尺八関係の書籍や記事
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秩父宮殿下と御前演奏(その1)

昭和天皇の弟、秩父宮

 昭和十(一九三五)年八月十日午前八時五十二分。秩父宮夫妻は弘前駅に到着した。歓迎の人々は夜明け前から駅に待機し、その中に警衛に選ばれた寺山修司の父八郎もいた。昭和天皇の1歳下の弟、秩父宮はこの時三十三歳。英国留学経験もあり、「スポーツの宮様」として慕われ、青森県にはスキーで以前から縁があった。宮様は定期異動で参謀本部付から弘前第八師団の歩兵第三十一連隊大隊長に任命された。青森、岩手、秋田、山形から入隊する初兵の教育が主な任務だった。三十一連隊には宮澤賢治の弟清六も入隊し、賢治が山田の練兵場まで会いに来たという逸話も残っている。この頃の東北は昭和恐慌と大飢饉のために疲弊しきっていた。身売り娘や欠食児童。都会の人々は募金活動や人道支援をし、一方、陸軍では、「昭和維新」を唱える革新派の動きが活発になり、世の中は不穏な空気に包まれていた。秩父宮は東北の惨状に胸を痛め自ら志願して来たのだといわれている。天皇の子である親王が地方に住むなどは前例のないことだ。夫妻は弘前に到着するとすぐに紺屋町に向かえた。そこに菊池薬局を営んでいた菊池長之の別邸があり、「御仮邸」と呼ばれ、秩父宮夫妻の住居になった。当時の様子を勢津子妃が書き残している。すぐ裏は田圃がつづきで、農作業をする人々の様子がよく見え、窓の向こうに穂を出す前の青い稲が風に波打っております。『今年は豊作だとよろしゅうございますね』と、移ってきたばかりなのにさっそく土地の人の気分になって宮さまと話したりいたしました。宮さまは田植えから稲刈り、脱穀までの一部始終を1年がかりで十六ミリカメラで撮影して、皇太后さまにご覧に入れる計画をお立てになりました。近くを岩木川が流れていて、せせらぎの音が聞こえ有名な弘前城や弘前公園も近く二階からは岩木山、八甲田山などが見え、私も宮さまのお供をしてあちこち散歩にはよくまいりました。『郷土兵団物語』(岩手日報社)には「やがて冬。自動車をやめて、スキーで連隊へ出勤された。警備の警察官はおおあわて。宮さまはスキーですうすう。沿道で敬礼する市民には「おはよう」と気軽にあいさつされた。市内は雪切りのときは徒歩で通勤された。宮さまと知らずに欠礼する市民も多かった。天気のいい朝は、愛馬「五勲号」を飛ばされた。お邸のすじ向かいの民家の一部に、目立たないように小さな派出所が設けられていた。「もう時間だな」と警察官が門前をそれとなく見張っている。するといきなり、宮さまは乗馬を飛ばして行ってしまう。沿道の派出所への電話連絡も間に合わない。宮様大隊長は、それがおもしろそうに、一層飛ばして行かれた」とある。これが本当なら庶民的で活発、チャーミングな宮様相手に警衛警官も大変である。紺屋町には現在も旧派出所が《趣のある建物》として残されているが、この記述に出てくるのは御仮邸の警備用に置かれた臨時派出所のこと。本間徳太警部補と斎藤幸作巡査部長のもと十四人の巡査が交代で勤務した。その中に二十三歳の八郎は選ばれた。彼は青森県でも選りすぐりの若手エリート警察官だったのだ。

 

生誕八十年

寺山修司と弘前

      世良 啓 筆

陸奥新報・2015年

(平成27年12月18日)

 より転記する。

左から斎藤周童、山谷孤山(クリックで画像を拡大)
山谷孤山師の2尺管(クリックで画像を拡大)
折登如月作(クリックで画像を拡大)

秩父宮殿下と御前演奏(その2)

斎藤周童師は東大医学部時代に琴古流の三浦琴童師に師事。後に弘前に帰り外科医を開業、錦風流は津島孤松師の系統。山谷孤山氏は平川市の猿賀神社宮司であり、また警察官、村長も務められた方で、錦風流の津島孤松師に明治41年、18歳の時に入門され、大正12年の秋に皆伝を受けている。秩父宮殿下の滞在された菊池別邸は後に火災により焼失しました。秩父宮殿下の入浴された風呂桶は、錦風流尺八や笛の名手であった松山定之助氏が製作しました。松山定之助氏の錦風流尺八は、今年青森県から県技芸保持者の認定を受けました高橋涛月氏が受け継ぎ、笛の方は、同じく県技芸保持者の藤田竹心氏が受け継いでいます。高橋涛月氏の思い出話によれば、松山定之助氏は菊池別邸が火災になった時は、風呂桶を一番に持ち出すように言われたとのことです。
斎藤周童師の吹き料(クリックで画像を拡大)
地無し延べ2尺管(クリックで画像を拡大)
陸奥新報の記事(クリックで画像を拡大)

明暗三十七世・谷北無竹師直筆の楽譜(2021.10.25)(その1)

この楽譜は大阪在住の竹友・飛田氏より先日送られてきたものです。前の所有者は、今年4月に98歳で亡くなりました、大阪吹田市の桜井無笛門下の前島竹堂先生です。この楽譜に書かれている曲は、一二三調、鉢返し、瀧落、三谷、九州鈴慕、志図、善哉、秋田菅搔、門開、転菅搔、吾妻獅子以上11曲です。この楽譜が書かれたのは昭和24年正月、私が生まれる1年前です。
谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)

明暗三十七世・谷北無竹師直筆の楽譜(2021.10.25)(その2)

谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
谷北無竹師直筆の楽譜(クリックで画像を拡大)

宮川如山師・古希祝賀演奏会のこと(普化第15冊より)(昭和14年3月15日発行)

宮川如山師・古希祝賀演奏会(昭和十三年十二月十八日)について

(普化第十五冊より:昭和14年3月15日発行)

演奏会第一部

一、大和調    田中恭平、谷狂竹、橋田無適、浦本浙潮、山極一三、
                           内山浙水、渡部嘉章、稲垣束、外数名

二、京調           谷   狂竹

三、鈴慕        仙台 後藤  桃水(欠席のため代役で浦本浙潮      
                                                                  氏が演奏)

四、虚空        京都 谷北  無竹

 

演奏会第二部

一、薩慈        福岡 一朝  普門

二、通り・門附け・鉢返し   神   如道 

三、三谷           赤星  水竹居

四、阿字観          宮川  如山 

                  挨拶       浦本政三郎

                  謝辞       宮川 如山

 

当日の出席者

山極 一三、田中恭平、内田孝一、浦本政三郎、(宗家)永野雄次郎、大久保交童、一朝普門 、谷北無竹、谷 狂竹、渡部嘉章、阿部知童、福島俊彦、片山 識、蛯原凡平、暉峻文子、近藤雷童、川瀬順輔、加藤雄童、

吉田 茂、神 如道、堀江信吉、小川龍水、熊井櫻童、横山雪堂、關村つる子、圓谷 豊、堂前俊雄、依田君美、川本敏郎、竹中竹僊、神宮徳壽、山本 潔、奥村洞麟、三宅透關、小林喜四郎、光竹康郎、須藤勝義、土屋大造、坂齊武皃、平井幹直、土岐 正、富樫 實、伊丹康人、吉見正二、川勝要一、百瀬正男、町田嘉章、本川弘一、厨川登久子、田中松聲、飯島 茂、中西政周、岩田昌一、稲垣 潜、藤田鈴朗、竹花雄三郎、若原竹風、安藤泰蔵、小林啓行、木下公大、川瀬朴二、中塚竹禅、荒川清二、山田積善、稲垣 束、森田謙三、馬場照男、笠木良男、來仙空道、橋田無適、明 由松、土添廣園、木崎雲經、

 

公開会合記録 (浦本浙潮)

1.晝の会合

本会会則の第三条には毎月一回公開の吹簫及び清談会を開く規定がある。その第一回の会合はなるべく清楚に然し又 盛大にし度いと念願して居た。元来本会は会則の二にもあるように、普化宗の伝統を貴ぶと云うことが一つの目的であるので、その意味からは成るべく斯道の先達の士を尊敬することも道に叶う所以であると思っていた。偶々宮川如山師が本年をもって古希に達せられるので、是非先生の古希の祝いを兼ねて第一回の公開演奏会をやらなければならぬと、谷狂竹氏とも打ち合わせ、一方京都の谷北無竹先生、又仙台の後藤桃水先生にも、来て頂き度いと御両所に御依頼したのであった。一方又本会は斯道の為に飽く迄正々堂々の陣を張らなければ、将来の発展を期し難い。同じ立場をもって普化尺八の道を歩んで居る同志に如道会の神如道氏が居られる。谷狂竹氏を介して同氏に出演を依頼した處が、喜んで参加されるとのことであった。一方過半永眠された京都明暗根本道場の小林紫山氏の跡目を継ぐのではないかと思われて居た富森茂樹氏にも出演を依頼したのであったが、多忙で出席がむずかしいと云う事で、この方は取り止めるより外はなかった。尚又、宮川如山氏の門下で小金井に道場をもって居る高橋空山氏にも出演の依頼をしたのであったが、同氏は先師盤龍禅師の三回忌法要があるので其日は出演しかねると云うので、同氏からも断り状をよこされた。さて斯様な次第であったが、出演の各位の流風を考察して見ると、日本に於ける普化尺八の殆んど全部が網羅される。即ち錦風流の神如道氏、布袋軒の後藤桃水氏、京都明暗流の谷北無竹氏が居られるので、漏れるのは博多の一朝軒の伝統のみである。幸いこの春三月一朝軒の衣鉢を伝える一朝普門氏が拙宅に来られたので同氏に出演を依頼した處が幸いに快諾された。斯様にして別項の如きプログラムが出来たのであった。省みれば大正十一年自分が東京に出て来て、先ず普化明暗の尺八の宣伝をするのには先ず東大の学生に呼びかけなければならないと、大正十二年春、東大赤門前の喜福寺に道場を持ち、そこで全国普化尺八の大会を開催し、京都の小林紫山氏、仙台の後藤桃水氏、熊本の津野田露月氏等が来られて華々しく普化復興を宣し、全国普化尺八各流合同の開いたのであったが、震災で道場も中止し、昭和三、四年來自宅を道場として、普化と云う雑誌を三年ばかり続けて出したのであったが、尚時代が来なかったかそれとも自然中絶して今日に及んだのであったが、今回の本会第一回演奏会は正に大正十二年以来の初めての全国的普化尺八の大会であった。年を閲すること正に十五年である。自分としては感慨なきあったはずであった。斯様なわけで、折角全国的な普化尺八大会をやる

ことであるから、同夜更に有志の士相寄って清談演奏会を催したいと、別項の如き案内状を約百五十余人に差し出したのであったが、晝の演奏会には別項記載の如く七十名、又夜の会には四十名の会集で、誠に盛大な而も近来稀に見る魂の会合であったことは自分として感謝措くあたわざる處であった。只仙台の後藤桃水氏が傷兵慰問の演奏会があって、どうしても出席できなかった為、未熟な自分が同氏のかわりに鈴慕の一曲を奏して、会衆のお耳をけがさなければならないことであった。尚又、宮川老師はご都合で夜の会合に出られなかったが、是又「吹一寥吹して去る」と云う普化尺八には却って應しい余情を残したのかも知れない。

2.夜の演奏清談会

會者四十名、古希を祝はれた宮川如山師は飄々乎として吹一吹して去られたが、古希祝ひとあって、席次は年齢順で、般若湯が、一本づつ食膳に並んだ。食事中に自己紹介があり始まり、主として当日の感想と普化尺八との

縁故を紹介された。それ等の内で主な話を挙げると橋田無適先生の普化尺八こそ真に日本的なものであり、行的なものであり、尺八即人間の境地であると云う事に就いての意味深い話があり、川瀬順輔老師は、氏の尺八の出発が、山形臥龍軒の普化尺八からであった事、又氏の日頃の持論である日本音楽の危機を述べ、このままにして行ったら純粋な日本音楽は盆栽の水のなくなるように滅びなければならない。音楽に国境ないなどと云う事は嘘で、言葉の延長である音楽には山一つ越しても俚謡や子守歌の節が違ってくる。まして西洋のものと日本のものと違うのは当然である。それなのに日本の生命的な霊的な音楽をやたらに西洋流に理論づけるところに、日本音楽の混乱と危機があるのではないか。又、小学校で先ず西洋音階を教え込むのがどうかと思うが、と云うような意味深い話をされた。又堀江少佐は自分は尺八玆とは本来何等縁故のないものであるが、先達迄満州に居り、然も大黒河(ブラゴエチエンスクの対岸)の寂寥とした町で、偶然にも普化の尺八の妙音を聞き、何とも云えぬ感にうたれたのであったが、先日又偶然電車の中で浦本先生にお目にかかり、今日の会合を知って参りましたが、実に感銘深い会合であったと感想を述べられた。又わざわざ甲府から出て来られた百瀬氏のお話もあったが、ここに特記したい事は独自の詩吟の生き方で特異の存在である山田積善氏と俳晝で有名な蛯原凡平氏の感銘深い話である。山田氏は先程頭の白い人の挨拶にー私が来た時この人が丁度何か吹いていたように思うがー我々の音楽は西洋の音楽の遠心的で、外に向かって行くのに対し、求心的であって、いつも内に向かうと云われたが、私は玆で王陽明先生の詩を思い出さざるを得なかった。

