から連絡があったとのこと。詳細がわかれば、また連絡をするとのことでした。翌朝、ワクチン接種会場に向かう電車の中で、相藤さんから電話があり、高橋峰外さんの葬儀は家族葬で行うので蒼龍会としては残念ながら出席出来ないとのことでした。私も2度のワクチン接種、車の交換も終えて、また8月1日に車で岡山県高梁市の実家に戻りました。11月に明暗蒼龍会の演奏会が神奈川県逗子市で開催が決まったので、10月末に車で川崎市の自宅に戻り演奏会も済ませて、11月末に、また車で岡山に戻りました。その後、虚無僧研究会本部、新宿区の法身寺墓地にあります蒼龍の碑に、昨年4月23日に98歳で亡くなりました、明暗蒼龍会の長老、大阪府吹田市の前島竹堂先生と明暗蒼龍会二代目会長高橋峰外さんの分骨を納めての法要が12月12日に行われることが決まりました。長年、蒼龍会総会の時は、前島竹堂先生は、上京されると川崎市の高橋峰外さん宅に宿泊されていました。尺八の仲間として仲が良かった2人の法要、納骨が一緒にできること、2人は喜んでくれたことでしょう。法身寺での法要には、高橋峰外さんの長男ご夫妻と、前島竹堂先生の娘さん姉妹、明暗蒼龍会会員8名の出席で、法要と献奏、納骨をすることが出来ました。ここで高橋峰外さんとの思い出を書くことにします。私が岡本竹外先生に入門したのが昭和53年の10月、その頃、岡本竹外先生宅は稽古日の日曜日には、多くの弟子が順番待ちで大変な状況でした。岡本竹外先生は、時には午後2時頃になって、少しだけ昼食にさせて下さいと言われることもありました。それから5年が過ぎた、ある土曜日の午後、岡本先生から電話があり、私に自宅に来てほしいと言われました。夕方、岡本先生宅に出かけたら自分が新潟鐵工時代に明暗蒼龍会を設立したが、それは昭和24年のころ、(岡本竹外先生の残された蒼龍会名簿によれば、その頃の弟子の方々は33名の名前が記載されています。)今、また新しい弟子が増えたので明暗蒼龍会を再度設立することにしたので、あなたは会計担当理事として、まずは総会と懇親会を開催する会場を探してほしいとのことで、すでに会則は準備してあるとのことでした。その当時、私が勤務する会社は横浜市中区にあり、近くに昼食で利用している神奈川県勤労会館があったので、こちらの部屋を予約して昭和58年1月23日、勤労会館で第1回目の蒼龍会総会が開催されました。その時が高橋峰外さんとの初対面で、高橋峰外さんから日本郵船の名刺をいただきました。その後、岡本竹外先生から明暗蒼龍会の研修会を開催したいと言われるたびに、横浜市内で30名くらいが入れて尺八が吹ける場所探しをすることになりました。それからは横浜市内の料理屋のお座敷や、あるいは県庁勤務の会員から紹介してもらった神奈川県の施設で総会や研修会を開催してきました。総会・研修会ともなれば、会員の皆さんも緊張しながら岡本先生の話を聞きましたが、昭和59年の12月、岡本先生から蒼龍会の忘年会を開催したいからと言われ、会場探しに頭を痛めましたが、なんとか横浜市内紅葉坂に、古風な料亭を見つけ予約をすることができました。これまでの研修会と違い、忘年会なので酒宴の席は大いに盛り上がり、太鼓まで用意され、民謡から、ついには踊り出す人もいました。この時、高橋峰外さんは座布団を頭に太鼓のリズムに合わせて踊りを披露されました。皆さん、普段の生活から解放された楽しい時間でした。酒宴も終わり、皆さん、次々と退席される中、赤い顔の岡本先生が私のところ来られて、あんた支払いは大丈夫かと心配顔でした。請求書には、やたら項目がたくさん書いてありましたが準備していたお金で、なんとか無事に支払いが出来ました。