四十余年睡夢中、而今醒眼始朦朧

不知日己過亭午 起向高棲撞暁鐘

即ち四十余年外へ外へと、上へ上へと進んできたが、然しそれは未だ念々無常の世界に住んでの修養でしか無かった。起って高棲に登って暁鐘を撞くは正しく不退轉の内省の姿を指すのであろうと思うが、今日尺八を聞いてそうした内省的のものの貴さに打たれ、何か山の上の縁に圍れた池の端をさすらっても居ると云うような良い気持ちにもなりました。尚又、自分は詩吟の建前から聞いて大変示唆されることが多かったのである。一体自分は詩吟の吟調を自然にとって居る。例えば、風に散る花びらの音、水の音、波の音等であるが、波の例をとれば一方には荒波が岩に当たって砕けているのに波の底の水は砂に接しズズーと引いている處等に聲の節をとり、又嵐が吹いて木がボキンと折れる音、又竹の音、そうした自然の音に中に吟調の手本があるような気がして居るが偶々今日普化尺八を聞いて少からぬ御手本を得たような気持がする。一体今迄の旋律は調直線か、曲線になっていくようなものがあったが、普化尺八の旋律は、高い處からああ落ちる。落ちる、落ちると、その落ちて来るのに見とれて居ると又スーッと横にでていくのである。パァッと吹き出された音がやがて低く低く落ちてゆくのを感じて居ると、それがスット横に波うち始める。その處に実に深い暗示を受けたのである。それから、高い、強い、張り切った音と云うものは梢もすると強い音になる。自分の詩吟等でも高い處を出そうとすると、強くパットなりがちである。それなのに普化尺八では、底が小さい弱い驚くべき静かな音で出る處があった。之は詩吟でも学びたいと思った。それから普化の音色は如何にも無形の世界から有形のものになり、又それが無形の世界に入ってゆく。私はそれを大変面白く感じた。私は璋潭雲盡きて暮山出づ、と云う詩句を思い出した。山の上は雲であり、無形の世界である。然るに雲の下では有形なものとして谷川が表われ、それがサラサラと流れてゆく。然るに麓は霞んで居て又無形の姿になる。之は吾々の心と肉体と云うのもが無窮から姿になり、姿から又無窮に入るということになると思われ面白く意味深く考えさせられた。と云うのであった。次に蛯原氏のお話はいかにも氏の今良寛たる面目を思わせるものであった。私ははじめからこの会に期待して参りました。それで、私はこのように今日は一張羅の禮服をきて参ったのですが、と、こんな話をきっかけに、卅年來無識者と云うべき暮らしでありまして、殆んど家にばかりいて、外で働くと云う事をしないできました。一日に手紙一本書けばいいから自分の会社にきていろと云ってくれた人もいましたが、私はそれも出来なかった。何故であるかと云うと、私は外に求めないですむだけ求めず生きて行きたいと願っているからであった。それでは却って、世に背を向けている形ではないかと云う人もありますが、私の気持ちとしては決してそう云うのではない。寧ろ、私は世の人の温かさを感謝して生きているのである。人様には出来るだけ求めずに、そして求められて私自身で出来ることは出来るだけの事をして生きて行きたい。と云うのが本来の念願であります。一切に向かって求める事をしない。若し求めた事があったとすれば、つい先日浦本先生に、先生から送ってもらった「普化尺八の夕」と云う一文を尊いものに思い、水戸から日本紙を取り寄せて筆写した折、その中にある写真が裏甞甞表になっていてどうしても一枚づつとれぬので、重ねてお求めした位のものであります。こんな生活をしていて、或時は明日の米にも差し支えることもあるし、お金もなくなってしまう事もあるが世の中は有難いもので、こんな時には思いがけなくお米屋川瀬などを送って下さる人があるので、私は又生きて行く事が出来る。私は何で生きて行くのかと時々思うが結局ありがたい、気持ちの酔い人々と共に、温かい気持ちで生き合って行こうとしている事が、私をこんな風に生かしているのではないかと思います。というような、しみじみした氏の私生活から、段々と氏の人生観を遠慮勝に話され、今日は未だ甞って人様の前で話したことのない私的な話までするような気分にさせて頂いた此会合を厚く感謝するというようなお話であった。尚最後に町田嘉章氏が自分は、これ迄音楽を只々演奏会のみ求めて来たのでしたが、こう云う会合の中に隠れたよいものがあることに反省せしめられるものもあると云うことを述べられた。尚、話が終ってから、山田積善氏の「広瀬中佐」の詩吟、一朝普門氏の薩慈、近藤雷童、竹中竹仙兩翁の尺八追分、神如道氏の喜びを表した即興曲、谷北無竹氏の志図の曲を最後として、一同記念

署名をして、九時に散会した。

横山雪堂氏の評論「芸道か芸当か」(普化第15冊より:昭和14年3月15日発行)

 

 

戦前の三曲の記事ですが、横山雪堂氏は東洋大学出身で異色の人物。仙人といわれた風格の人で昔風の丁髷姿は特に異形を放っていて、書家としては日本中に名を知られた変人でした。民謡の後藤桃水門下として正調追分唄い手であり、変わり種尺八家でもありました。普化尺八の賛助会員でもありました。 

 

昭和13年12月18日に宮川如山氏の古希祝賀演奏会が開催されましたが、 

 

その時の演奏者の方々の演奏について、御批評を寄稿された。

 

 

「京調を演奏した谷狂竹氏について」 

 

さすが生命ある芸である。これでこそ始めて芸道尺八道ということが出来

る。しかし、今少し徹底あらんことを。

 

 

「布袋軒鈴慕を演奏した浦本浙潮氏について」 

 

形式から言えば、何という完備した、至れり尽くせりの芸、よくもあれだけ 

 

暗記し覚え得た事と実に感服の外はない。氏は余程頭の良い人に相違ない。 

 

しかし遺憾ながら生命がない。木なら生け花である。 

 

根がない模倣の芸である。自分の芸でない。人の芸である。いかに形式に 

 

おいて完完全全たるとも畢竟(ひつきょう)するに、芸当というの外あるま

い。惜しいかな、氏は出来上がって居るらしい。

 

 

「薩慈を演奏した一朝普門氏について」 

 

(のちの海童道宗祖)何と落ち着きのない、がさがさした、鼻ッパシばかり 

 

強い芸であろう。博多から夜行で来て、当日の朝着いたばかりとの事である

から良く鳴らないのは、大に割り引きにして聞かねばならないが、しかし、

もう少し落ち着きがなければならぬはずである。それも未だ若いから仕方が

ない。大に自重して謙譲の美徳を養い、ゴツゴツとして心を修めねばならぬ

と思う。

 

 

「通り・門附け・鉢返しを演奏した神如道氏について」 

 

氏が座ってから吹くまでの、ゆっくりした態度の形式は甚だ良いが、然しわ

ざとらしくて不自然である。芸としては、上手、平凡、上滑りの芸である。

喉の鳴るのは甚だ聞き苦しい。
 

 

「虚空を演奏した谷北無竹氏について」
 

 

さすが年配だけあって芸は練れているが、平凡、単調、面白くない。アス

ファルトの道を歩くよう。今少し、干乾びない潤いのある芸たらんことを願

わしい。

 

 

「阿字観を演奏した宮川如山氏について」 

 

なんとは鼻っぱしの強い、握拳(にぎりこぶし)のような芸であろう。 


手は開いていなければ、やくにたつまいと思う。もすこし円滑な心広く體胖


(たいゆたか)なりというようなところを、養われたらいかなものでしょ

う。真の名人であったら少々体は衰えても心は、ますます成長し冴えるべき

はずである。心が冴えたなら、芸もますます澄むべきである。僕は甚だ期待

を裏切られたのである。但し七十にして、尚を五十くらいの立ち振る舞いに

は敬服の至りである。 

  

 

黙照と久米幸太郎(虚無僧をした久米幸太郎)(2016.3.12)