昭和61年になり、高橋峰外さんは日本郵船で出世をされ名刺も肩書が変わり、そのおかげで横浜山手にあります郵船倶楽部を借りることが出来るようになりました。昭和61年2月15日が、横浜の郵船倶楽部での始めての総会と研修会になりました。それ以降、会場の心配をすることなく長年、贅沢な料理をいただき、郵船倶楽部の管理人さんが退職されるまで、長い間、開催を続けることが出来ました。高橋峰外さんは、一橋大学時代は都山流尺八を同じクラスの野崎光外(光一)さんと学ばれていましたが、野崎光外さんは大学卒業後、新潟鐵工に入社、そこで岡本竹外先生と出会い、今度は普化尺八の道に入ることになりました。その普化尺八のことを、親友の高橋峰外さんに連絡して、それがきっかけで高橋峰外さんが岡本竹外先生に入門されたのは昭和38年1月15日、野崎光外さんが入門されたのは昭和38年1月25日と岡本竹外先生の書かれた蒼龍会名簿に記載されています。岡本先生から聞いた話では、高橋峰外さんは入門当時、岡本先生から普化尺八を学ぶことが一番の楽しみ、ところが、ある日突然、日本郵船からアメリカ勤務の命令がでて、どうしたらいいか迷い、岡本先生宅に相談に出かけた時に、岡本先生から、まだ私は若いので死ぬようなことは無いから、あなた自身の将来のために今はアメリカに出かけなさいと言われたそうです。その言葉で、高橋峰外さんは決断をしてアメリカに向かわれたそうです。それからのアメリカ・ニューヨークでの生活、一橋大学柔道部の主将として活躍した経験を生かして、ニューヨークでは仕事以外に、柔道の指導もして、それで貯めたお金を宝石に替えて帰国後に川崎市宮前区に自宅を建てることが出来たと聞きました。高橋峰外さんの書かれた書籍「轍」の中に、自宅の新築祝いに大学時代からの親友、石原慎太郎、典子夫妻、石原裕次郎氏を招いた写真が掲載されています。また、親友、石原慎太郎氏が所有されたいた逗子市の別荘の表札、何度も盗難にあったとのことですが、その都度、高橋峰外さんが表札を書かれたそうです。明暗蒼龍会も総会以外に夏は研修旅行を実施しました。いろいろな場所に蒼龍会会員や客員の方々と一緒に旅行をしました。その旅行の中での私の記憶では、平成2年8月に山形県の高橋龍童さんたちと蒼龍会の合同献奏会が、山寺・立石寺と寒河江の慈恩寺で開催されました。立石寺の時は、夜は駅前の古風な旅館で懇親会が開催され、寝床は夏なので、障子も開け放された部屋での雑魚寝でしたが、早朝、眼が覚めたら、高橋峰外さんは寝床から廊下に転がりでて寝ていました。その姿はまさに豪傑でした。その反面、駅前の土産店の中で、高橋さんは土産を買われていましたが、誰の土産ですかと聞いたら、会社で世話になっている秘書の女性への土産だと言われました。豪快な面もあり、また細かな気遣いもありの人柄でした。その後、岡本竹外先生も高齢になり、蒼龍会総会が郵船倶楽部で開催される時に、岡本竹外先生は出かけるのも大変になった頃、高橋峰外さんは一番に岡本先生宅に車で迎えに行かれ、また岡本竹外先生の荷物持ちもしていました。自分の親のように師匠を大切にしている姿は、私の目には人生の一つの教訓のようなものでした。その岡本先生も平成12年4月に亡くなり6月の蒼龍会臨時総会で高橋峰外さんが蒼龍会二代目会長に就任されました。それからは蒼龍会の総会や研修会を開催するたびに会費は足りているかと、毎回、財布から蒼龍会に寄付をしていただきました。そのおかげで今日まで蒼龍会としては健全な活動が出来ました。