東北地方で最も特色のある仇討は、奥州・宮城県石巻市渡波町祝田で、越後国新発田藩士・久米幸太郎盛治が40年余りを費やし父親の仇討を成し遂げたことが、よく知られています。この仇討について、宮城県牡鹿郡牡鹿町谷川浜中井道にあります曹洞宗光谷山・洞福寺発行の日本公許最後の仇討「黙照と久米幸太郎」と題した小雑誌を石巻市在住の林晃氏よりいただきましたので、ここに紹介します。
黙照という坊さんは、もと滝沢休右衛門という名前の武士でした。休右衛門は新発田藩(新潟県新発田市)五万石、溝口内膳正の家来で御納戸役(今でいう会計係)という係りをつとめ、七十石の俸禄をもらっていました。 久米幸太郎盛治も同じ溝口家の御小姓頭兼御納戸役をつとめて二百五十石の俸禄をもらう久米弥五兵衛の子で、姉一人と弟盛次郎、母違いの弟弥六の四人兄弟の長男でした。事件は今より約180年前の文化14年(1817)十二月二十日(注・新発田藩年譜では十二月二十三日)の夜に起こりました。そのころ、黙照こと休右衛門(41歳)はささいな事に腹をたてて刀を抜き、百姓に傷をおわせた罪でおとがめを受け、妻と二男二女を離縁して、出戻りの妹(30歳)と二人きりで暮らしていましたが、役目を利用しひそかに藩のお金を持ち出して使っていました。この事がいつしか弥五兵衛(41歳)に知られるようになりました。しかし、休右衛門は藩金の使いこみをやめることが出来ず、また、弥五兵衛が曲がったことを何時までも見のがしてくれるような人ではないことを知っていたので、他の人に使いこみを知られないように弥五兵衛を殺す外はないと考えました。そのころの武士の社会では、藩金の使いこみを殿様に知られると、切腹させられるのが普通のきまりで、逃げても場合によっては追手が出され、国中どこに逃げても生きのびることが出来ないこともありました。藩金(今の言葉で言えば公金のこと)の使いこみというのはそれほど重い罪だったのです。その日は昼間から雪が降っていました。休右衛門は昼過ぎに弥五兵衛の家を訪ね、夜おそくまで碁を打ちました。碁の好きな弥五兵衛はたいへん喜んで夕食に酒まで出して休右衛門をもてなし、酒によわい弥五兵衛は気持ちよく酔って、まさか休右衛門が自分を殺しに来たとは思っていませんでしたから油断していました。それを見た休右衛門は刀を抜いて弥五兵衛を切り倒して逃げました。物音におどろいてかけつけた妻にまだ息のあった弥五兵衛は、休右衛門は藩金の使いこみを知られたので私を切ったので碁に負けたからではない。油断していたのが残念である。仇を打ってくれといって死にました。主人が休右衛門に切られたことを知った下男の藤助が、主人の仇を討とうと追いかけましたが休右衛門は逃げて家にはいませんでした。そのころ、休右衛門はすでに城下町の外に出ていたのです。殿様は弥五兵衛が刀を抜かずに切り殺されたのは武士としての心得が足りないとして二百五十石の俸禄を取り上げましたが、幸太郎が大人になるまでは十人扶持(扶持一人は一石八斗)を家族に下げ渡してもよいことにしました。その時、幸太郎はまだ七才、盛次郎は五才、弥六は三才で、敵の休右衛門の顔さえ分からない子供でした。それから一年あまり過ぎて文政二年(1819)二月末のことでした。九才と七才になった幸太郎、盛次郎兄弟を前に母は休右衛門に切られて死んだ父弥五兵衛の最後の様子を聞かせ、仇討ちするように言いました。それから兄弟は武芸を槍の達人であった叔父板橋留六郎に、学問を根来源太夫について一生懸命習いました。この時、まだ幼い弥六は母の言い付けで久米家の菩提寺である城下町の明光寺に入って僧となり、父の菩提をとむらうことになりました。文政十一年(1828)五月、幸太郎は十八才、盛次郎は十五才(新発田藩公文書による)になりました。そこで幸太郎、盛次郎の兄弟は殿様の溝口伯耆守に父弥五兵衛の仇討ち願いと、敵の休右衛門の顔を知っている叔父留六郎(42才)の付き添いを願い出て許されました。殿様はたいへん喜び、父の俸禄の半分百二十五石の扶持を幸太郎に与え、さらに兄弟に刀一振と金百両づつを与えて励まし、幕府に「仇討廻国御免」の許し状(免許状)を貰えるように願い出てくれました。のちに幸太郎が江戸(今の東京)に着いたときに受け取った筒井伊賀守、榊原主計頭の署名のあるその許し状は、幕府が出した最後の仇討免許状だったおいわれています。五月十一日、幸太郎兄弟は叔父留六郎、下男藤助と全国廻国の「六部」に姿を変えて、先ず庄内の鶴岡(山形県)を目指して仇討の旅に出発しました。しかし、そのときの幸太郎にはそれから三十年にもわたる長くて苦しい旅が、いま始まったのだということを考えてもみませんでした。鶴岡に着いた四人は先ず町の八幡宮にお参りして、一日も早く敵の滝沢休右衛門に会えるように祈りました。それから湯殿山、鳴子、涌谷、小牛田、古川と探しまわり、七月十七日に仙台国分町の旅籠(食事もだしてくれる昔の宿屋、今の旅館)に着き、ここで虚無僧に姿を変えました。それは留六郎も藤助も尺八が上手だったからです。のちに幸太郎が尺八の名手として江戸で有名になり、門人数百人といわれましたがそれはこの旅で習い覚えたものでした。やがて、道を南にとり、八月十九日江戸に着き、溝口藩邸について幕府からの「仇討廻国御免」の免許状を手にすることができました。この時江戸藩邸の留守居役川村初治郎のすすめで二手にわかれて敵の休右衛門をさがすことになりました。そこで叔父の留六郎と弟の盛次郎は関西方面に向かいました。江戸に残った幸太郎は宿場の水戸屋久兵衛の世話で槍術指南山本嘉兵衛の下男に住み込み、藤助は近所の荒物屋の荷役取締として働きながら二人で敵をさがすことになりました。西へ向かった留六郎と盛次郎は、途中軍談読みや刀の目きき(鑑定)んどをしながら紀州の和歌山まで行き、そこが諸国の人々で賑わい、いろいろな人が多く出入りするところだと分かったので、才兵衛、才助と名前をかえ、親子だといって紀州藩の家来宮本左太夫の家に小用たしと、ぞうり取りになって住み込み、ひまを見つけては敵をさがしました。幸太郎はその後三年あまり江戸にいて敵を探しました。その間に嘉兵衛に見込まれて槍術を教えられ、また事情を知った熊本細川藩の家来渋川左源治にも槍術、剣術、柔術を教えられ、どちらも上達して免許皆伝を受けました。しかし、荒物屋に藤助は間もなく風邪をひいたのがもとで亡くなってしまい、幸太郎は頼りにしていた相談相手もなくなり、ただ一人で敵をさがさなければなりませんでした。四年目になって幸太郎は、休右衛門が江戸にはいないことが分かり、西に向かって旅立ちました。そして、大津(滋賀県大津市)の近くの松原まで来たとき、旅の疲れではげしい腹痛を起こし、近くに住む親切な百姓に助けられ、すすめられるままにその家に一晩泊まって疲れた体を休めました。その時、その家の老人が幸太郎のことを見抜いて易を立ててくれ、たずね人は、ここよりはるか東か、北の国にいるから引き返して、さがした方がよいと言ってくれました。しかし、幸太郎は、その老人の言葉を信用せず、私は北国の百姓だが親子三人で四国の金毘羅参りにでかけ、事情があって両親にわかれ、今その両親がいるという西国に旅しているのですといって、その家をでました。幸太郎は大坂から船で四国にわたり、高松から金毘羅さまにお参りして一夜お籠りし、一日も早く敵にめぐり会えるように、お祈りしてから四国をさがしまわりました。それから九州にわたり、南は鹿児島、北は壱岐、対馬、五島列島まできまなくさがして豊前小倉(福岡県小倉市)にもどってきました。小倉で口入れ屋の親分に頼んで問屋場の雲助になって休右衛門をさがしました。あるとき熊本の立派な武士を乗せた馬を引いているうちに、あまりに違う今の自分の不運な身の上をかなしみ、望みを失って死のうと思いました。城下はずれの松原に座って腹を切ろうとしたとき、一羽の小鳥が刀の柄にとまって三度ついばんで飛んでいきました。孝太郎は亡くなった父が小鳥になって自分をはげましてくれたのだと思い、気持ちを改めてまた仇討ちの旅に出かけました。長崎に行き、下関から山陰地方(今の島根県、鳥取県)をまわり、また東海道を伊勢(三重県)の古市まで来てしばらくそこにいました。そのころ、留六郎と盛次郎は和歌山県で敵を探すことをあきらめ、京都大坂をさがし、四国に渡り、さらに九州をさがしまわりました。小倉に来て泊まったときの宿改めに来た役人に、すすめられて小笠原藩の武術師範に迎えられました。腕もよく、教え方が親切だったので評判がよくなり、それがねたまれて同じ藩の武術師範が殿様に讒言(ありもしないことを悪く言う告げ口)したので暇を出され、それから中国地方や畿内をまわって草津の温泉に来て泊まりました。そのとき、盛次郎は敵を探す旅に出てからもう二十年にもなる。ここで叔父と別れよう。自分はこれから奥羽路(東北地方のこと)をさがして敵に会えなければ、兄をさがし出して、刺し違えて一緒に死のうと思うといいました。留六郎は、それは浅はかな考えだと盛次郎をいましめましたが、別れてさがすことには賛成しました。そして、自分は信州(長野県)松代にいる親友の岩間民部を訪ね、民部と相談して七里ほど離れた浅間山麓の温泉で長い旅の疲れで弱った体を休めながら髪結い(今の床屋)になり、暮らしを立てながら敵をさがすことになりました。盛次郎も叔父と別れて伊豆(静岡県)、相模(神奈川県)、下総(千葉県)、上野(栃木県)、下野(茨城県)と休右衛門をさがして水戸(茨城県)の友人紫部進太夫を訪ね、その世話で水戸藩の若侍に剣術を教え、殿様に大変信頼されて江戸詰になりました。その前年の春四月、幸太郎は、もう一度京都大坂方面をさがそうとして古市を出発して西に向かいましたが京都近くの品多村で道に迷い、源蔵という親切な42才~3才の夫婦者の家に、自分は医者で長崎からの帰り道で道にまよったのだといって一夜世話になりました。それが縁で幸太郎はその村で医者を開業することになりました。幸太郎には多少医術の心得があったので、京都、大坂に近いここにいれば敵のことも分かるんのではないかと思ったからです。幸い食当たりの若者を、すぐになおしてやったことから腕のよい医者がいるという評判が立ち、遠くからも患者が来るようになりました。孝太郎は安政元年(1854)の正月を品多村で迎えました。そのお正月の年始に来た者のなかに仙台領内名取郡富沢生まれの弥助という者がいました。弥助は自分の若い時、村の娘とかけ落ちして諸国をめぐり、三十一になってここへ落ち着いた。先生は越後の人だというが、私の村の竜沢寺という寺の坊さんも越後の人で常に懐剣を持ち、外出の時、仕込み杖を持ち、他人に会うのを嫌い、檀家の法事も代人をやってつとめさせ、そのうえに、なんでも毎晩寝る所も変えるのだといわれている不思議な坊さんがいますと話しました。幸太郎はその話を聞いた時、その坊さんこそ敵の休右衛門に違いないと思いました。そして、大津の老人の易が正しかったことに気づいておどろきました。孝太郎は源蔵夫婦に、国元の老母が夢に出るので心配だから国に帰るといって別れをつげて品多村を出発しました。そして、このことを叔父や弟にしらせようと思いましたが、その行方も分からないので、取り合えず叔父の親友の岩間民部に聞けば叔父のことが分かるのではないかと思い松代を訪ねました。民部に会った孝太郎は叔父留六郎に会うことができましたが弟の居場所は叔父にもよく分からず、水戸に友人がいると聞いたことがあるから水戸あたりにいるかも知れないといわれました。しかし、一日も早く敵の休右衛門をさがしたいと思う幸太郎は、弟の連絡を叔父に頼んで富沢村に向かいました。そのころ、盛次郎は諸国流浪時代に長崎で外国人から西洋砲術や火薬の製造を習っていたので、その知識を活かして水戸藩で大がかりな大砲や火薬の製造工場をつくっていたのです。幸太郎は富沢村の坊さんが確かに敵の休右衛門に違いないと思いましたが、ひどく不安でした。弥六が国を出たのが二十年近くも前のことです。はたして、その坊さんが今も竜沢寺にいるかどうかも分からなかったからでした。幸太郎が急ぎに急いで富沢村に着いてみると、はたして、その坊さんは六七年前に竜沢寺を出ていなくなっていました。それでも村の者によく尋ねてみると、その坊さんはどうやら今は気仙郡(岩手県)あたりにいるらしいということがわかりました。幸太郎はすぐに気仙郡に行ってみると、気仙郡浜田村の普門寺に名取郡富沢村成就山竜沢寺から来た坊さんがいるが、人に会うのが嫌いであるうえに、ときどき旅に出て寺を留守にする。今も松前(北海道)方面に出かけているということでした。幸太郎は、その話を聞いて、いよいよその坊さんが敵滝沢休右衛門に違いないと思い、すぐにその坊さんの後を追いかけて南部(岩手県)、津軽(青森県)から松前(北海道)に渡り、それから江差、エトロフ(今ロシア領になっている)まで三か月も探して歩きました。そのころの北海道はアイヌ人とわずかな日本人がいるだけの土地でした。人家はほとんど見られず、人がいても言葉が通じない。深い原始林やクマザサの道を分け入り、広い北海道を探しまわることは幸太郎にとって、それは大変に心細い苦しい旅でありました。のちに祝田浜での仇討ちを終えてから、幸太郎は長い三十年間の旅のうちで、この松前からエトロフまでさがして歩いた三か月が最も苦しい旅であったと人に話していたそうです。なんのてがかりもなく幸太郎が浜田村に戻ってきますと、その坊さんは松前に旅に出るまえに、牡鹿郡谷川浜の洞福寺に移っていることが分かりました。幸太郎はすぐに谷川浜に向かいましたが、気仙沼まで来ると、またもや旅の疲れが出たのでしょう。はげしい腹痛が起こり、三週間も寝たきりで苦しみました。気が気でない幸太郎は少し歩けるようになると、ふらふらする足を踏み締めて気仙沼を出発し、石巻まで来ました。病み上がりで体も気持ちも弱っていたのでしょう。幸太郎は石巻の町外れで本物の虚無僧に出会い、作法を知らないといって殴られたそうです。そして、近くにある牧山の梅渓寺に奥州三観音といわれる、ありがたい観音様があることを聞いて、幸太郎は一日も早く敵打ちが出来るようにお祈りしようと山に登りました。一夜お勤めして翌朝、位牌堂に入って見ると、仏壇に父の法名である「雪路院寒月路栄居士」の位牌があるのを見つけました。おどろいた幸太郎は梅渓寺の住職こそ敵の滝沢休右衛門に違いないと早合点し、住職の居間(方丈)に飛び込んで名乗りをあげると、住職は幸太郎の名を呼んで、自分は休右衛門ではないと答えました。自分の名前を呼ばれて、またもおどろいた幸太郎は怪しみながら訳を尋ねると、その住職は自分は僧になった弥六です。二十七才で二本松の少林寺の住職になり、十一年前に火災のあって荒れ果てた、この寺に来て二十五世徳明和尚の跡をついで住職になっている亮道ですとのことでした。二人は不思議な出会いをよろこび、これまでの苦労を話し合い、幸太郎がここに来た事情を話しますと、亮道は洞福寺は、この寺の末寺であるが、そこにいる僧が越後なまりの言葉を話し、日頃、人に会うことを避けているのを不思議に思っていた。その黙照という僧こそ休右衛門でないかと思う。しかし、他人の空似ということもあるから、先ず休右衛門の顔を知っている人に来て貰って確かめるのが先である。黙照のことは末寺の僧だから私がなんとかして引き止めておくからといって、すぐにでも谷川浜に行こうと孝太郎をなだめました。そこで孝太郎は叔父と水戸の弟へしらせの飛脚を出すとともに、安政四年(1857)八月十五日、新発田へ出発しました。新発田には孝太郎の母が七十二才になって兄弟の便りをまちわびていました。殿様も大変よろこんで、すぐ休右衛門の剣術仲間で孝太郎の親戚でもある板倉貞治(72才)を選び、九月二十日に新発田を出発させたので、二人は晦日には石巻に到着しました。もっとも新発田藩では老人の板倉貞治の身を気づかい、作事方の渡辺戸矢右衛門と貞治の末子甚内(18才)をつけ、さらに岩代(福島県)信夫郡代官清野留太夫と郡方付人西沢某の四人をひそかに二人に付けてくれました。そして、この四人は孝太郎が宿を人目の付きやすい石巻から渡波の木村屋に移すと自分たちも同じ渡波の後藤屋与治右衛門方に泊まって仇討ちに備えて二人を見守っていました。渡波に宿を移すと、板倉老人は早速乞食に姿を変えて谷川浜に出掛け、洞福寺の勝手口に立って黙照が休右衛門であることを確かめて戻って来ました。そこで孝太郎と板倉老人は亮道に会い、ここで仇討ちをしたいから黙照を梅渓寺に呼んでもらいたいと頼みました。亮道は洞福寺は末寺であるから黙照を呼びよせることは難しいことではない。しかし、自分は僧である。また、この寺は奥州三観音の一つといわれるありがたい観音様を安置する霊場である。この境内を血でけがすことは避けて、出来るだけはなれた所で仇討ちをして貰いたいと示談して仇討の場所として万石浦の渡し場を渡った祝田浜の海岸沿いの街道を選びました。黙照は新発田を出てからすぐに僧侶に姿を変え、庄内から仙台に来て松音寺という大きな寺に隠れて、そこの弟子となり、三~四年して名取郡富沢村の成就山竜沢寺(原文には竜沢山成就院とあるが誤植かと思われる)の住職になって二十一年を過ごし、それから気仙郡浜田村の普門寺に移り、谷川浜の洞福寺に身を寄せるまで四十一年、その間、いつも刀をそばから離さず、夜毎に寝る場所を変え、人に会うことを避けて少しも心の休まることのない日々を送りながら八十二才になっていました。しかし、見たところでは、いたって元気で六十才位に見えたそうです。しかも、洞福寺の住職は前に仙台の松音寺にいたときに弟弟子でした。黙照にとってこれほど安心して居られる所は、なかったのでしょう。黙照は板倉老人が乞食に姿を変えて、滝沢休右衛門本人であるかどうかを探りに来た日の昼過ぎに頼まれていた折ノ浜の峰耕庵の留守番に出かけていました。そのころ峰耕庵の住職は用事で京都に上がっていて留守だったのです。したがって、本寺梅渓寺の使いの者は最初に谷川浜洞福寺に行き、それから峰耕庵に来て亮道の用件を伝えました。その使いの者が、お寺に用事があるから、すぐに来て貰いたいという亮道の言葉を伝えると、黙照は、なんの疑いも持たず八日に出向くからと答え、その言葉の通り八日の昼過ぎに黙照は梅渓寺に来て用事を済ませ、その夜は梅渓寺に泊まりました。明けて安政四年(1857)十月九日、この日、祝田浜では神明社(五十鈴神社)の屋根の葺き替えが行われ、たくさんの村人が出て働いていました。孝太郎は祝田浜の渡しと岬の中ほどに身をかくし、三十年前、溝口伯耆守からいただいた粟田口広道の目釘を湿して黙照の帰りをまっていました。板倉老人は、そこから五六間はなれた木立のかげに姿をかくして立っていました。新発田藩からの付け人、四人は恐らく黙照の逃げ道をふさいでいたと思われますが、仙台藩の公式文書にも孝太郎の聞き書きにも何も記されていないので分かりません。梅渓寺に一夜泊まった黙照は、それとは知らずに祝田の渡しを渡って浜沿いの帰り道をたどっていました。この日の黙照は茶木綿の綿入れに白木綿の単衣を重ね、紺の絹衣をつけ、袈裟をかけ、甲掛脚絆にわらじをはき、黒絹帽子に木綿更紗の小風呂敷を肩にかけ、柄前の損じた黒塗鞘鉄鍔二尺二寸の刀を木綿袋に入れて背負い、手に一尺三寸の小刀を紙に包んで持っていました。孝太郎が黙照の行く手をふさいで現れ、名乗りをあげると黙照は始めは自分が休右衛門でない。人違いだと弁解しましたが、そこへ板倉老人が現れて話かけると、黙照は逃れられないとみて袈裟衣をぬいで、神明社の幟杭にかけ、帽子もとより小刀を抜いて孝太郎と渡り合いましたが、初太刀を左肩に受けてそのまま倒れ、孝太郎は止めの太刀をさして仇討ちは終わりました。しかし、この仇討ちは幕府が許可した仇討ちでしたから、仇討ちが終わったからといっても、すぐにその場を立ち去ることが出来ず、幕府や仙台藩、新発田藩への届や交渉など、つごのように大変面倒くさい手続きが必要でした。仇討ちが終わると、孝太郎はすぐに祝田浜の肝入治三郎に事の次第を届けました。肝入治三郎は、この事を狐崎の大肝入平塚源兵衛に連絡、平塚源兵衛が石巻会所の代官岩淵伊右衛門に届け出たのは同夜四ツ時(11時頃)になりました。代官は仙台城下の郡奉行に報告する一方、孝太郎、板倉老人の二人を阿部屋旅館に移して丁重に扱い、警護のために足軽二人を付けて置きました。仙台藩では御徒目付二人に御小人目付二人づつ付けて検視のため祝田浜に出張させ、この御徒目付は十三日に到着、良く十四日に幸太郎と洞福寺住職を取り調べて口上書を作って藩に報告し、黙照の死体は塩二俵で塩漬けにして新発田藩の請取人との立ち会い検視にそなえました。仙台藩では、その報告によって幕府に伺いをたて、同寺に新発田藩にも連絡する。十一月二日、新発田藩郡奉行兼御物頭宮北勇五郎(幸太郎の従弟)等上下三十人が引き取りに祝田浜に到着。検視のうえ仙台藩に戻って旅館で新発田藩からの指示を待つ。仙台藩では、その後も何度か新発田藩との文書往復を交わし、幸太郎ら一行及び休右衛門の死体が仙台藩から新発田藩の宮北勇五郎等に引き渡されたのは十一月二十日でした。一方、最初の知らせを受けた叔父留六郎と水戸家から暇を貰って出立した弟の盛次郎は武州(埼玉県)足立郡美如来村で行き逢い、そこへ運よく第二の休右衛門確認の知らせが届き、途中仇討ちの噂を聞きながら十月二十五日夜、祝田浜に着き、幸太郎との再会をよろこび合いました。そして、盛次郎は休右衛門の死体かが新発田藩に引き渡されてから藩の役人に願って恨みの一刀を休右衛門の、のどに加えたといわれています。また、谷川浜の洞福寺からも新発田藩の役人に死体の下げ渡しの願いが出されたので、これも承諾され、十三両余りの金子と所持品も添えて下げ渡されました。ただし、大小二振りの刀と着物一枚は幸太郎が父弥五兵衛の墓に供えるために取り除き、板倉老人は昔の同僚休右衛門の供養料として金一両を洞福寺に差し出しました。十一月二十に日、幸太郎等一行はお世話になった人々に、それぞれ金子等贈って謝礼を述べ、すべての手続きを終えて渡波を出発、仙台では二十四日から二十六日まで滞在し、仙台藩の丁重なもてなしを受け、藩主も使者をもって幸太郎等をねぎらい、幸太郎に羽二重三疋、銀子十枚、盛次郎に同二疋、銀子三枚、板倉貞治に同二疋、銀子二枚、その他の者にもそれぞれ応分の銀子が下されました。二十七日、幸太郎等は新発田に向け出発しました。人生の最もはなやかな半生を仇討ちに費やした幸太郎は藩主溝口主膳正から厚く、その労をねぎらわれた上に禄三百石、盛次郎に禄百石を賜りました。また、板倉貞治にも七十石の加増がありました。幸太郎は四十七才になっていました。この年に妻まつを迎え、一子三輔をもうけましたが、間もなく明治維新となり、禄をはなれた幸太郎は東蒲原郡日出屋村退き、旅館「日出屋」を三輔に経営させ、自分は養豚業や黒漆細工などの事業を起こしましたが、いずれも失敗して諸国遊歴の旅に出ました。明治二十三年、病にかかって日出屋村に戻り、翌二十四年(1891)二月五日、八十一才の天寿を全うして亡くなりました。法名は長寿院深入淡水大居士と言いますが、その淡水は京都近くの品多村で医者をやっていた時の幸太郎の名前でした。三輔も後に医者となり大正四年(1915)に病死しています。妻まつこと蓮生院貞節妙信大姉は慶応三年(1867)八月五日に亡くなりました。
この小雑誌は平成5年10月9日に発行された、ものです。
滝沢休右衛門こと少峯黙照和尚の墓は今、洞福寺の歴代住職の墓地にあります。この小雑誌の後記に出典として、下記のように書かれています。
この文は 大正十四年(1925)四月二十七日から河北新報に富田記者が二十四回にわたって書いたものをやさしく書き直したものです。富田記者は石巻の郷土史家高橋鉄牛より、直接久米幸太郎に何度も会って、その苦労を苦労話を聞いた祝田浜の千葉寛斎という人が書き留めた「祝田濱復讐録」(美濃紙表紙49枚、毛筆書)と「祝田報仇実明傳」(同57枚、同)を借り、同じ郷土史家の佐藤露江などの話も聞き、また祝田浜の古老の話や幸太郎自筆の和歌六首の掛け軸を所有している阿部作治区長の案内で仇討ち場所等を案内されて書いたと言います。資料の「祝田濱復讐録」は主として公文書及び身柄引き受けにきた新発田藩士にたいする仙台藩の接待や細々とした食事献立まで書かれており、「祝田報仇実明傳」は幸太郎の三十年間にわたる諸国流浪中の実際の出来事が書かれています。鉄牛氏が奇跡的に屑屋の屑籠から収拾したものだそうです。

久米幸太郎が愛用した尺八・二葉園(2016.3.12)

虚無僧研究会の機関紙・一音成仏第三号に大川千山氏が実録・虚無僧久米幸太郎の仇討と題して記事を投稿されています。その記事を紹介します。
久米幸太郎が愛用した尺八は、虚無僧の際、親交を結んだ宮城県増田の布袋軒の佐藤淡水という虚無僧に進呈したという。彼は幸太郎の法名である「淡水」を、幸太郎の死後受け継ぎ、二代目として佐藤淡水を名乗ったものと思われる。その後、この尺八は三代目小梨錦水、四代目後藤桃水、そして現在五代目菊池淡水に受け継がれている。筆者は、製管の勉強もしているので、菊池淡水先生にお願いした処、心よく承諾して戴きその尺八を拝見した。銘「二葉園」、長さ一尺三寸五分、太さ一寸、中国唐時代の作との事であった。早速吹かせて戴いた処、何とも言えぬ崇高な気分に襲われた。この尺八が、幸太郎と伴に長い間旅をし、様々な境遇を一緒に潜り抜けて来たのかと思うと感慨深く、言葉で何と表現したらよいか分かりませんでした。淡水師は、この「二葉園」尺八を用い、この名笛に因縁のある人々の霊を慰める為、また、この名笛と、これにまつわる物語を後世に伝える為、「渡波鈴慕う」という曲を作って居られた。(昭和57年4月15日発行の記事より)
東芝から発売されたレコード・表紙は民謡の名前の命名者、後藤桃水師。
このレコードの渡波鈴慕について作曲者の菊池淡水師が解説されています。
普化尺八・渡波鈴慕(わたのはれいぼ)二葉園(一尺四寸管)
渡波鈴慕について今を遡る百五十年前、文化十四年十二月、越後新発田藩、溝口家の家臣、久米弥五兵衛は、同藩士滝沢休右衛門と囲碁のことから争いになり、遂に殺害された。七才の幸太郎、五才の盛次郎は遺児となり、悲しい年月を送ったが、十一年後に、兄幸太郎は十八才、盛治と名乗り、次いで弟盛次郎は十六才、盛盈と名乗って、元服をすると同時に藩主の許しを得て、父の仇討ちの途に上がったのであった。文政十一年と誌されている。二人の兄弟は虚無僧となり、また金毘羅詣りと姿を変えて、諸国を、仇敵を求めて探し廻ること三十年、奥州路入ったある日、牡鹿郡谷川の洞福寺に一夜の宿を乞うた。ところがこの寺の老僧が、二人の探し求める仇敵の絵姿に似ていることに驚いた。然し、絵姿だけでは仇と判断することが出来ず、そのまま郷里に帰った二人は、仇の顔を知っている者を伴い、再び、同地に来て、ひそかに首実検の上、洞福寺の老僧、黙照こそ、四十余年の恨み重なる仇敵、滝沢休右衛門と分かり、久米幸太郎兄弟は、茲に時節到来を喜んだ、洞福寺に世をしのぶ仇の滝沢休右衛門が渡波祝田の船場の近くを通りかかった時、久米兄弟は躍り出て、見事に仇を討ちとり孝の道を果たした。時に安政四年十月九日と伝えられる。後、兄の久米幸太郎と知り合った佐藤淡水(小梨錦水の師)が幸太郎から愛用の名笛を譲り受けた。更に、我が民謡の名づけ親、後藤桃水翁が譲り受け、翁が七十七才の喜寿の祝の昭和三十二年二月四日、仙台市公会堂に於いて、先年世を去られた普化尺八の権威者であった浦本政三郎博士ご夫妻、現日本郷土民謡協会副理事長の青木好月氏始め、多数列席の会場で、桃水翁の高弟菊池淡水氏が、この名笛を譲り渡され、この名笛五代目の持ち主となったのであった。尚この名笛には「二葉園」の銘があります。渡波の仇討の際、たまたま、ここを通り合わせた桃水翁の祖父、小太郎が竹の葉陰に忍んで、この仇討ちを逐一見届けたというが、桃水翁とは縁の深い名笛でもある。桃水翁が世を去られて十年、菊池淡水氏が今は地下に眠る桃水翁始め、この名笛に因縁のある人々の霊を慰める為、また、この名笛と、これにまつわる物語を後世に伝える為、作曲され、この曲に、久米幸太郎兄弟の本懐を遂げられた地名を冠し、「渡波鈴慕」と
名づけた。その名笛をもって作曲者菊池淡水氏の吹奏による一曲、これが「わたのはれいぼ」である・明頭来や、明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打。(所要時間三分三十三秒)
 
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)

鈴法寺と中里介山(2006.9.20)

鈴法寺と中里介山 ( 山下弥十郎著) ( 昭 和 52年 11 月日多 摩の あ ゆ み 第5 号 よ り )
昭和の初め頃、多摩が生んだ文豪中里介山が鈴法寺の再建を計画された事があった。当時あの有名な「大菩薩峠」の執筆に文学的生命のすべてを傾けていた介山居士が、鈴法寺再建を提唱されたのは何故か・・・・・・・・。上求菩提下化衆生の精神を巨篇に打ちこんでいた介山の思考の中には、普化の禅機に共通する何物かがあった。一切の衆生みな明暗の中に生死浮沈しつつある俗界の夢をさまそうと云う。普化の得道精神に通ずるものがあったのだ。あの大菩薩峠の主人公机龍之助が、人を斬る時だけ生き甲斐を感ずると云う、虚無の深淵をさまよいうながら、虚無僧姿で盲目の剣をとり、お雪と云う少女に手をひかれて信州白骨温泉から飛騨の平湯へ、さらに高山へ行くあたりの彼の壮絶をきわめる動き、妖気を身辺に漂わせる彼の行動等、筆先に火花を散らす様な文章の流れは読者をして魅了するものがあった。当時中里介山は竹道関係の高橋空山と親交があった。空山は北海道農大を卒業してから尺八1本を携えて全国を行脚したと云う変わり種で、現在では我国竹道会の巨星でもある。介山はこの空山によって普化の道を知り、鈴法寺の再興を考えたと思われる。筆者は羽村町の介山の旧居である「大菩薩記念館」に保存されていた関係書類を調べた事があった。それによると「普化宗顕揚主意書」と、印刷して各方面に配布されたものと「鈴法寺再建主旨財資芳名録」であった。主意書は長文であるが、その全文を下記に揚げる。

普化宗顕揚主意書
世尊双樹の間に滅を示してより既に二千有余儀其間大小乗の道幾度か興亡を繰り返し流転を極め来りぬ。我が普化宗の如きも亦此の業相を免かれず憶へば明治維新の際心なき人々の手により無檀無縁にして在家仏法なる故を以て廃宗と帰してより此の方はや六十年に垂とす而して諸々の遺従忍辱苦節を守って今日至りぬ。我等はこの由緒ある正法の影の如く薄れ行く事を深く悲しみ実体として表に浮ばしめ併て祭るものなかりし宗徒等の遺霊を慰めんと欲す。抑も当宗は大唐に於ける普化禅師の宗因を発すと難も遠く世尊の音声説法を伝えるものにして又アショカ王時代に於いては諸仏持受用三昧なりし深き禅定哲理に基く吹笛によりて人生の済度をなしたることは既に史上に明らかなり。而して我が日東の国に流布してより日本精神の至高至純なる発路の一として又外国の影響を受けず純乎として延び来れる武道をこれに加え更に其の精華を増すに至れり。顧みれば当今世をあげて空論戯論の事徒に喧しく力を労して一寸の実行実証を相励むべきの道遥かに軽せらるの時徹底実参実究を期するこの正法の顕揚は真に徒爾に非ざることと思ふ、而して尚また国を挙げて生きむことの苦難に面する折生産の業に従ひつつ其れに深むべき正法を保ち行かむとする在家仏法のまさに興隆すべき秋なりと思う。この世尊もまた大般若経に明に宣つところなり斯るが故に禅・尺八・武の三身一体を宗要とし在家仏法の一なる当宗の再顕を願ふはこれ真に命なりとなさむ。されば諸士よこの切なる大願を許容され幸いに深く外護されむことを一同に翼ふものなり。
鈴法寺竝道場建立寄付募集
我等は主意書に述べあるが如く普化宗を再興するに当り鈴法寺の再建をもくろむ、額は多少を問わず浄財の喜棄を翼ふ。
一、所在  東京府舌青梅町外新町(旧鈴法寺所在地)
一、敷地  同地東禅寺所有地(既に呈供有)
一、寺道場 寺二間四方 道場間口三間奥行五間
一、維持農場
一、師家
昭和三年十月吉日

発起人   小林万右衛門
中里弥之助
笹本長十郎
吉野 広助
斉藤宗四郎

この発起人の中の中里弥之助は介山その人であり、斉藤宗四郎は、しない勝沼の住人で明治の初め西多摩地誌を編纂した斉藤真指の子息に当り、その頃西多摩史談会の会長で父子二代にわたり郷土史の研究に終生の心魂を傾けた篤学の人である。小林万右衛門は青梅の旧家の出で町長もつとめた人で鈴法寺の研究保在に熱意をもっていた。笹本長十郎は地元新町の人で当時の村長であり其の後も終戦迄続いてつとめた自治の功労者でもある。 吉野広助は新町開拓の始祖織部之助にゆかりの家柄で篤農家として知られていた。これ等の人は何れも社会的地位にあり郷土の研究に熱心な人々でこの事業も実現も可能性が充あった筈である。この計画によると当時鈴法寺跡は民有の宅地であったので東禅寺境内にある鈴法寺の薬師堂の近くにて寺、道場、師家を建て、これに附属する農場として約千五百坪の土地の開墾を予定されていたのであった。介山は又全国からの特志の外には其頃帝国劇場で沢村正次郎一座の新国劇が大菩薩峠の上演で名声を」博して居たので、この収益の一部をもこれにあてる事を考えていた様である。その当時、筆者も郷土の先輩からそれ等の相談を受けた事もあった。「鈴法寺再建主旨財資芳名録」には三十余名の賛成者が名をつらねていたが、その多くは大阪や京都方面の人であった。問題は地元新町や周辺の動向だが、この時代はいわゆる不況時代であった。特に農村の不景気は深刻で農家の生活は今考えても想像も出来ない程であり、地元民としてこの趣旨には賛成しても積極的な協力が出来ない様であった。この計画は其後戦時と云う社会情勢の大きな変化もあり、更には其の中心人物であった中里介山の逝去によって総てが中止のやむなき結果となったのである。その鈴法寺再建運動がはじまった頃、高橋空山が斉藤氏の案内で新町を訪れた。鈴法寺の歴代墓前で献曲され、東禅寺の本堂で講演があり、筆者も青年の頃村人でと共にこの講演を聞いたが、其の折、鈴法寺の普化禅師の木造を空山が預かって行ったと云う話を後で聞いた。明治4年太政官の布告により廃宗廃寺となった時、境内の薬師堂は東福寺に移し、鈴法寺の本堂扁額は師岡妙光院に、位牌や仏像仏具のすべては東禅寺に納められた。当時の村の人達は何の考えもなく厄介払いが出来た位にしか思わなかった。その頃又東禅寺も無住にて仏像や位牌の全部を薬師堂の須弥壇の下に押し込めたまま歳月は流れて約50年間も放置されたので床板は腐り、位牌も仏像もみな下の土間に落ち朽ち果てて手を失い、首を失う等支離滅裂の状態であった。それもこの講演の折に空山から聞かされたので、初めてこの有様が判ったのであった。戦後空山の住居がわからない。聞く所によると神奈川県の真鶴町とか、又夫人が根府川の中学校に奉職して居るとも聞いた。其の後、市の社会教育課で調べた結果、小田急線の秦野市の渋沢駅の近くと云う事がわかった。昭和35年頃、筆者が市の文化保護委員になってから、同僚の稲葉松三郎・森田定義両氏と神奈川県下の文化財の視察を兼ねて高橋空山を訪れたことがある。それと禅師の木像の事もあったからである。筆者が訪ねた当時は、まだこの付近一帯は麦畑の続いた高台で新築したばかりの住宅であった。玄関から入ると道場があり正面に尺八が飾られて道場の後ろが住居になっている。幸い空山師も在宅され竹道の談義を1時間ばかり、それに本曲も吹奏されて聞くことが出来た。其の道の大家だけに薀畜を傾けた氏の話に感銘するものがあった。筆者はこの時鈴法寺の普化禅師の木像を初めて拝見した。丈は25センチくらいの座像で、洵に古い物と感じられたが首部がない儘であった。其の後どうしたか不明だが、今は地元の人々も何とかして再び鈴法寺の本尊として迎え、この地に祀りたいと思っている。この度新町鈴法寺の開基と云うべき吉野織部之助の居宅が都の文化財として指定され屋敷割りや井戸等も併せて保存される事になったが、この地にあった普化宗総本山の鈴法寺も再建とはゆかないが、何等かの形で復活させて関係資料の保存につとめ、郷土の歴史を残したいと念願している。(多摩郷土研究の会々員)

全国名流尺八本曲大会(昭和27年10月17日)(その1)

このプログラムは、鹿児島県在住の竹友、渡辺桃花氏より2020年5月に送られてきたものを掲載しました。
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全国名流尺八本曲大会(昭和27年10月17日)(その2)

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三浦琴童師から弟子の斎藤周童師宛の手紙(その1)

三浦琴童師から弟子の斎藤周童師宛に出された直筆の手紙です。この手紙は斎藤周童師の子孫の方から、友人の三戸建次氏に贈られたものです。
三浦琴童師から斎藤周童師に出された手紙(クリックで画像を拡大)
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三浦琴童師から弟子の斎藤周童師宛の手紙(その2)

三浦琴童師から斎藤周童師に出された手紙(クリックで画像を拡大)
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秩父宮殿下に錦風流尺八の御前演奏(斎藤周童・山谷孤山)