高橋峰外さんは日本郵船副社長から郵船航空サービスの会長を務められ、退職後は尺八を片手に虚無僧で四国八十八箇所巡りをするのが夢だと話されていましたが、郵船航空を退職後は、東京都知事だった親友の石原慎太郎氏の頼みを聞き入れ、東京都立大学の改革を任され、大学名も首都大学東京となり初代理事長を勤められました。その間、石原都知事が東京都で尖閣列島を買い取る運動が始まると、高橋峰外さんは一千万円を寄付されました。そのころ、虚無僧研究会役員会が法身寺で開催された、ある日の夜、高橋峰外さんは理事長専用車で法身寺に来られました。法身寺での役員会終了後、私に車で一緒に帰ろうと言われ理事長専用車の後部座席、あなたはここに座りなさいと、理事長席を譲られ川崎市の自宅まで一時間の旅、人生で初めて社長になったような気分になりました。その後、首都大学東京の理事長を八年間勤められ、後任は川淵三郎氏になりました。平成27年2月、蒼龍会総会が横浜のホテルで開催されることが決まり、高橋峰外さん宅に車で迎えに出かけました。高橋峰外さんは後部座席に座わるとすぐに、今日で蒼龍会の会長を退任して、あなたが今日から会長をやってほしいと言われました。自分と野崎君は顧問になるからよろしく頼むとの言葉、運転をしながらの突然の言葉に「はい」としか答えようがありませんでした。横浜のホテルでの総会で、高橋峰外さんからの発言に会員の皆さんも驚いたのではと思います。この日から私が三代目会長を引き継ぐことになりました。その後、高橋峰外さんは平成27年3月に講談社から「喧嘩の作法」の書籍を出版され、平成27年4月3日に大手町の如水会館で川淵三郎氏の主催で出版記念パーティが開催されました。出席予定人数が大幅に増えたとのことで、この日の出席者は300名になりました。高橋峰外さんの親友、石原慎太郎氏は三男、衆議院議員の石原宏高氏と出席されました。政界財界のトップクラスの方々の集まり、蒼龍会会員は隅のほうで小さくなっていました。来賓あいさつでは、石原慎太郎氏が高橋は耳が遠くなったから長生きできるだろうと、また、大学時代に柔道部では高橋に3回くらい、しめ落とされて気絶したと笑顔で話されました。また、息子の宏高氏の名前は高橋峰外さんが名付け親とのこと。この会場で、蒼龍会5名で越後鈴慕の曲を披露することが出来ました。その頃には高橋峰外さんは、右目も不自由になり、蒼龍会の総会や研修会に出かけるときは、私が車で送迎をすることにしました。それまで、高橋峰外さんは、毎朝、ゴルフ練習場に通うことが日課のようでしたが、車の運転が出来なくなり、自宅過ごす毎日のようでした。岡本竹外先生のことを最後まで大切にされた高橋峰外さんの姿、今度は私が高橋峰外さんを大切にすることが役目だと思いました。それからは、総会や研修会のたびに、高橋峰外さんに大浦玄外の名前をつけてもらった私の弟子、大浦幸典さんと一緒に高橋峰外さん宅まで車での送迎をすることにしました。高橋峰外さんは、毎回、後部座席に座られると財布から高速代やガソリン代だと言われ一万円札を出されました。その後は、現地に到着まで居眠りをされることが常でした。その頃、親友の野崎光外さんは、癌の治療で何度か入退院を繰り返していました。ある時、法身寺での役員会の帰り、高橋峰外さんは片眼が不自由なので夜道は足元も危ないので表通りまで付き添い、タクシーに乗るまでのお世話をしましたが、その僅かな時間に、高橋峰外さんは、野崎には自分より先に死んでほしくないと言われました。それからまもなくの年末に野崎光外さんから私に電話があり、このところ咳が出てもう尺八は吹けないから自分の尺八を蒼龍会に寄贈するから、みんなで使って下さいと言われました。それが野崎さんとの最後の会話になり、まもなく野崎さんは亡くなりました。