昭和10年、昭和天皇の弟の秩父宮殿下が弘前31連隊に勤務することになり、その宿泊所は紺屋町にあった菊池長之邸が使用されました。ちなみに、作家・寺山修司の父親・八郎は秩父宮殿下警護のために、紺屋町臨時巡査派出所に巡査として勤務していました。この時に生まれたのが寺山修司であった。写真は、昭和11年12月4日午後7時30分に秩父宮殿下の宿泊所・菊地別邸において、地元の錦風流尺八家、斎藤周童(周蔵)氏と山谷孤山(義雄)氏の二人が御前演奏をした時の写真です。斎藤周童氏は、東大医学部時代に琴古流尺八家・三浦琴童師に学び、弘前に帰ってからは、錦風流尺八三名人の一人、津島孤松師に師事しました。山谷義雄氏は、19歳から津島孤松師について錦風流を学び、弘前では、猿賀神社の宮司であり、また警察官、町長も歴任された方です。御前演奏で、山谷義雄氏が使用されました尺八は、折登如月作の地無し2尺管、中継ぎです。また、斎藤周童氏の使用された尺八は地元の尺八家・三戸建次氏が所蔵されています。
御前演奏の記念写真は三戸建次氏から提供されたものです)
御前演奏の記念写真(クリックで画像を拡大)

大黒屋光太夫と尺八

 

大黒屋光太夫と尺八

1.はじめに

日本とロシアが正式な接触を持ったのは、今から200年前、根室、松前を舞台に繰り広げられたのが最初である。それは、寛政四年(1792) 9月のことで、エテカリーナ女帝の命を受けたアダム=ラックスマンが使節となって、漂流民を引き渡すとともに、日本の交易を求めて根室に来航したことである。この時の漂流民こそ亀山藩領南若松村(現鈴鹿市南若松町)に生まれた大黒屋光太夫その人である。大黒屋光太夫は、加藤曳尾庵の『我衣』によると、宝暦元年(1751)南若松の当時船宿を営んでいたとされる亀屋に生まれ、名を亀屋兵蔵と称し、8才の頃父(四郎次)を亡くしたようである。その後、江戸に奉公に出て、江戸大傅馬町中心に隆盛を極めた伊勢商人の活躍の場に身を置くこととなり、そして、運命の伊勢白子を出帆となる前に国許若松に帰り、大黒屋に養子に入るとともに光太夫を襲名したとある。しかし、それにしても確たるところは未だ不明であり、商家大黒屋に生まれ、後に亀屋へ養子に入ったとする以前からの説も否定できず、今後の文献資料等の発掘を待つしかない。なお当時、亀屋・太黒屋・戎屋など相当の店が立ち並ぴ、参宮客で賑わったとされる南若松の港(船着場)付近は、打ち続く地盤沈下と浸触により、光太夫の生家を含め現在では海中あるいは海浜に没してしまっている。南若松に船若場が存在したことを物語る「すぐ船場」の道標が、今も若松小学校の校庭に保存されている。

2、 漂流7ヶ月

天明2年(1782) 12月9日、伊勢白子(紀州領)の港から廻米、木綿、雑貨などを積み込んだ神昌丸(一見勘右衛門所有)は江戸に向けて船出した。船頭は大黒屋光太夫、船親父は三五郎、総勢十七名の乗組員であった。伊勢の海の玄関口である鳥羽は日和山に風待ちをし、天明 2年12月13日に誰ひとりとして予想もしない運命の待つ外洋へと乗り出していったのである。遠州灘にさしかかったその夜、天侯が急変、海上は暴風が吹きつのる大荒れの海となった。舵をへし折られ木の葉同然の中、帆柱を切り倒し積み荷を捨て転覆だけはまぬがれた神昌丸、あてどなく波間を漂流する結果となった。光太夫以下乗組員は絶望のどん底に打ちひしがれ、神宮の御みくじにもすがりながら漂流すること7ヶ月、天明3年(1783) 7月アリューシャン列島の中の小島、アムチトカ島に漂着したのである。その時、すでに幾八は病弱で息を引きとり、桶に詰められ水葬されていた。

3、 アムチトカ島からイルクーツクヘ

上陸後、7名もの仲間を次々に失った光太夫たち漂流民は、島の原住民やロシアから来ていた毛皮商人らとの交流の中でなんとか命をつなぐとともに、島からの脱出を考える。ロシアからの迎えの船も嵐で沈没したため漂流民とロシア商人たちは、材木を集め自力で船をつくり、在島4年の歳月を過ごしたアムチトカの生活に区切りをつけカムチャツカに向けて船出する。その時、生き残った仲間は総勢9名となっていた。わらをもつかむ思いでカムチャツカに渡った一行は、厳寒のカムチャツカの生活に耐えながらも、1日もはやい伊勢への帰国を望んだが、当時のロシアは、イルクーツクにシベリア総督府が置かれており、光太夫たちの運命はその指揮の下にゆだねられていた。このカムチャツカでは、慣れない生活、特に食物には殊の外不自由で餓死寸前の状態にまで追い込まれることもあったが、厳しい冬を死に物狂い耐え抜く中で、光太夫の聡明さと統率力はよく仲間をまとめた。ともすれば、挫折感にうちひしがれそうになる仲問をはげましてきたものの、このカムチャツカでも3名の病死者を出し、シベリア大陸のオホーツクに到着した時には6名になっていた。その間の光太夫の様子をフランスのジャン=レセップスは、旅行日録に書きとめている。「名前はコーダイユ、彼はたいへん好奇心に富み、鋭い観察力を持ち、身辺に起こったことは正曜に日記に書き記している。ロシア語も理解でき、仲間によく配慮し、不機嫌になることはなく…………」など、光太夫のことを大いにほめる描写が見られる。カムチャツカにおけるほんの3日間とされる接触にもかかわらず、レセップスは、光太夫という人物を実にあざやかに日録に記述し、ヨー一ロッパ諸国に伝えているのである。オホーツクからヤクーツクを経てシベリアの中心都市イルクーツクまで、生き残り漂流民は、日本へ帰国できることを一途に念じながら、昼夜の別なく零下50度を超える厳寒の原野を旅したのである。その辛さは、何にも例えようがなく、このような自分たちの不運を嘆きつつも、ただ帰国というひとすじの光明をはげみとして生きぬいてきた6名の漂流民(光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵、九右衛門)たちは、やっとの思いでイルクーツクに到着した。伊勢白子を出てから実に7年もの歳月が流れた寛政元年(1789) 1月26日のことであった。

4、 キリルとの出会いと帰国実現へ

こうして困苦の果てにたどり着いたシベリア第一の都市イルクーツクではあったが、光太夫たちを待ち受けていたのは、道中凍傷にかかった庄蔵の片足切断をはじめ、九右衛門の病死、新蔵の大病であった。そして、何よりイルクーツク駐在の総督への重ねての帰国願いも握りつぶされ、帰国許可が却下されるという絶望的な状態に加え、しつこく日本語教師になることを強制されたのである。何としても帰国したいと願う光太夫たちは、日本語の教師になることを拒否すると、生活費は打ち切られ、万策つき暗たんたる日々を過ごさなければならなかった。進退きわまった光太夫たちの前に、運命の救い主となったのが、その地でガラスエ場を経営し、日本にとりわけ関心の深かった自然科学者のキリル=ラックスマンとの出会いであった。この出会いこそ、あくまで日本語教師になることを拒否し、何としても帰国の許可を得たいとする光太夫を勇気づけた。らちのあかないイルクーツクの総督を見限り、六千キロも離れたペテルブルグに出向き、エカテリーナ女帝に直接帰国許可を願い出るという最後の切札に全てを託した。キリルとの出会いがなけれぱ今日の光太夫はなく、この漂流話はイルクーツクで終わり、光太夫もその名を歴史に残すことはなかったであろう。光太夫は・キリスト教に帰依し日本に帰ることを断念した新蔵、

庄蔵、そして磯吉、小市を残し、ロシアの首都ペテルブルグを目指してイルクーツクを後にしたのである。寛政

2年(1790) 12月22日のことである。6千キロの道のりを1カ月余りでひた走り、寛政3年(1791) 1月28日に到着したロシア帝国の首都ペテルブルグで光太夫が目にしたものは、宮殿をはじめ、その壮麗豪華な都のたたずまいであり、光太夫にとっては、まさに驚きであり夢の世界とでもいうべきものであった。人が生きるには極限の世界を漂泊し続け、故郷恋しさ家族恋しさから帰国への執念にとりつかれた光太夫は、加えてこのロシアの文化の素晴らしさを、何としても故国日本に、故郷若松に伝えなけれぱならないとの思いにもなったであろう。それは光太夫という人物の成長を物語ってあまりあると想像できる。ペテルブルグに着いて、キリルの献身的な尽力によりエカテリーナ女帝に帰国願いが提出された。そして、待つこと4ヶ月、ツァルスコエ=セロの離宮で当世きっての啓蒙専制君主といわれ、ロシアのヨーロッパ化を推進してきたエカテリーナ女帝に謁見が許され、帰国への強い願いを直接申し出ることができたのである。謁見は、女帝の「ベンヤシコ」(かわいそうに)の言葉で代表されるように上首尾に終わり、しばらくして光太夫たちの帰国願いが正式に許可された(寛政3年8月27日)。ロシアの地で故国にあててしたためた自筆の手紙の中で、日本に帰ることを「優曇華の花」(3000年に一度咲くというインドの想像上の植物)ともたとえてきた帰国が実現することになった。

5、帰国の途へ

ペテルブルグを離れるまでの光太夫は、まさに賓客待過を受け、ロシアの文物や社会の仕組みにも触れるとともに、芝居見物や天文台、図書館、病院、銀行などにも案内された。又、政府高官の家庭生活も経験するなど在京中に文化のいろんなものも目にしたのである。さらに、離宮の御苑長ブーシュの妹のソフィアから聞いたロシア歌謡「ソフィアの歌」をまるで自分の身の上を歌っているようだと捉え、感激して日本への土産のなかにもち帰った。それは『北槎聞略』の中にも記されている。さらには、光太夫は、エカテリーナ女帝の文化的事業にも協力して世界言語の比較辞典の改定に参与したぱかりではなく、ロシア滞在中に日本地図も描いている。やがて、女帝や知り合った人々から多くの銭別をもらい、寛政3年11月12日ペテルブルグを後に念願の帰国実現を土産にイルクーツクに向け出発した。途中モスクワを見物し、同年12月21日新蔵、庄蔵、小市、磯吉の待つイルクーツクに戻った。運命の岐路に立たされたなつかしのイルクーツクでは、日本語学校の教師としてロシアに残留することとなった片足切断の庄蔵や新蔵と、二度と生きて会うことのないつらい涙の別れを惜しんだ。そして、往きとは逆のコースでシベリアの大地を一路ヤクーツクからオホーツクヘと旅した。オホーツクでは、光太夫たちをこの地まで送ってくれた命の恩人キリル=ラックスマンの恩情に感謝し、苦節10年にわたるロシア漂泊の旅にピリオドを打った。キリルの息子アダム=ラックスマンが使節となって光太夫ら漂流民をのせエカテリーナ号は、オホーツクを日本に向けて出発したのである。

6、 根室帰還と日露交渉

寛政4年(1792) 9月3日、エカテリーナ号は北海道、根室の北バラサン沖に停泊、五日早朝には根室に到着し、そして、弁天島付近に錨をおろした。10年にわたる漂流、漂泊の旅を終えて夢にまでみた故国の地に足を踏み入れることができたのは、まさに奇跡にも等しい帰還であった。アダム=ラックスマンは、さっそく松前藩役人に来航の理由を述ぺるとともに、直接江戸への航行を希望している等の内容の書簡を提出した。それを受けて松前藩は、こうしたラックスマン渡来の報せを急ぎ江戸へ進達すべく急使を派遣したのである。寛政4年10月19日、ラックスマン渡来の報を受けた幕府の筆頭老中松平定信は、対策を協議し、沿海の防備に意を払うとともに来航したロシア使節を根室に留め置き、丁重に応対するよう指令を出した。また、ロシア使節と交渉にあたる宣諭使として、目付の石川将監、村上大学の両名を松前に派追することを決定した。一方、根室入港を果たしたラックスマンは、宿舎建設等の準備をし、幕府の指令を待つベく根室に越冬することとなった。ロシア側としては、光太夫ら漂流民を送還するこの機会に、鎖国日本と交渉を持つことで通商関孫の樹立を望んでいたことは、エカテリーナ女帝のイルクーツク総督にあてた指示にも明らかにされておりよく知られている。漂流民の送還は、あくまでも手段であって渡来の主目的は日本との通商関係の樹立にあったのである。しかし、使節アダム=ラックスマンは、根室や松前における交渉では漂流民送還を正面に掲げ、本来の目的である通交、通商関係の樹立のことは背後に伏せようとする姿勢をみせるのである。年も明けて寛政5年(1793)の春4月2日に、漂流民の小市が壊血病で46才の生涯を閉じた。幕府は、せっかく祖国の地を踏みながらのこの不運をあわれんで、後に妻のけんに銀十枚と遺品を下げ渡した。その遺品の一部は、現在若松小学校の光太夫資料室に保存展示されている。ラックスマン一行が、初めての日露交渉に臨むため根室から移動して松前に到着したのは寛政5年6月20日であり、翌21日交渉場所の松前藩浜屋敷に赴き、幕府役人と第1回の日露交渉を行ったのである。その後、会談は2回にわたって行われたが、幕府は「請取証」を届けて、光太夫、磯吉の二人の漂流民を受け取るとともに、ラックスマン提出のロシア側の公文書は受理することはせず、希望であれぱ長崎に出向いてほしい旨を伝えて長崎入港許可証(信牌)を与えている。この信牌の写しも光太夫資料室に保存されている。こうして長崎入港の「信牌」を得て、一応の面目を保ったラックスマンは、7月16日にオホーツクに向かって帰っていった。後になってレザノフが使節となって長崎に来航し、「信牌」をもって日本との通商関係樹立を第一の目的として交渉を求めることになる。

 7、漂民御覧と薬園留め置き

松前において日本に引き取られた光太夫、磯吉の二人は、幕府役人に付き添われて江戸に送られた。江戸到着は、寛政五年八月十七日である。その後の二人を待っていたものは、かれらが江戸時代におけるヨーロッパの国からの最初の帰還民であることもあって、度重なる取調べであった。そして、翌9月18日には、江戸城内の吹上上覧所へも召し出され、将軍家斉、老中松平定信らの前でロシア漂流中の子細について訊問がなされた。その時の様子は、上覧の場に同席した桂川国瑞甫周が『漂民御覧之記』に記している。それによれぱ、光太夫の装いは髪を三つに編んでうしろに垂らし、黒皮の長靴をはき、胸にはエカテリー女帝からいただいた金メダル、そして筒袖の外套…磯吉も靴の他はほぽ同じであった。その出で立ちは、とても日本人とはみえずオラソダ人をほうふつとさせるものであった。将軍の前で役人が聞き糾す見聞体験を、光太夫は実にそつなく、そして当たりさわりのないように慎重に受け答えをしている。桂川甫周は、上覧後も時々光太夫を訪ねて詳しく事情をききとり、『北槎聞略』11巻としてまとめたのである。今日に残るこの『北槎聞略』は、光太夫を語る資料であると同時に、当時のロシアの風俗習慣等について詳しく書かれている貴重な生きた史料として、最近その価値が評価されるに至っている。幕府は、光太夫、磯吉二人の取り扱いについては、寛政6年(1794) 6月になって、長年の苦難の末に帰国したことは賞すべきこととして褒賞金は与えるが、特別の事情あって今回は故郷若松へは帰さず、江戸番町薬草園の住居に手当金を与えて留め置くとしたのである。こうして光太夫らは、みだりに外国の様子を語ることに制約をうけながら薬草園で暮らすことになった。光太夫らの薬草園での生活については、詳しくは判っていないが、光太夫は妻を迎え一男一女をもうけている。息子の亀二郎は、後に大黒梅陰と称する儒学者となっている。又、光太夫らは軟禁同様の生活を送っていたとする見方もあるが、行動については、かなりの自由が認められたようである。大槻玄沢ら蘭学者の集まりとしてよく知られている「オランダ正月」芝蘭堂新元会に出席したり、多くの蘭学者と交渉を持ったようである。光太夫のような優れたロシア通を蘭学者が放っておくわけがなかったのであろう。

8、光太夫の一時帰郷

一方、磯吉は故郷若松への一時帰郷が許されている。寛政10年(1798) 12月18日から翌年1月17日までの30日間ほどである。若松に帰った磯吉は、南若松の心海寺の住職の実静にロシア漂流話を語って聞かせている。心海寺には、実静が聞き書きしたものが『極珍書』と称 した光太夫漂流実録が所蔵されている。このとき、光太夫もほどなく若松に帰ってくるであろうことを磯吉はほのめかしているのである。こうして、光太夫は磯吉に遅れること4年、享和2年(1802) 4月に一時帰郷が許されている。数年前まで、光太夫は一度も故郷の土を踏まなかったというのが定説であったが、昭和61年8月南若松の倉庫から発見された古文書によって、この定説はくつがえされた。光太夫は享和2年4月23日から6月3日までの40日問、勘定奉行の預りとして帰郷していたのである。故郷若松に戻った光太夫は、若松逗留中に肝煎の中川喜右衛門、甥の彦太夫に付き添われて伊勢参宮を行い、また白子の一見勘右衛門の家も訪ねているのであるが、出帆後20年、光太夫の胸中は察するに余りあるものがあったであろう。関の地蔵にも参詣し四十日間の帰郷を終え、東海道を下って江戸に戻った。こうして念顕の帰郷を果たした光太夫は、磯吉と共に番町薬草園で余生を送ることとなる。

9、 光太夫の功績

光太夫の菩提寺である若松の緑芳寺には遺品が伝わっている。また、あちこちに残されている遺墨は、江戸で余生を送る光太夫が求めに応じて筆をとりロシア文字などを書いたものであろう。光太夫が漂泊の旅を続ける中で覚え知ったロシア語、そして知り得たロシア・ヨーロッパの情報等は、桂川甫周は言うに及ばず、仙台藩大概玄沢、下総国古河藩の家老鷹見泉石、幕府天文方足立佐内ら多くの人と交渉をもつ中で伝えられた事実ひとつとってみても、開国への足音がしのび寄る日本にもたらした影響は大きいものがあったと考えられる。それにしても、今もドイツのゲッティンゲン大学に残る光太夫の手紙は、故国にあて数通したためた手紙のうちの一通であり、彼の苦しい胸の内を切々と吐露した貴重なものである。また、光太夫が日本から持参したであろう『節用集』を参考にして、ロシア側から求められて作成した日本地図等、光太夫の遺品を知るにつけても、光太夫の優れた才能と教養が偲ばれるのである。苦節十年の旅を続ける中で常に持ち歩いたといわれる筆墨で、こまめに日記を記すなど、その人柄は一介の船乗りではなく、円満な知識の持ち主として品格を身に付けていたと想像されるのである。

10、波乱万丈の生涯

こうして、思わぬ数奇な遅命にもてあそばれ波乱万丈の生涯を送った光太夫は、薬草園入りから実に34年を経て、文政11年4月15日、享年78才の生涯を閉じたのである。その亡骸は、江戸本郷興安寺の墓地に埋葬された。また、磯吉は天保9年(1838) 11月15日、73才で死去して同じく興安寺に葬られた。しかし、現在のところ両名の墓石は見当らない。なお、南若松東墓地には、漂流後の二年目に、三回忌の追善供養のため伊勢松阪の商人によって供養碑が建てられた。又、亀屋が光太夫の実家であろうが、養家先であろうが、同じく山中墓地に存する亀屋の墓石は、これこそ光太夫の生まれ故郷を象徴するものとして、顕彰に値するものがあると言える。ここに、光太夫の帰国200年にあたり、日本とロシアとの国際文化交流の先駆者として、改めて認識を深め、歴史の一頁を画した大黒屋光太夫の遺徳を偲ぱずにはおれないのである。

「郷土資料館 - 伊勢漂民 大黒屋光太夫物語より」

*大黒屋光太夫と尺八について

 山下恒夫著 大黒屋光太夫  (帝政ロシア漂流の物語)「岩波新書」

 この小説の中で158ページに尺八のことが登場しています。

 また、オホーツクでは、チギーリの守備隊長だったイワン・ノリンが政庁の役人として転任してきていた。旧交を復活させた光太夫は、このノリンに尺八を伝授したそうだ。エカテリーナ号の出港が予定よりずっと遅れたことが、尺八の伝授には時間がとれて好都合だった。ノリンはとても筋がよく、名品「恋慕流し」をどうやら吹けるまでになった。それで、ノリンの努力も祝して別れの記念にと尺八を贈ると、それは大喜びだった。オホーツカ(オホーツク)の県官イワン・フョウドウェチ・クリン(フョードロヴィチ・ノリン)に尺八を教えたりし。かの国になきものなれば面白がりたり。れんぼ(恋慕流し)相応に出来たりしゆえ、尺八をもやりて来たりし・(「幸太夫談話」)

法燈教会趣意書(その1)

以前、大阪在住で明暗蒼龍会の長老・前島竹堂先生宅を訪問した時に拝領しました資料です。昭和24年に法燈教会が設立されましたが、その後、発展もせずに消滅したとのことです。由良興国寺の古川華陵老師が会長、副会長は櫻井無笛師となっています。岡本竹外先生宅に稽古に出かけると、よく古川華陵老師の話がでました。岡本竹外先生は古川華陵老師のもとで参禅されたとのこと。櫻井無笛先生は岡本竹外先生の師匠でした。岡本竹外先生は琴古流は新潟鐵工勤務時代に、菅井一童師に師事されました。ある夏に、地元の新潟で開業していました医師の仲村洋太郎氏が、東京や大阪から有名な尺八やお琴の先生を招いて演奏会を開催、岡本先生は、その演奏会に出かけたら、今まで経験のない、地無し管で演奏された九州鈴慕を聞き、これをやりたいと、その夜は、九州鈴慕を演奏された大阪の櫻井無笛師を自宅に招いて指導を受け、それが明暗尺八の世界に入るきっかけになったそうです。
趣意書の表紙(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

法燈教会趣意書(その2)

趣意書の中に普及部として前島笛潮の名前がありますが、前島竹堂先生のことです。
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

法燈教会趣意書(その3)

趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

虚無僧寺・西向寺記念誌(西向寺奉賛会)令和3年3月

この度、西向寺奉賛会、代表 渡邊照洞氏で「東海道神奈川宿・虚無僧寺西向寺」と題して記念誌が発行されましたので紹介をします。
神奈川県伊勢原市伊勢原1-20-3
電話0463-94-2608
代表 渡邊照洞
記念誌の表紙(クリックで画像を拡大)
記念誌の発刊にあたって(クリックで画像を拡大)

日本の音をつくる(その1)(昭和52年・朝日新聞社発行の書籍より)2021.6.7

古書店で見つけた「日本の音をつくる」と題した書籍の中に尺八製管士・海老沼竹揚氏の記事が掲載されていたので、参考までに掲載します。この時代の日本の楽器の製作者の方々、作業風景に味わいがあります。
表紙(クリックで画像を拡大)
尺八の記事(クリックで画像を拡大)
尺八の記事(クリックで画像を拡大)

日本の音をつくる(その2)(昭和52年・朝日新聞社発行の書籍より)2021.6.7

作業風景(クリックで画像を拡大)
作業風景(クリックで画像を拡大)

第1回現代日本音楽祭(その1)昭和50年12月11日(青山学院大ホール)

昭和50年12月11日(木)法政大学三曲会主催で第1回現代日本音楽祭が青山学院大学大ホールで開催されました。私は昭和47年に宗家竹友社の師範の方に入門しました。それからは、東京で開催される三曲合奏の名手たちに演奏を何度も聞きに出かけました。この演奏会でも、三曲合奏や現代邦楽の名手の方々の演奏もありましたが、これまで体験したことのない尺八には驚きました。酒井竹保師の虚鈴、高橋虚白師の阿字観でした。虚鈴では、長い巻物のような楽譜が机の上から横に長く広げられ神秘的な中での演奏でした。高橋虚白師は虚無僧姿で舞台を歩きながらの阿字観の演奏でした。この2曲だけは、いまだに鮮明に覚えています。後に岡本竹外先生に入門して、これらの曲を学ぶことになりました。
プログラムの表紙(クリックで画像を拡大)
当日の演奏会の曲目(クリックで画像を拡大)
酒井竹保師の1(クリックで画像を拡大)
酒井竹保師の2(クリックで画像を拡大)

第1回現代日本音楽祭(その2)昭和50年12月11日(青山学院大ホール)

高橋虚白師の1(クリックで画像を拡大)
高橋虚白師の2(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(日本経済新聞の記事)2021.5.3

日本経済新聞(2000年1月26日)に掲載されました虚無僧研究会会長・小菅大徹氏の記事です。
小菅大徹氏の記事(クリックで画像を拡大)
小菅大徹氏の記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(東京新聞の記事)2021.5.3

東京新聞(1999年1月10日)に掲載されました普化宗の江戸番所資料が新宿区の指定文化財に指定された記事です。
法身寺に残る普化宗の資料(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(読売新聞の記事)2021.5.3

読売新聞(2001年2月7日)に掲載されました作曲家・池辺晉一郎氏の記事です。
池辺晉一郎氏の記事(クリックで画像を拡大)
池辺晉一郎氏の記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(その1)(リーダーズダイジェストの記事)2021.5.1

昔、私が購読していましたリーダーズダイジェストに掲載してありました、「尺八ー古くて新しい楽器」稲垣真美著の記事を掲載します。
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(その2)(リーダーズダイジェストの記事)2021.5.1

リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(高橋空山氏の記事)2021.4.29

1979年3月9日、日本経済新聞に普化尺八の大家・高橋空山氏の記事が掲載されました。その記事を掲載します。私が岡本竹外先生に入門したのが1978年なので、その翌年のことです。
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その1)

稲垣衣白先生は虚無僧研究会設立の発起人であり、設立後は顧問として活躍されました。岡本竹外先生宅に稽古に出かけた時に、岡本先生から、こんな資料は稲垣先生は持っていないだろうと連絡したら、自分も持っていますとのこと。これには岡本先生も脱帽されたそうです。虚無僧尺八本曲について研究をされましたが、その中で、雑誌・三曲に掲載されました乳井建道師の「本曲余談」の記事に稲垣先生も感心を持たれたようで、乳井建道師のことについて、青森県弘前市の禅林街・鳳松院、黒滝さんは乳井建道師の奥さんの実家、ここから乳井建道師には長女・則子さんがいることを知り、稲垣氏が則子さんに出された手紙の写しを参考までに掲載します。後に、田村則子さんは田村琴子さんという名前になり、乳井建道師が昭和6年に錦風流本調子の譜のガリ版刷りを発行されましたが、後に田村琴子さんは、この本を500部再販され、虚無僧研究会や弘前の錦風流尺八伝承会に寄贈していただきました。
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その2)

稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その3)

稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣束氏の記事(入隊を前にして)普化第17冊・昭和15年8月15日)

入隊を前にして(稲垣 束)(普化第17冊・昭和15年8月15日の記事)