野崎さんのお通夜は雨降りでした。東京杉並区のセレモニーホールまで、高橋峰外夫妻を車で送迎しました。その後、高橋峰外さん宅を訪問した時に、野崎さんの人生について話されました。大学時代から野崎君と親友だったが、野崎君は社会人としては出世もなく、自分の影武者のような存在であったと言われ、また野崎君は自分が出世するのを後押ししてくれたように思えると言われました。豪傑の高橋峰外さんも高齢になり何度か体調が悪くて蒼龍会研修会に欠席された時は、数日して高橋峰外さん宅を訪問し資料を届け内容の報告もしました。話は少し戻りますが、平成22年5月29日に明暗蒼龍会と臨済宗・釈迦牟尼会会員との合同で静岡県裾野市の釈迦牟尼会・不二般若道場で坐禅会が開催されました。午前と午後に二回、山本龍廣老師の指導で坐禅会があり、その間に、全員で五竜の滝に出かけ、蒼龍会会員で滝を背に瀧落の曲を献奏しました。それから月日は流れ、私の弟子、ポーランド人で曹洞宗の僧侶、法純氏は山本龍廣老師から臨済禅を学び、山本龍廣老師がヨーロッパに禅の布教活動に出かけるときは、法純氏は通訳として同行して来ました。令和元年5月、山本龍廣老師はオランダとポーランドに禅の布教活動に出かけることが決まり、法純氏は通訳として同行が決まりましたが、私にポーランド・ワルシャワで尺八教室を、その時期に合わせて開催してほしいとのこと。山本老師のぽーランドでの指導が終わる翌日から、私が尺八教室を開催することにしました。オランダ禅センターでの山本老師の禅の指導、通訳の法純氏は、一緒に帰国した子供さんが急病で緊急入院になり、オランダの山本老師には同行できませんでした。山本老師は、オランダ禅センターでの指導を終え、ぽーランドに移動する飛行機の乗り継ぎでトラブルが発生、それでも、なんとか12時間遅れで、ポーランド・ワルシャワに到着、ワルシャワでの指導を6月5日に終えられた後、私に会いたいとのことで、6月5日の夜、私の尺八教室会場であるチベット仏教教会に来られました。山本老師は、私の顔を見るなり、あなたに会って高橋峰外さんの様子が聞きたかったんだよと言われました。近くのレストランで一緒に食事をしながら、私から、今の高橋峰外さんは片目も失明され、帯状疱疹がでたり、耳も遠くなり会話するにも大変になりましたと伝えました。山本老師はビールを飲みながら、あんな豪傑も、やはり人間なんだなあと一言、今日は、あなたから高橋峰外さんのことが聞けて良かったよと言われ、自分は明日、一足先に日本に帰ると言われ別れました。生前、高橋峰外さん曰く、山本龍廣老師は、昔、坐禅会で自分の仲間に、いじめられていたのを何度か助けてやったことがあるんだと言われました。十歳くらい年下の山本老師とは目には見えないつながりがあったようです。コロナ感染拡大前、高橋峰外さん宅を訪問した時に岡本竹外先生から受け継いだ古管尺八の話になり高橋峰外さんと奥さんの洋子さんはソファに並んで座り、古管尺八のことを頼むからと、また妻の洋子さんから、どちらが先に亡くなるからわかりませんが、後のことをよろしく頼みますねと、また古管はタンスに仕舞うと駄目になるから毎日、欠かさず息を入れて下さいねと言われました。それからは日本中コロナの感染拡大、2人の様子を心配しながらも、わずか車で10分の距離でも、コロナの壁ができて訪問を遠慮してきました。高橋峰外さんと顔を合わせ話したいことは、たくさんありましが残念ながら、それも出来なくなりました。高橋峰外さんの思い出、まだまだ書きたいことはたくさんありますが、この辺りで筆をおくことにします。ここにご冥福をお祈りします。