愈々早ければ10月、遅くとも1月には、入隊と言うことに略々確定したので、病院の方は8月いっぱいで暇をもらい、また旅に出かけることにした。そして先ず信州から越後に廻ることにしたのである。信州にはたずねてみたい人で島木赤彦、越後では良寛禅師がある。第1日は信濃追分まで行く。東京から稲実る平野を抜けて、前に現れた山々の間を通りすすきの穂が出揃った軽井沢の高原を楽しみながら、旅の味を満喫して行く。駅から1キロ半余りある旅館「あぶらや」には白樺のちらほら見え隠れする林の中を通って着く。信濃追分には昔の宿場らしいにおいはない。然し数軒の家と、それに塚(これは中山道と北國街道との合するところにあるのであるが)だけは僅かに在りし日の面影をとどめている。第1日目の旅の印象は、旅に来て良かった。なぜもっと早くから旅に出ておかなかったのだろうと言うことであった。次の日は汽車の連絡の時間を利用して小諸で下車し、藤村の懐古園に寄る。懐古園には島崎藤村の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむみどりなすはこべはもえずわかくさもしくによしなし・・・・・・」(千曲川旅情の歌)の詩碑がある。茶店に絵葉書を買いに寄る。茶店のおばさんが初めて碑の出来る頃には唯、何か碑が出来るそうな位であったが、いざ碑の除幕式と言う日になったら、ぞろぞろぞろぞろ日本中からえらい人達が集まって来て、初めて本当にびっくりした。それからは、この辺でも皆、藤村先生、藤村先生になった、等と正直な話をする。小海線はすばらしい眺めの良い線であった。汽車の、のろさ加減もお誂向きである。中でも信濃川上・野辺山。清里あたりが最も良かった。林檎の一ぱいなっている木も初めて見た。小淵沢で又、中央線に乗り換え、赤彦さんの歌碑をたずねる目的で上諏訪で下車してみる。ところが下りて見て、それが行き過ぎであることがわかった。バスで1時間余り、富士見と言うところ迄、引き返さねばならなかった。この歌碑のあるあたりでは、いくらかゆっくり出来るつもりで予定はしてきたものの、バスの中にいる中にもう日の沈む時間になってしまった。バスを下りる時、車掌がこの人は、同じ方に行かれますからと教えてくれた。しばらく後をついて行き、歌碑のありかを尋ねると、私もすぐ下を通りますからと言って案内してもらうことが出来た。バスの停留所から富士見臺迄は3.4丁の距離である。案内してもらった人の問いに答えて、自分はアララギには入っていないことが、唯赤彦さんが好きで歌集も一通り読ませてもらっていること、この碑をたすねることは、今度の旅の大きな目的の一つであること、明日は良寛さまの跡をたずねて越後の方に出ようと思っていること、等を簡単に告げた。「こちらから入ると裏口になりますが。」と言いながら細い道を左に曲がって、まxず赤彦先生の歌碑「水海之泳者等計而尚寒志三日月乃影波映呂布」の前に案内される。碑の右手の方に少し歩いて「ここから晴れた日には富士が良く見えます。」「あそこに見えますのが八ヶ岳です。」「その向こうが蓼科山で先生はあそこにある蓼科温泉に時々行かれました。」それから左手の方に歩いて行かれ少し小さい碑の前に立ち止まられ、「これが伊藤佐千夫先生の碑です。」と言われた。これが佐千夫先生の碑ですか。佐千夫先生の碑もここにあったのですか。何てにつかはしい、いい碑なんだろうとつくづく思う。丸みを帯びた形のいい自然石に「寂志左乃極爾堪弓天地丹御寄寸留命乎都久都九止思布」と書かれてある。そして佐千夫詠赤彦書と揃えて彫りつけてある。大きな土台石に、どっかりのっている。すわりの良い姿は私の想像する牛飼い佐千夫にも、ぴったりである。思わぬえものに嬉しさがこみあげてきた。赤彦先生は佐千夫先生を伴っては、自分の好きなこの富士見の土地に時々やって来られたと言うことである。これらの碑を見ただけでも、アララギも人達をなつかしく思う。案内をしてもらった人に、どうも有難うございましたと、お礼を言うと会釈をしながら自分の家の方へ帰って行かれた。茂吉先生の書かれた赤塚先生の歌碑の前に帰り虚空を一曲吹く。それから二つの歌碑が良く見えるところ迄さがって鈴慕の調べと鉢返しを吹く。吹く終わる頃には富士見台も大分暗くなりかけてきた。そばの少し高い所では、まだ小さい子供が五六人砂いじりなどしながら遊んでいる。晩は上諏訪で宿をとることにしてバスの停留所まで案内された道を引き返す。バスを待つ間に星かげだけはどんどん増して高原らしい夜空になる。バスを待っている自分の前を、一日の仕事を終えたお百姓さんが「おつかれさん」と言う様な挨拶を残して通り過ぎて行く。翌朝は下諏訪の高木と云うところに赤塚さんの以前の住居と奥津城のありかをたずねてから、越後の出雲崎まで行く予定で上諏訪の駅を汽車に乗る。月の名所、姨捨も車中より見る。中秋明月までには稲を刈り取ってしまって又田に水を張り田毎の月ができ上るのだそうである。出雲崎に着いた時には外は暗くなっていた。夏の延長で自分では、まだ日が長いと思っているのだけれども、もう実際には、かなり日が短くなっているのである。駅から町までバスに乗る。何処か適当な宿屋の前で下してくれと言うと車掌さん運転手に相談して「良寛さんのことなら熊木さんのところがいいなあ、そこのおっつあんなら、もの知りだし、良寛さんのものも沢山持ってござる」と言う様な話をしてその前で下してくれる。通された部屋のすぐ下のところが海で波が寄せたり引いたりしている。夜光虫が波打際でピカリピカリするのが見える。沖には漁船の灯が点々と見える。天の川の流れを延長すると大体佐渡ケ島のありかになるのだろう。生憎今日は主人が新潟に出掛けまして、ひょっとしたら今晩は帰らないかも知れません。居れば大喜びでお話もし、案内もするのですがと、挨拶に来る。主人はその晩は帰らなかった。翌朝、女主人が又良寛さまの軸物などを出して来て飯を食べている周りに掛けてくれ、良寛堂の拝観を佐藤さんにお願いしようと思って電話をかけましたら、生憎なものでして佐藤さんも今朝一番で新潟の方とかへ行ってしまわれたそうです。それでもう一人の鳥居さんと言う人にお願いして置きましたから、御飯がお済になりましたらご案内致します、と言ってくれた。案内された良寛堂の中には石堂があり、枕地蔵と「古へに変わらぬものはあらいそ海とむかい見ゆる佐渡の島なり」と言う歌とが彫り込んである。その石塔の裏面の扉を開いて、篤志の人々から寄進された禅師の遺品等を見せてもらう。線香をつけてもらって調子の一曲をゆっくりと献じてから案内にある良寛遺跡めぐりの栞を一枚もらい、鳥居さんのお宅で良寛禅師の色々のものを見せてもらってからバスと汽車を利用して遺跡めぐりに立つ。まず島崎の降泉寺に良寛禅師の墓をたずねる。お墓の前では虚空を吹く。駅への帰り道木村邸内の良寛禅師遷化の地で調子一曲を吹かせてもらい、次は国上山の五合庵へと向かう。夕ぐれの岡でバスを下り涌井と言う茶店で道順を聞くと小学校六年になるその家の子がわざわざ一緒について来て案内してくれた。かなりの道のりを少しも厭う様子もなくくれたのには何だか済まない様に感じた。然し有難いことでもあった。西口から登った五合庵への道は今でも中々険しくこんな道を村まで毎日托鉢に登り下りされるのは、さぞ大変なことだったろうと想像して見る。特に雨の降る日などは一人である。夕暮れの岡から又バスで東三条に出る。その夜の夜行でいったん東京に帰ることにする。四五日目には又東京を立って仙台秋田青森にでも廻ろうと思って先ず野蒜の後藤桃水先生のところにお寄りする。その晩、先生のお帰りは遅かった。実は先生は知らぬ間に或る県会議員の候補者から、唯一人の応援弁士として頼み込まれてしまわれて、そのお役目を果たす為に毎日、何か所かの応援演説に、民謡の話をしながら今日も歩いて居られたのである。翌日も11時の電車でお出掛けになることになっていた。その為、時間がないので朝御飯前から私に竹の稽古を始めて下さって、鈴慕を聞きながら丁寧に、大事なところを色々と直したり注意したりして下さった。そして行先のことを話すと、そうですか角館ならば小林旅館がいいでしょう。それから帰りがけにでも東根温泉に寄って御覧なさい。そこに行けば山形県の民謡は大体聞けますし大津絵の歌い手に縄野と言う人がいます。私が手紙を出して置きますからと言って下さった。先生のお宅を立つと仙台の小梨錦水先生のお家を初めておたずねして先生の霊前に鈴慕の一曲を捧げた。小梨先生のところにお寄りする様になった次第は、一通り稽古が済んで話をしている時、急な思いつきで、そうだそうだ私もしばらくご無沙汰しているし先生もこの頃は尺八の音をしばらく聞かれないだろうから、時間の都合がついたら一つ寄って鈴慕を吹いて行って下さい。あなたも孫弟子にあたるわけだし、そうしてもらえば私としても大変心持がよいからと言うお話が出、自分としても一度はおたずねして置かねばならない気持ちがあったので、それでは早速お寄り致して見ましょうと言うことになったのである。献曲を済ますと直ぐ秋田の方に向けて仙台を出発した。然しその日には、とても行きつけないので、鳴子で下りて一泊し、翌日は秋田角館の小林旅館に着く。この町は明日から三日間はお祭りである。早速胡弓と三味線の名人西宮徳末さんをたずねてみる。旅に出る前ちょっと葉書を出して置いたので楽しみに心待ちして居られたそうである。引きとめるままに四晩も小林旅館に宿をとることになった。お陰様で秋田のお祭り気分を充分味わうことが出来た。一日目等はオヤマに一緒に乗せてもらって三十分位もひかれてみた。オヤマと言うのは四ツ輪の木の車で真ん中の高い所に人形を飾りそれ等を背景にしてオバコ達が踊る舞台が前にあり、お囃子連中は人形や飾りや幕等でかくれた下の部分に陣取るようになっておって、前に付けてある網を町内の子供や若い衆達が声を掛けながら引いて歩くのである。オヤマは各町内で一つずつ出来る。お祭りが始まると、お屋敷(前の殿様)と氏神にまず挨拶を済ませてから町内を廻って歩き、おみきや祝儀等をもらった家の前とか或いは出征家族の家の前に止まって、秋田甚句とか、おばことか秋田音頭と言った様な唄や囃子に合わせて擂おばこ達が踊りを踊るのである。(ここに囃子と書いたのは太鼓、三味線つづみ横笛、摺り鐘等からなっている。秋田に来た大きな収穫はオヤマコ唄を初めて聞いたことである。秋田の民謡に又一つ好きな唄鄙増えた。初めてここに着いた頃には言葉がさっぱりわからなかったが、居る中に一つ二つと段々とわかる様になって来る。やっぱり日本語ならばこそ、と思う。そして段々言葉使いが耳に慣れて来るにつれて此の地方の人達の言葉の言い現し方がいかにも直接的で鄙びたているのに好感がもてる。田沢湖にも行って見た。水の奇麗さはすばらしい。深いことも特徴らしい。ちょうど夕暮れ時にかかったので景色も中々良かった。夏の朝などはさぞ良かったろうと思う。少し東京を立つのが遅すぎたのと角館に居すぎた為に十和田湖へは行く時間がなくなってしまった。それで十和田湖行は中止して後藤先生が手紙を出して置いて下さった山形の東根温泉に立つことにする。東根の本館前に着く。かなりのはげしい雨である。縄野さんは眼が不自由なので晩ではあるし、この雨の中を来てもらうのは気の毒だと思ったけれども、宿の女中が迎えに行ってくれ、縄野さんも喜んで来てくれ、大津絵を初め色々の山形の民謡を、唄ったり話したりして聞かせてもらう。翌日は斎藤、椎名等と言う人達も一緒に来てくれて、山形県の民謡を一通り、居ながらにして聞くことが出来た。これに一に後藤先生のお陰である。本郷館には二晩泊まって又東京に帰る。今度は故郷に寄って京都に向かうことにする。早ければ京都にいる中に軍医候補生の採用通知が来るかも知れない。然し居所さえ分る様にして置けば何処に入隊と言うことになっても間に合うと思って、出発したのである。第二の旅を終わって東京迄引き返した時、谷北無竹先生から今月の末頃入洛だそうであるが出来ることなら、もう少し延ばして十月一、二、三日に吉野山蔵王堂で行われる後醍醐天皇六百年御忌に出席されてはどうか、この法会中に献曲の依頼を受けたから、と言う意味の葉書が着いていた。三十日の夕刻先生のお宅に着くと先生はお留守であった。ご親戚の方で薬剤官として出征されていた方が戦病死されて、そのお弔いがてら二十四日に山口の方に出発されたままだそうだ。明朝十時ごろ皆で吉野駅に落ち合うことになったらしいから、その足で櫻井さんの所まで行ってもらえば、まことに結構だけれど、と奥さんのお話である。それで早速住所を聞いて大阪の櫻井さんの家を訪ね、その晩はそこで御厄介になる。その前日、星さんも櫻井さんのところに来られ、又谷北からの来信もあって、明朝即ち十月一日の朝七時に櫻井さんのお宅へ皆落ち合う様に連絡が取られていた。翌朝七時少し過ぎに迎えに行かれた星さんと一緒に旅疲れの色も見えず中々お元気で谷北先生がおいでになった。大軌電鉄を利用して直ぐに吉野に向かう。此の日の我々の乗った電車は超満員で身動きも出来ない位であった。が皆吉野山に行く人ではなくて橿原、畝忘などでもかなり下車した。吉野駅から蔵王堂まで約十二三町、途中まではケーブルカー等もあるのであるが余り人が沢山なので我々はぼつぼつ歩いて登ることにする。いざ登って見ると案外急で羽織袴に下駄履きと言ういでたちでは中々登りにくい。ケーブルのある辺り一帯が下の千本である。「吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは櫻なりけり」とか「花書よりも軍書にかなし吉野山」俳句もここまでいくといい、とか「古陵松柏吼天飄寺尋春春寂梁眉雪寒僧時輟帚落花深所説南朝」と小声で吟じながら、吉野山の詩としては此の右に出る詩はないだろう晝と感慨をもらしながら谷北先生もお登りになる。金剛山寺本坊で昼食を戴き、記念品等と共に、後醍醐天皇六百年御聖忌大法会次第を戴く。それによると午後一時からの大法要に引き続き奉讃尺八吹奏と言うことになって居り題は「時雨」と言うことになっていた。我々の吹奏経過と言うのは読経が終わるとお坊さん達は皆着席され、我々が直ぐに正座に着かされて、導師無竹先生の後に三人一列に並んで「虚空」の献笛を二尺管で吹奏したのである。吹奏し始めたのは予定が次第に遅れて来たので恐らく午後二時半近くであったろう。堂内は非常に静粛であった。その為、最後の余韻まで吹き終わらせてもらうことが出来た。献笛が終わると入場の場合と同じ様に又簫、篳篥等の献奏中に一同の退下が行われる。それについで外では平安許雅楽部員、京都禮楽会員の人々に依る舞楽は行われて第一日午後の法要が終わった。蔵王堂にいる時、金峰山寺の執事の方が挨拶においでになって、後醍醐天皇も大変尺八をお好みになり唯お吹きになったばかりでなく、御自身で製管すらも、おこころみになった、と言う話をされた。我々竹黨にとっては嬉しい話である。今度、天皇の御聖忌が大々的に営まれるに当たって、谷北先生のところに献曲の御依頼があったことも、その様な御縁がもとになったのであろう。その晩、我々は宿を「ほうのや」にとった。翌朝は五時迄には皆床を離れ、後醍醐天皇の御陵へ献曲に出掛ける。中の千本の終わりになる頃に、昭憲皇太后の「吉野山御陵近くになりならん散り来る花もうちしめりつつ」の御歌碑がある。御陵の御前で谷北先生を中心に一列に並び「虚鈴」の献曲をする。石段を下りて来て如意輪堂で又虚空を献曲。お堂を出て来ると住職らしいお坊さんが昨日はどうも結構な竹の音をご相伴されて戴くことが出来まして誠に有難うございました。唯今ご案内を言い付けて置きましたから、どうかごゆっくり宝物を御覧になってお帰り下さいませ。と言って門の外に出て行かれた。一通り御宝物の説明を聞いて宿に帰る。朝御飯を済ますと間もなく宿を出発。吉水神社、吉野神宮にお参り、吉野神宮駅から又大軌電鉄で櫻井さんのお宅まで引き返す。私はそれから又谷北先生のお供をして八瀬の先生宅まで帰った。晩は先生に「虚鈴」の稽古をして戴く。虚鈴は明暗流尺八の特色を随分はっきり持っている曲だと思う。翌三日は谷北先生のところの仏様の命日だったそうである。午前中お墓参りにお出掛けになり、お坊さんが来られてお経をあげて戴かされたりした。午後、小午睡の後、松茸狩りに私を連れて行って下さった。此の松茸狩りは私にとっては此の旅を通じての非常に印象的なものであった。それ故少し詳しく書いておきたいと思う。この日お天気は朝からどんよりとしていて降りみ降らずみと言ったお天気具合であった。大した降りも無さそうだからと言って松茸狩りの服装を一揃い持って来て下さる。ズボンを佩き跣足袋をつけ脚絆を巻いて半纏の様なものを着て其の上から帯を〆、手には小手をはめ頭に手拭いをかむり、鎌一丁と籠を持つ。これで一人前に服装は出来上がったのである。出来上がった服装を見ると谷北先生の方は板についているのだけれども、自分の方はどうしても、にわかづくりのかけ出し姿と言ったところである。鎌は猪での出て来た時の武器になるのだそうである。木犀の花が咲き出すと松茸も出始めるのだそうで吉野山にいた時も木犀の花の横を通ると「もう松茸が出ています」とおっしゃっていた。先生は毎年九月二十九日頃に初めて松茸狩りに行かれ、二三本の松茸をとって来られるのが例だそうである。又松茸は少しづつの移動はあるが毎年殆ど同じ場所に圓を描いたり、帯状に生えたりし、同じ山でも場所に依って早い遅いが何時も決まっているとのこと。又毎年生えているところでも大きな松の枝を一本切った為に松茸が生えなくなったり、生える位置が変わったりすることもしばしばあると言う。昨年だったかの大暴風雨には非常に異動を来したそうである。「この辺りは随分皆でよく通った道です。西先生は俳句をひねりながら、奥さんは花を摘みながら、谷君は竹を吹きながら」等とお話になる。しばらく行くともう松茸の出るところらしい。ちょっと探す様にされたかと思うと「出てますます」と言って松葉を少しさばいて松茸の頭を見せられた。いい松茸が二本も頭を並べて生えている。「こんなにしてとります」と根本の方を握ってぐるぐる廻しながら取って見せて下さった。その周りには私などでも目につく様に松茸が隠れている。真似をして取って見ると心持のいい音をたてて少しも損なわれず根本から抜けて来る。一通り探してもう有りそうにないと次のしろの方に向かって歩いて行かれる。先生の様子を見ていると非常に気持ちがいい。一口に言えば非常に自然なのである。あんな風に採ってもらえれば松茸だって生えたことに満足を感じ採ってもらうことに喜びを感ずることであろう。しろに当たるあたりの松葉など殆どいためない様に移動させない様に探して歩かれ、同じ位の小ささの松茸でも余り大きくなれない様な位置や状態に生えたのは、さったとお取りになるが、まだまだ成長出来る様なのは、この次の時に残して置かれる。それが実に自然でできぱきとしている。そしてこの様なことが何時誰がとりに来ても良い山で行われるのである。残して置いたら人にとられるだろう等と言う懸念は何處にも見えない。此處にとりに来る人達は皆こんな風に松茸を可愛がりながら大事にしながらとりのかと思うと何だか心持が良くなって来る。線s寧は籠の穴を埋めるのにも無駄な木など一本も一枝も傷つけられない。足元にまばらに生えて居る歯朶の様なものをぷつんぷつんと鎌で切って上手に穴をつめ又これを松茸の下敷きにもされる。何時も早く出るところでは一本だけ大きく開いてしまっていた。「あれあれあそこにはあんない開いてしまっていますがな。こんなのは毎年二十九日頃に取りに来るとちょうどいい大きさで見つかるのですが。今年は来ようが遅かったので。」と言いながらお取りになる。こんな様にして五六箇所、しろを探して歩いた。其の中一二箇所がまだ出ていなかった朶これは毎年遅く出る場所である。「これでもう終わりです。」と言われる。本当は済んだ様な気がする。もういくら他の所を探しても無駄であると言うことが感じられる。まことに手に入った探し方である。これからは帰り道である。雨が少し降り出す。採った松茸を濡らすのは良くないと言って又鎌で歯朶を切ってかぶせる。先生は道の所々で下に落ちている松の枯れ枝をぽつりぽつり拾いながら帰られる。山のはずれ辺りで軽く一抱え位になる。松葉が付いたり付かなかったりしている様である。これで一週間や十日の焚き付けになるますと笑っていたりした。いくら慾深な山持でも先生の持たれた枝に己が所有権の存在を主張しそうにも思われないそんな枝ばかりである。山を下りながら、比叡山の方に当たる地形の説明をして下さった。松茸は持って行った籠に半分近くもとれた。晩はその松茸で早速お吸い物を作って下さった。朝はわざわざ松茸飯をたいて下さった。残りはおみやげとして皆私が家に戴いて帰ってしまった。大変香りのいいおいしい松茸であった。家に泊まること三晩、私は軍医候補生の採用通知を受けとった。そしてこの原稿は明日入隊すると言う日、やっと大いそぎで書き上げたのである。(十四年十月十五日)

追記

この記事の中で、金峰山寺本坊で後醍醐天皇後六百年大法会で谷北無竹先生他三名が献奏されましたが、その方々は、谷北無竹門下の櫻井無笛氏(岡本竹外氏の師匠)、星侶竹師、稲垣束氏。稲垣束(衣白)氏、岡本竹外氏は虚無僧研究会設立の発起人です。

稲垣衣白先生の記事

虚無僧研究会の設立、その後も虚無僧研究会の顧問として活躍されました

稲垣衣白先生が、学生時代に機関紙「普化」に投稿された記事を掲載します。

 

愈々1月いっぱいで学生生活も終わってしまった。15日も立てば医局の生活が始まる。ここで生活の上にくぎりを付ける為暫くの休みを利用して初の1人旅に出掛ける。

1.東北へ

 東北の寒さは一体どの位か、さっぱり程度がわからない。今の自分の体にとっては寒さが苦手である。で足先だけに特別防寒の注意を払い出発の用意をする。荷物は鞄1つに尺八1本。それに洋傘1本を携えた。尺八は去年春、京都の医学会について行った折、谷北先生の処から、無理におねだりしたのもで2、3日前、やっと銘の蒔絵が出来上がった。谷北先生の折角の御揮筆をいくらか殺してしまった様なきらいはあるが、まずまずの出来栄えなので先生にお見せ出来るのが嬉しい。旅に出かける前の稽古日浦本先生に旅のプランをお話すると、ではこんな風に行ってみてはとコースの話、それに3枚の紹介状を書いて下さった。この旅の目的は尺八の先生を訪ねたり、東北の雪を眺めたりするのが大体の目的である。三枚の紹介状は志野屋、後藤先生、それに橘屋旅館宛で、名刺の処にこう書いてある。稲垣さんといふ、私のところに親しくしている人がお尋ねします。都合では泊まるかも知れません。

志野屋御主人様。

 普化尺八会員にて只今、私の処で鈴慕を稽古しています、稲垣君がお尋ねします。よろしくお願い申しあげます。

後藤桃水先生。

稲垣君と申すお人が貴旅館に行きます。優待して下さい。

橘屋旅館御中。

汽車の中で読み返ししながら泊まるかも知れません等と書いて下さった処に案外1番長く泊まるようになるかも知れん等と考えてみる。第1日目の晩は「平」で下りて卒業の挨拶かたがた親戚へ寄り翌朝早く平をたって仙台に向かう。仙台には馬術の方の試合や学校からの旅行で二度許り来たことがある。駅の前で昼食を済ますと、すぐ電車で野蒜にむかう。東北須磨で下りて浦本先生の書いて下さった略図を頼りに志野屋までつく。志野屋は駅から十分位の距離のところにあるのであるが、電車に乗ると間もなく曇りだし、何だか雪模様のようで風もかなりある。歩いていると耳が非常に冷たい。行逢う人達は皆顔だけ出して頬かむり兼用の大きな襟巻をしている。この辺へ来ると、あの様な恰好が必要なのだろうと感心して見る。志野屋では部屋の用意が出来る間、あたっていた家族用の大きな「囲炉裏」が一番気に入った。爐の外側には灰でなく濱の砂が用いられ綺麗になでてあった。上からつるしてある茶釜の大きさも色つやも中々いいものだった。自分の部屋に入ってお茶を1吸飲むと直ぐ大塚の後藤先生を訪ねてみた。然し先生は放送局の用事でお出掛けになり、お帰りは昨晩9時過ぎだったが、今日も何時になるか一寸見当がつかないとのこと。明朝又、お邪魔に上ることを言伝えしてもらうことにして志野屋に引き返す。夜はかなりの寒さであった。朝起きて見ると雪が3、4寸も積もっていた。東北の雪景色だけは満喫出来そうである。旅装を整えて後藤先生をお訪ねすると、先生は心よく迎え入れて下さって、朝の10時から午後の四時半まで一緒に鈴慕を吹いて下さった。最初は小さく切々々。それが1通り終ってから全体を通して何回も吹いて下さった。然し大部分は小梨錦水先生のことについてであった。「先生は本当に名人でごわした。とうてい真似の出来ない竹を吹く人でした。ウンウン。」「先生が竹を吹かれるとまるで竹を楽しますために吹いて居られた様でした。」「我々の竹はせいぜい自分を楽します為に吹いているのです。」この様な感慨を含めた言葉を聞かされて非常に嬉しかった。この言葉を聞く為だけにでも仙台位まではやって来てもいい様な気がした。それから「小梨先生の先生である黒澤と言う人は、もっともっと名人だったそうで、小梨先生も一度で良いからその先生の竹を聞かせたかった。もう腰が曲がってこんな格好で吹かれたが、それはすばらしいものだった。と言う事を時々言われたものです。昔の人は皆うまかったものらしい。」「小梨先生は稽古に行っても余り竹を吹かれなかった。3度も吹くと、もうさっさと竹をしまって了はれる。そして長い時間稽古をしても仕方がないと言って居られた。我々と一緒に稽古に通っていた者でも、それが面白くないと言って稽古に行くのを止めて了つた者もかなりある。」「小梨先生は貧乏だったので障子等も破れたままにしてあった。我々弟子連中は出かけて行って自分たちの手で障子の貼り替え等をやったりしたものです。私共はそんな教育を受けて来ました」「私が小梨先生のところに初めて稽古に行ったのが17歳で先生は28でした。先生は20位で、あのくらい上手になってしまわれたらしい。先生は23の時片目を不自由にされて虚無僧にも出られなかったのだが」その他、小梨先生のことに就いてはまだまだ話された。それから虚無僧に初めて出る時の話や、まだ1度位は暖かくなったら出てみたいこと。又、私などにも機会があったら出てみるといいこと等をお話下さった。四時半頃、先生宅を辞して又仙台に引き返した先生はわざわざ大塚の駅まで送って来て下さった。仙台駅に着くと又、ぱらぱらと雪が降りだしていた。仙台では針久本館に宿をとることにした。ひと風呂浴びて夕ご飯を済まし、そこから余り程遠くない跡付町に小笠原清太郎と云う老人を訪ねて見る。その老人は竹つくりであって小梨先生に竹を習いながら小梨先生の竹だけを作っていた人である。小梨先生没後は竹を吹かず竹を作らず、一介の飴売りとして木の箱の様な乳母車を引き小さなラッパを吹きながら飴を売って生計の足しにしている人である。然しこの冬は体中が痛くてずーつと床につきづめだそうである。私が尋ねて行った頃には大きな炬燵を入れてもらってもう眠って居られた。私が行ったので息子夫婦に起され、目をこすりながら、それでも嬉しそうに目を覚まされた。携えた一管を出し、あなたの作られた名管が1本私のところに来ましたよ。京都の谷北先生が名前も付けて下さって、こんなになりましたと渡すと、嬉しそうになでて居られた。「昔、或坊さんが何かいい音がするので藪をのぞいて見ると、竹に一つの虫のくった様な穴があいて居て其のところに風が吹き付けホーと鳴っているのであった。」と云う尺八の来歴や又「尺八は一尺八寸だから尺八とつけたのではないです。これも尺八を、こんなに作り上げた人が、さてさて何と名を付けようかと思ってさんざ苦心したが中々いい名がない。そうこうしている中、ふと自分の虚無僧生活からヒントを得、長さの単位である尺を頭字に取り托鉢の鉢を後にくっつけて。尺八と名付けに、これまでの3年間もかかったそうです。だから長さは一尺八寸とは決まっていません。」と言う事や山谷、鶴の巣籠りの曲の出来た由来も話された。皆朴拙な仙台弁で話されたが、その味をここに書くことが出来ない。清太郎さんは余り大きくない丸顔で大きな鼻が顔の中央にどっしりと位置を占めている、純朴な中にどこぞに名人気質を持って翁である。後藤さんは書生時代からよく小梨先生のところに来られた。吹き振りも先生そっくりである。と言う様なことも言われた。持って行った竹で鈴慕の竹調べ一曲を吹いて別れを告げる。翌朝は仙山線経由で車窓から雪景色を眺めながら日本海岸の温海温泉まで行く予定で仙台を立つ。仙山線ではトンネルの中で十数分も反対列車が擦れ更はる迄待っていたりしたので一興であった。奥羽本線に乗り換えると段々すばらしい積雪である。杉の木等がかたまって生えているところ等はクリスマスツリーさながらである。駅々の近くでは人夫が大きな雪の塊りを運んでいた。緩い所で生れるとこんな生活なんかは夢にも見られそうにない。新庄迄の積雪は非常なものである。僅かのホームを歩いて陸羽線に乗り換えるだけでも吹雪のために雪だらけになった。乗り換える處、乗り換える處で汽車は遅れる。吹雪のために車窓は曇る。古口と言う駅まで行き着くと、先になだれが起こったからここで1、2時間は停車であると車掌が言って来る。やれやれと思っていると15分位で動きだしてくれた。それから間もなく吹雪はやんで最上川沿いのすばらしい景色を窓に寄りかかって眺めることが出来た。狩川邊から日本海方面に向かった雪景色は雄大なものであった。余目と云うところに着くと羽越本線が4、50分位遅れて来ると駅員が言う。この辺の人達の顔を見ると汽車の遅れて来ることなど、少しも気にかけていないらしい。皆当然らしい顔をしている。東京などにいると、自分などは時間の観念なんか余り明瞭でない方であるが、こちらの人達に比べるとそれでも引け目を感じざるを得ないのは我ながらおかしい。羽越本線に乗り換えても雪が降ったり止んだりする。地上の雪を吹き上げる景色も中々の見ものである。そんな中を村から村へ大人や子供が歩いているのが所々にに見える。よく雪の中へめり込んで了はないことだと感心した。この辺りは固い雪でも降るのかと邪推したりしてみた。聞いてみると、あれでも矢張り道があるのだそうで、人はその上を歩いているのだそうだ。温海に着く前、三瀬辺りから又盛んに降りだし、外は真っ黒くなって来る。温海の温泉部落は駅から道以上も歩くそうで、余り雪がひどいとバスも駅まで来るかどうかは疑問である、と或人が言う。下りて見てバスも車も無ければ一汽車遅れて、東京に直行する予定で下車してみる。下りてみると、まだ他に数人の人があってバスが来ることになった。予定より2時間以上遅れて橘屋に着くことが出来た。宿に着くと女中が真っ先に炬燵を持って来てくれた。湯につかって体を温め、夕ご飯を食べる。御馳走等も中々あって本当に優待である。外は風がかなり吹いていてガラス戸の音だけが、やかましく鳴っている。夏は中々いい所だそうだ。翌朝は温海を立ち日本海の波を見ながら清水トンネルをくぐってひとまず東京に帰る。

1.京都へ

去年の春、学会見物について来た道を、たどりたどりに宇治「花やしき」迄着いた。他に余り泊り客もいない一夜を明かして翌朝は朝飯を済ますと直ぐ谷北先生のお宅に出かけた。谷北先生のお宅に学会の終わりの日について行ったのであるが、いざ自分1人で行くとなると何処から何に乗り換えするのが一番良かったのか曖昧になってくる。先生のお宅に着くと例の離れ座敷に通され、炬燵にあたりながら今までしてきた旅の話などする。昨日、福島君がやって来たそうである。今日あたり京都を立つらしいとのこと、1日違いで京都では会わなかったわけである。福島君も私が東京を出ると間もなく旅行に出かけたらしい。八瀬の大橋はまだ不通であり、人足が川べりの修理や川底の整理をしている。谷北先生のこのお座敷も二尺位黒く壁が上塗りしてある。これ等は皆、昨年の八月だったかにやって来た大雨、大水の名残である。谷北先生のお宅には去年の五月頃修学旅行の道すがら、まだ一度お邪魔に上れる機会があったのであるが、出発少し前、偶然腹をこわして了って旅行に加わらず、とうとうお訪ねする機会を一度失って了った。先生は私の遠来の心をくんで下さってか望むままに虚空一曲を何度もお聞かせ下さり、また一緒に吹きながら直して下った。2月は日の短い性か、お暇する時が、またたく間に来て了った様でしたがなかった。然し、また来て見よう等と言う気休めを持ちながら暮れかかった八瀬の地をおいとまする。花やしきまで帰って来たら8時近くになった。10時頃まで竹を吹いたら葉書を書いたりする。翌朝は少し朝ご飯をゆっくり食べて花やしきを立ち虚竹禅師の墓を尋ねてみる。中々わからなかったが、ようやく尋ねあてて阿字観一曲を捧げる。吹かんが為に虚勢を張って吹いている様な、俗っぽい自分の尺八を淋しく思った。又、今度此の墓の前で吹ける日があるならば、もう少し俗人臭のとれた竹が吹ける様に、そんなことを思いながら普化塚の境内を出た。

 

著者(稲垣束)衣白・虚無僧研究会顧問

平成七年一月二十六日(八十歳没)